妄想天使  -6-



ぐーと鼻を鳴らしながら息を吐いて、寝返りを打った。
頬に触れる部分がひやりとして気持ちがいい。
だが固い。
寝心地が悪い。
しかも頭が下がっているようで、無意識に額を擦りつけながら腕を彷徨わせた。
枕が、ない。
「・・・んー」
半眼のまま頭だけ擡げたら、ふわんと香ばしい匂いがした。
パンの表皮が焼ける匂いだ。
それから、淹れ立てのコーヒーの香り。

―――どっかの店みてえだな。
寝惚けた頭でそう考えながら、ゾロは寝そべったままうーんと伸びをした。
腰も背中も、肩甲骨にも固いものが当たる。
どうやら床で寝ていたらしい。
毛布も掛けていないから、目が覚めるとぶるりと寒気が来たが、細かいことは気にしない。
「・・・朝か」
強張った身体をバキバキ慣らしながら、むっくりと起き上がった。
キッチンには、サンジの後ろ姿。
「おはよう」
欠伸交じりにそう声を掛ければ、サンジはやや警戒するように後退りしながら振り向いた。

「―――¨@■〒★◇」
くるりと巻いた眉は顰められ、心なしか視線が冷たい。
普通の挨拶ではない、剣呑な雰囲気をビシバシ発散させながらそれでもなにごとか宇宙語を返す。
「あんだ、朝から不機嫌だな」
ゾロはそう言ってシャツの下に腕を突っ込み、脇腹をボリボリ掻きながら洗面所に向かった。
よく眠れたようなそうでもないような、ぼんやり感が残っている。
ほとんど毎晩見ていた夢も、今朝はまったく覚えていない。
夢の中で、ゾロにとっては本物の“サンジ”に会えるかと思っていたのに。

「・・・あ」
トイレで用を足しながら、ゾロは唐突に昨夜の自分の所業を思い出してしまった。
そう言えば、酔いに任せたか相手が酔い潰れたことに付け込んだかで、軽く手を出してしまった。
意識がない相手に勝手にキスをしたことは、弁明のしようがない。
それで、サンジは怒っているのだ。
「あ―――」
さすがに、まずったかなと思わないでもない。
客観的に見て、30男がまだ20歳そこそこの青年を部屋に連れ込み、あろうことか酔い潰して襲おうとしたのだ。
最初からそんな魂胆で部屋に上げた訳ではないが、そう責められれば弁解はできない。

ゾロはのろのろとトイレから出ると、顔を洗い髭を剃って髪を整え、まじめくさった表情で洗面所から出た。
サンジは先ほどと変わらず、背中を向けてキッチンに立っている。
ゾロの方が警戒するようにじろじろとその姿を眺め、少し遠回りしながらテーブルに着いた。
そのタイミングを見計らったか、サンジはフライパンを持ったままくるりと身体を反転させる。
慣れた手つきでテーブルの上の皿にふかふかのオムレツを乗せ、フレッシュなトマトのスライスが混じったソースを掛けた。
カップの中にはスープ、テーブルの中央にはサラダの大皿があり取り皿と手作りらしきドレッシングが添えられている。
オーブンから取り出したのは、軽く焼いたバゲット。
ジャムの小瓶となにかのペーストが置いてあり、好みで塗って食べるらしい。
「こりゃすげえ」
ゾロは食卓の豪勢さに素直に感嘆し、自然と目を輝かせてサンジを見た。
そんなゾロの表情を、サンジは苦虫でも噛み潰したみたいなしかめっ面で見返している。
「夕べとんでもねえ目に遭わせたのに、こんな美味そうな朝飯作ってくれて、ありがとうな」
ゾロが声に出してそう言えば、サンジは軽く首を傾げて見せた。
けれど、ゾロがなにがしか感謝なり喜びなりの言葉を口にしていることは雰囲気でわかったのだろう。
少し唇を尖らせて、所在なさげに俯く。
宇宙語での罵詈雑言には繋がらなかった。

「いただきます!」
ゾロがぱんと手を合わせて頭を垂れれば、サンジもぎこちない動きで真似をした。
「・・・ターキ、マス」
そんな仕種が可愛いなと頭の端で思って、それからすぐにゾロはそんな自分を全否定する。
―――男相手に可愛いとか、頭沸いてんのか俺!
女相手でも滅多に浮かばない単語に自分で慄きながら、ともかくゾロは食事に集中することにした。

基本、出勤ギリギリまで眠っているから朝は食べない。
外泊で朝食のチョイスがあれば、迷わず和食を選ぶゾロだがサンジが作ってくれた料理はどれも口に合った。
バゲットもジャムも、スープだってベースは既製品だろうけれど、なんとなくこうして出されると特別な食事に思える。
やはりこいつの作るものはなんだって美味いなあと感嘆し、いやいやいやいやと心中で訂正した。
やはりってなんだ。
こいつの飯を食うのは昨夜と今朝の、まだ2回だけだ。
夢の中の“サンジ”を引き合いに出したり比べたり、するもんじゃねえだろ。

頬袋をいっぱいに膨らませながら視線だけ彷徨わせてあれこれ考えているゾロを、サンジは訝しそうな目で見ている。
顔付きは不機嫌なままだが、昨夜の不埒な行動を責めて部屋を出て行こうとは思っていないらしい。
「今日はお前、どうするんだ?」
「?」
「俺ぁ仕事行くが、明日は休みだからどっか連れてってやってもいいぞ」
壁に掛けられたカレンダーを指し示し、土曜日を示す水色の数字を丸で囲んだ。
「だから、今日のうちにどこ行きたいか考えてろ。これは部屋の鍵だ」
キーケースから鍵を外し、財布と一緒にサンジの前に置いた。
「こっちは食費で勝手に使え、お前なら言葉通じなくても適当になんとかなるだろ」
サンジが戸惑いながらゾロの顔と財布とを交互に見ている間に、さっさと食べ終えて席を立つ。
「ちと早いが仕事行ってくる。なるべく早く帰るから」
言いたいことだけ言って、コートを羽織り鞄を持って玄関に向かった。
玄関で靴を履いていると、サンジが「これ預かっていいのか?」と言わんばかりに鍵と財布を持って後を追ってくる。
見送られる形になって、ゾロはサンジに背を向けたままにやりと口端だけ上げ、澄ました表情に変えて振り返った。
「じゃ、行ってくる」
そう言って無表情のままサンジの襟首を掴み、強引に引き寄せてちゅっと唇を奪った。
「――――!!」
一瞬硬直したサンジが右足を振り上げる前に、ゾロは素早く飛び退くとドアを開けて外へ出てしまった。

「ё$△¥■!&“#☆◎*◆!!!」
ドア越しに悲鳴とも怒号ともつかぬ声が届いたが、ゾロは笑って大股で歩み去る。
これに懲りて、戻ったら姿を消していても別に構わない。
ゾロは、やりたいことを我慢しない男だ。





「おはよう、珍しく早いな」
デスクに着いて早々エースが顔を見せるのに、ゾロは半眼で迎えた。
「お前こそ朝っぱらからうちになんの用だ」
「別にゾロに用はねえけど気になるじゃん」
言いながらきょろきょろとフロア内を見渡し、ゾロに顔を寄せて声を潜めた。
「な、サンちゃんどうしたよ」
「まだどうもしてねえよ」
「まだとかなに。つかなにその答え、想定外」
アラヤダーと大げさに肩を竦めて見せながら、手近な椅子を転がして来て真横に座った。
「そうじゃなくて、今日はサンちゃんどうしたの」
「部屋に置いて来た。仕事来んのに連れて来れねえだろ」
俺は子守か、と思わないでもない会話だ。
「一人で置いて来たって、それこそサンちゃん寂しいんじゃねえの」
「部屋に置いてやるだけでありがたいと思え、いちいち相手なんざしてられるか」
メールチェックしながら自分だけコーヒーを飲むゾロに、エースははああ〜と声に出して溜め息を吐いた。
「ああやだやだ、そうでなくても言葉も通じない異国の地で訳わからんおっさんに部屋に連れ込まれてよ、そのまま一人でほっぽかれたら辛いわー寂しいわー俺なら泣いちゃう」
「勝手に泣いてろ」
つれない態度のゾロの後ろで、エースはスマホを取り出してちゃちゃっと連絡した。

「アロー」
続く宇宙語で、誰と話しているのか気付く。
「てめえ、いつの間に連絡先聞き出してた」
ゾロの声を遮るように、エースは椅子を回転させて背中を向け、時折はハハハ〜と軽薄な笑い声を交えて会話している。
一頻り楽しそうに会話した後、エースはスマホを切ってくる〜りとゾロに向き直った。
「言葉も通じない初対面の子を部屋に連れ込んだだけで飽き足らず、一方的に財布と合鍵渡して置いて来たって?」
心底呆れたような顔と声で、エースは逆さに座った椅子の背もたれに両腕を掛けて上半身を倒す。
そうしながら上目遣いにゾロの顔を見た。
30半ばのおっさんがやる仕種ではないが、エースはどこか子どもっぽい愛嬌があるから許されるレベルなのだろう。
そうやって下からねめつけられ、ゾロは首筋を掻きながらエースから視線を逸らす。
「まあ、そうだ」
「呆れたね、常々常識破りなことばっかしてると思ったけど、これはこれで呆れる」
「別にいいだろうが、あいつだって一人で取り残されても困るだろうし。日本の金もあんまり持ってねえだろうし」
「それにしたって無用心すぎるよ。確かにサンジェルそっくりの容姿ではあるけど、彼が言ってることがどこまで本当なのかわからないんだから。日本にいる親戚ってのも法事ってのも、全部嘘かもしれないんだぜ」
エースは人当たりがいいが、決してお人よしでも世話好きでもない。
自分が興味を持つことに対しては気安く首を突っ込んでくるくせに、興味を失くせばすぐに素っ気無くなって、離れるタイプだ。
サンジについても手放しで歓迎している風に見せて、その実冷静に観察していたのだろう。
「あいつは、そんな奴じゃねえよ」
「なんでわかるの。お人よしにもほどがあるぜ」
なぜかゾロの方が弁明する形になっているが、この部分は譲れなかった。
「あいつは黙って部屋出てったり、人の金で散財するような奴じゃねえよ。自分の飯とか俺の夜食とか、そういうので食材買うのが関の山だろ。あと、台所周りで必要なものとかな。今日帰ったら、ちったあ部屋ん中片付いてっかもな」
「どこの新婚さんだよ。つか、お前から滲み出るその根拠のない自信はなんだ。そしてなぜドヤ顔なんだ!」
そう指摘されても、ゾロには説明なんてできない。
夢の中の“サンジ”とは別人だとわかってはいても、つい混同してしまう。
「うっせえな、ただの勘だ。心配ならお前が勝手に調べればいいだろ」
「生憎だけど、もうそうさせてもらってます」
即座に言い返され、ゾロは「ああ?」と顔を顰めた。
「昨夜のうちに、サンジの親戚とかいう家に連絡はつけてある。確かにフランスから“サンジ”って子を呼び寄せてるし、インフルエンザで全滅なのも確認済だ。こっちでホームステイさせてるってお前の連絡先も教えておいた」
「・・・どんだけ手回しいいんだ」
「これが普通だろ。だからまあ、さっき俺が言ったサンジの身元の不確かさ云々は、お前を脅すための方便だ。心配しなくていい」
「最初から心配なんざしてねえ」
「しろよちょっとは、用心くらいしろ。俺から見たら、お前の方が人が良すぎて危なっかしいんだよ」
別に人が良い訳ではなく、相手がサンジだから気を許しているだけだ―――とも正直に言えず、ゾロは憮然とした表情で黙り込んだ。
「まあ、彼とコンタクトを取るように唆したのは俺だからさ、これくらいフォローさせてもらうけどこれからはもうちょい用心しろよな」
エースは言いたいことだけ言って椅子から立ち上がり、律儀に元あった場所に戻す。
立ち去るのを見送りもせず背を向けて、ゾロは冷めたコーヒーを口に含みながらふと思い出した。
そう言えば、エースはサンジと話したのに夕べと今朝、ゾロがやらかした不埒なことに関してはなにも言わなかった。
サンジはエースに、訴えなかったのだろうか。
サンジの立場になって考えてみれば、おいそれと相談できないかも知れない。
酔い潰されてキスされたとか、不意打ちでキスされたとか。
男の沽券に関わることだ。
けれど、遠まわしにでも抗議して来なかったのなら、これはこれで了解の範囲内と判断してもいいのだろうか。
―――まあいいか。
深くは考えず、ゾロは頭を切り替えて仕事モードに突入した。




『今日は定時で上がるんだぞ、愛するサンジェルが家で待ってんだから』
エースが社内用のメールを使ってまで世話を焼くので、最初からそのつもりだったゾロはさっさと仕事を切り上げて帰り支度を始めた。
まだメールで呼びかけてくるだけマシだ。
朝のようにフロアに来てペラペラ話されたりしたら、目ざとく会話を聞きつけた部下にからかわれるに違いない。
そうでなくとも女子社員から、「昨日のサンジェルそっくりさん、どうされました?」としつこく聞かれて適当にあしらうのが煩わしかったのに。

終業のチャイムと共に席を立ち「お疲れさん」との声を残してフロアを飛び出た。
「課長、早いですね」
「もしかしてサンジェルが待ってるんですか?」
「え、課長マジ?!」
そんな声が追いかけて来た気もするが、聞こえなかったことにする。
エレベーターを通り過ぎて階段を降りるのも、いつの間にか駆け足になっていた。
別に急がなくてもいいのに、なんとなく足取りが軽くなりすぎて自然とスピードが速まる。
いつもより帰宅時間が早いせいか電車も混んでおらず、最寄り駅も改札をスムーズに通れた。
いつもなら30分は掛かる家までの道のりも僅か10分で到着し、キツネにでも抓まれたような心地になった。
とは言え、ちゃんとマンションに着いたし部屋の鍵もしっかり掛かっている。
中にいるかどうかはわからないが、一応一人暮らしでも帰ったからには声を掛けるのが礼儀だろう。

「ただいま」
扉を開きながら独り言のようにそう言えば、ふわんと食欲をそそる匂いが鼻を掠めた。
当たり前みたいにキッチンに立っていたサンジは、咥え煙草で振り返って「*▼§‡♪」と宇宙語で話す。
ゾロはつい、その場でにやんと相好を崩した。

ほらな。
飯作ってるし部屋は片付いているし、キッチンには見慣れない道具が若干増えているだろう?

いま、この場にいないエースにそう自慢したくなって、ともすればにやけがちな口元を引き締めるのに苦労した。





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