亡き王女のための輪舞曲 -1-



血飛沫を上げながら海に落ちる―――
その姿を目にした瞬間、脳裏に幾つもの記憶の断片が蘇った。
それは荒れ狂う波のように激しく容赦なく襲い掛かり、その時の俺は一瞬「自分」を見失ったほどだ。
あの記憶のフィードバックは、その後の俺を決定的に変えてしまった。

覚えているはずがない過去。
自分のものではない記憶。
けれど、もう二度と消せない、忘れることのできない想い。
すべてを手にしてしまったのは、俺だけなのに。







その姿を見れば胸がときめく。
声のする方に耳を澄ませ、気配を感じて息を殺した。
その手が触れるものを愛おしく想い、見つめる先に自分の姿を映しこみたいと切に願う。

想いを抑え切れなくて、とうとう自分から誘ったのは同じ船に乗り合わせて暫く経った頃のこと。
嫌悪から拒絶されるかと思ったが、思いのほか容易く乗ってきた。
安堵と不審と、歓喜と絶望と。
いろんな気持ちをない交ぜにしてすべて押し隠して、ただの性欲処理の相手を演じる。
これ以上、彼を手に入れる術なんてないのだから。
俺たちは、男同士だ。


命を懸けて愛した男の面差しを、ロロノア・ゾロはそのまま持って生まれてきた。
初めて会った時すでに、何か心が疼くような感触はあったが、はっきりと記憶として蘇ったのはゾロが鷹の目に斬られた場面を見てしまったから。

壮絶に舞い散る血飛沫。
立ちはだかったまま倒れ行く男。
受け止める波と、絶望の叫び声。
その瞬間、悲鳴を上げたのは、俺ではなく俺の中の彼女だったのだろう。

愛していた。
誰よりも、何があっても、彼だけを想い彼だけをひたすらに求め続けて。
死して尚、忘れえぬ面影を追って。

ひとたび想い出せば、封印されていた記憶は波のように次々と押し寄せて俺を翻弄した。
どんなに彼を愛したか。
どれほど彼に愛されたか。
二人で過ごした日々の輝きも、穏やかなひと時も。
走馬灯のように蘇っては行き過ぎていく過去の断片が狂おしいほどの郷愁を連れて来る。


戦に巻き込まれ明日をも知れぬ混乱の中にあっても、彼がいれば何の不安もなかった。
すべてが歓びだった。
彼こそが命だった。
そんな彼を失って、彼女は壊れた。
その身体も心も、すべてを打ち砕かれて終わりを告げたはずなのに、どうして死んでいったのかさえ、もう想い出せない。
彼を失った瞬間に、彼女もまた死んだのだから。



そんな記憶を抱いたまま“仲間”として船に乗り、普段は喧嘩相手として過ごすしか俺には手立てがなかった。
記憶の中の自分は女性だったが、今はれっきとした男で、どちらかと言うと男に嫌悪を抱くぐらいの女好きだ。
“サンジ”として持って生まれた性と性格、そして嗜好。
それに相反する記憶と恋慕。
この板挟みにあって、俺の心は激しく揺れた。

過去は過去として、今の人生を真っ当に生きるのが正論だろう。
現にゾロは、何一つ覚えていない。
もしかすると、面影だけが似ている別人なのかもしれない。
それなのに、俺の気持ちは理性を裏切ってことごとくゾロへと向かってしまう。
その姿を見れば胸がときめき、その声を聞けば心が震える。

これは過去の亡霊か、彼女の忘れ難い執着なのか。
それらに取り込まれていつの間にか身動きできないほど、追い詰められた自分がいた。

ああどうしよう、俺はゾロが、好きだ――――






「まあ綺麗。花がいっぱい」
ナミさんが船縁から身を乗り出して、華やいだ声を上げた。
つられて眺めれば、なるほど確かに海面にたくさんの花々が浮いている。
「すげえなあ。進水式でもあったのか?」
「いや、一本一本投げ入れられてるみたいだぞ」
「弔いじゃないかしら」
それにしたって、ものすごい数だ。
次から次へと、まだ美しく咲き誇る新鮮な花が流れていく。


「そう言えばカモメ便にこの辺りの情報が載ってたわね」
言いながら、ガサガサと新聞を広げた。
「ああこれね。王女への弔いの岬」
ロビンちゃんが興味深げにナミさんの手元を覗き込んだ。
「戦で命を落とした戦士と、その恋人だった王女の悲恋。戦士が死に、王女もまた命を落としたのがこの島の岬で、今でも島人や観光客がその岬から毎日花を一輪、手向けるそうよ」
「なんかご利益があるのか?」
「ええと、恋愛成就」
金銭がらみではないと興味を失ったナミさんの手から、ロビンちゃんが新聞を受け取った。

「ノースの王女だったのね。当時のイーストの大国軍にこの地まで連れて来られて、追ってきた戦士さんは返り討ちにあってしまったのかしら」
「おい、あの岬じゃないのか?」
ウソップの声に、みな一斉に振り返る。
行きすぎようとしている島の、遠くに見える岬には多くの人が列を作って連なって見えた。

「あらまあ、霊験新たかなのね」
「花屋には商売繁盛だろうさ」
ナミさん達の軽口も耳に届かないくらい、俺は衝撃を受けていた。

この岬だ、この島だ。
この海だ。
俺が、彼が落ちたのは。

「王女を奪い返そうと単身乗り込んだ戦士は、相当名を馳せた人だったみたいだけど・・・やはり多勢に無勢ね。四方八方から矢を射られ、最期は袈裟懸けに斬られて岬から落ちているわ。最後まで王女を背に庇って戦っていたみたいだけど」
「気の毒に」
男として同情するのだろう、ウソップは眉を顰めて呟いた。
「じゃあ、王女様はその後を追って岬に飛び込んだの?」
「それは叶わなかったみたい。その後兵士たちの手に落ちて、この島に居城にしていたイーストの武将の下で囲われていたようだけど、隙を見て逃げ出して飛び込んだのですって」
「可愛そうに・・・」
俺はナミさんの言葉を、どこか他人事のように聞いていた。

ああ、そうだったのか。
あの後の記憶が途切れているのは、そんなことがあったせいだったんだ。
覚えていたくない、認めたくない、厭わしい記憶。
少なくとも俺の中の彼女は、彼との美しい想い出の中でのみ息づいている。

「そんな悲恋なのに、恋人同士の仲を取り持ってくれるの?」
「心優しく気高い王女様だったようよ。誰を恨むこともなく、己の境遇を嘆くこともなく、ただ恋人のことだけを想い続け、彼の身元に旅立つ時は幸福に笑っていたと記してあるわ」
だから死んでから女神になったのねと、ロビンちゃんは美しく微笑む。

「馬鹿馬鹿しい」
不意に不機嫌な声が響いて、俺だけでなく他のみんなもぎょっとして顔を上げた。

「死んだらそれまでだ。あの世もクソもないだろうに、わざわざ追って死ぬ馬鹿がいるか」
「あんたはまた!ほんとにデリカシーとかロマンとか、そういうもんがないんだから・・・」
肩を竦めるナミさんの横で、クソ剣士はくわあとでかい欠伸をして身体を起こした。
「まあ単なる伝説だろうが、有難がって拝む奴らの気が知れねえな」
ゾロはそう言いながら、腰に手を当てて島を振り返った。
不意に俺は焦り出す。
今なら、あの島に立ち寄ることができる。
そうしたら、あの島に降り立ったなら、或いはあの岬に立ったなら・・・

ゾロは、何かを思い出すかもしれない。


「ナミさん、ついでだからあの島に寄ろうよ」
声が弾まないように、不自然でなく少し抑え気味にして話しかけた。
「え?」
ナミさんはあからさまに嫌そうな顔つきをする。
「やーね、サンジ君たらなに狙ってるのよ」
「勿論、キミとボクとの恋愛成就さ〜」
言ってしまってから、しまった!と臍を噛んだ。
冗談でもこんな言い方をしたらナミさんがOKをくれる訳がない。

「馬鹿言ってないで、次の島目指すわよ。あんな、ログと関係ないところに寄ってどうするの」
案の定一蹴されて、話はそこで打ち切りとなってしまった。
甲板に集まっていた仲間たちが、またそれぞれの場所へと散っていく。
ゾロは鍛錬を始めて、もう遠ざかる島影にも海面を漂う花にも見向きもしない。

船首で釣り糸を垂らしたルフィが、一輪吊り上げた。
これは食えねえかなあなんて呟きながら投げ捨てようとするから、慌てて手を差し出して横から貰い受けた。

まだ瑞々しい、真っ白な花だ。
弔いの花なんてとナミさんは眉を顰めたけれど、俺は水切りをしてキッチンの窓辺に飾った。
この花は、俺のために手向けられた花なのだから。





その夜は、どうにも人恋しくてゾロが風呂から上がってくるのを廊下で待ってしまった。
暗がりに俺が佇んでいるのを見て、ゾロは一瞬片眉を上げて見せたけど、何も言わずに倉庫へと足を向けてくれる。
夜風にさらされて少し冷えた俺の身体を、暖めるように抱いてくれた。
ただの性欲処理と思っているだろうに、ゾロの所作は案外丁寧で優しい。
だからつい、その優しさに甘えたくなってしまう。

ゾロが俺の中に吐き出してしまうと、もう用はないと先に背を向けるのは、いつも俺の方だ。
お互いに気持ちいいから続けてるんだぜと、勝手に理由付けをしてしまったのも俺の方。

だってゾロは何一つ覚えていない。
俺自身に何の執着もなく、むしろ普段はそりの合わない喧嘩相手、忌々しい存在として位置付けられているのだから。
長い船旅の間に溜まった欲を吐き出す手段として、手を伸ばしただけのことなのだから。

けれどこの夜は違った。
ゾロの熱を受け止めて、俺自身も心地よく精を吐き出してしまった後も、離れがたくてぐずぐずとしがみついていた。
ゾロの身体を両足で挟むようにして、まだ芯の残るゾロ自身を、いつまでも中に収めていたかった。

「―――どうした?」
さすがに、様子がおかしいのに気付いたのだろう。
ゾロはいぶかしげに問うて来た。
その響きは労わりというより戸惑いに近かったけれど。

「・・・お前、さ」
腹まで密着させて、いつまでも俺がしたいようにさせてくれているから、その柄にもない優しさに絆されて本音が零れる。
「馬鹿馬鹿しいっつったよな、昼間。王女の純愛・・・」
「ああ?」
すぐには思い至らなかったらしい。
眉根を寄せてしばし考えて、「ああ」と思い出す。
「どっかの島の・・・花が流れてたやつか」
「おう」

ゾロを足の間に挟んだまま、身体を起こした。
くぷりと、滑る感触がして抜けてしまったのが寂しい。
「あの、王女はよ・・・恋人だった戦士のことが本気で好きで好きで、だから相手が死んだって忘れられなくて、すぐに自分も後を追って、けどその後もずっとずっと愛してたんだ」
「ああ?」
ゾロの声のトーンが、幾分高くなる。
「アホか、死んだらそれきりだろ。よしんばあの世とやらがあったら、そこで再会できてんだろ」
「・・・そうだろうか」

それなら、自分が生まれてきた意味はない。
もう一度恋人と出会うために、王女はこの世に再び生を受けたのだ。
今度は足手まといにならない、同じ能力を持つ同性として。
肩を並べて生きていける仲間として。

「そもそも惚れたのなんだの、そんなもん一時のまやかしに過ぎねえ。長年連れ添った夫婦だって、嫌気がさす時がいくらでもあるってんだ。結局は情に繋がれてるだけだろ」
いつになく、たくさん喋るゾロの口調は静かなのに厳しくて、なぜか苛立っているのがわかった。
それにつられるように、俺の鼓動も自然と早まる。

「なら、てめえは・・・」
喉が渇いて声が絡み、一旦唾を飲み込んでから続けた。
「てめえは、愛とか恋とか信じねえの。永遠の愛とまでは言わねえ、けど命を掛けるほどの想いって、あるだろう」
「馬鹿くせえ」
あっさりと斬り捨てられた。
ゾロは付き合ってられないとばかりに、勢いよくシャツを被りズボンを引き上げる。

足元の床はお互いに吐き出したもので濡れていて、いつもなら染みになる前に手早く拭く俺も、今はそんな気すら起きなかった。
それに気付いたのだろうか、ゾロは傍らにあったタオルで乱暴に床を拭いた。
その動作すら、どこか刺々しくて怒気を孕んでいる。

「今生きてることがすべてで、それが現実だ。世迷いごとはてめえの好きそうなもんだが、夢見んのは寝てる間だけにしろ。少なくとも俺には、愛だの恋だの関係ねえ」
ゾロの言葉に、今更ながら愕然とした自分がいた。
わかっていたはずなのに、今まで仄かに温もっていた胸が、急速に冷えていく。

「そうだな、それが現実だ」
わかっていて尚、現実を突き付けられて。
思った以上にダメージを受けている自分が可笑しくて―――

俺は薄ら笑いを浮べながら身支度を整えた。
ゾロの顔を見るのが辛くて、俯いたまま倉庫を出る。
ゾロはいつもどおりそのまま朝までごろ寝をするのだろう。




甲板に出れば、夜空一面に星が瞬いていた。
その輝きに慰められるようで、船縁にもたれたままぼんやりと煙草を吹かす。
こんな広い空の下で、海の果てで、なんでまた俺たちは再び巡り会ったのだろう。
俺だけが過去を抱えていて、お前はまっすぐに前だけ向いていて。

わかっていたはずなのだ。
ゾロは、すべてを置いて生まれて来たことくらい。
頑ななまでに強さを求め、力だけを頼りにした生き方は最初に見せ付けられたはずだ。
ゾロには、愛も温もりも安らぎもいらない。
守るべきものも持たない。
すべてを向こうに置いて来たのだから。

それはつまり、彼にとっての“終わり”そして新しい人生の“始まり”でしかない。
わかっていたはずなのに―――





瞬く星々の輝きが目に沁みて、俺は目を細めた。
夜風にさらされて、目元がすうと冷えていく。
幾つもの涙の筋が頬を濡らすのに、俺は構わずに空だけを見上げて長い間突っ立っていた。

この涙は、亡き王女が流しているものだから。





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