妄想天使  -11-



日付が変わる間際に自宅に帰り、自分で鍵を開けて中に入った。
部屋の灯りを点けても、どこか冷え冷えとして肌寒い。
台所にはいくつかの調理器具がそのままで、注意して見れば食器棚の中は綺麗に整頓されていた。
目新しい食器も増えている。
けれど、それらを使うべき人間はもういない。

ふぃーと深く息を吐いて、冷蔵庫の中を開けた。
いつもは白く光る棚の中にビールしか並んでいないのに、色とりどりの食材がきちっと並べられていた。
そのままで、つまみになりそうなものはない。
ゾロは仕方なく野菜室からキュウリを取り出し、塩を振って齧りながらビールを飲んだ。
シャクシャクと、自分の咀嚼音だけが静かな室内に響く。
この部屋は、こんなに静かだったろうか。
つい3日前まで当たり前だったはずの暮らしが、いまは随分と寂しく侘しい。
けれど、所詮いまだけのことだ。
すぐに慣れて、元の生活に戻れるだろう。

ゾロはビールを立て続けに空にして、風呂にも入らずそのまま久しぶりに自分のベッドで眠った。
今夜こそ、夢の中で彼に会える。
そう願っていたのに、結局その夜もゾロは“サンジ”の夢を見なかった。





打ち合わせからの帰り道、ゾロは思い立って広報課に足を運んだ。
一応、サンジのその後のことをエースに尋ねても不自然ではないと思ったからだ。
事前にアポを取っていなかったせいかエースは不在だったが、携帯をかければすぐ捕まった。

『いま移動中。タクシーで通用口に付けるから、外で会わね?』
昇ってきた階段を再び降りて通用口を出ると、ちょうどタクシーが横付けするところだった。
後部座席からエースが手招きしている。
「乗って、どうせだから付き合ってよ」
「どこ行くんだ」
エースと会って話をするつもりだったから、多少時間に空きがある。
ゾロは誘われるままエースの隣に座った。
「坂下のスタジオ・オハラ。いま料理教室やってんだ」
「誰の?」
「サンちゃんだよ」
「はあ?」
なにやってんだと目を見張るゾロに、エースはふふんと得意気に笑った。
「いやね、サンちゃん昼間暇そうだったからさ。実験的にサンジェルのお菓子教室ってやってみたらどうかな〜ってHPで募集かけたらすぐに集まっちゃって・・・」
「教室って、あいつモデル契約したのか?」
ゾロの耳にはその情報は入っていない。
「うんにゃ、まだ」
案の定いい加減な返事に、むかっと来た。
「正式に契約も結んでねえ相手に、なにさせてんだ」
「だからあくまで試しに・・・だよ。お菓子教室は非公開だし、人数も10人以内で即締め切ったし。あくまでモニターっぽく?んでこれからお客さんの反応聞いてみようかなあって」
「・・・あいつは、それ了承してんのか」
ゾロが気になるのは、サンジのことだ。
「そりゃあもう大乗り気。しかも応募してきたのが全員女性だったからテンション上がっちゃって〜って報告受けてる。俺立ち会ってねえんだよな」
「早く行ってやれ」
「だからいま向かってるじゃん」
漫才みたいな会話を交わし、エースはふうと背もたれに身体を沈めた。

「・・・あいつ、元気にしてんのか」
「ああ、どこ連れてってもすごく楽しそうにしてるよ」
「お前がか?」
「いんや、さすがに俺がつきっきりって訳にいかねえから、課の若いもんが入れ替わり立ち代り」
ほんとは全部俺が連れてってあげたいんだけどねーと軽口を叩く。
「せっかくの日本だから堪能してもらいたいし、ここで好印象植え付けて気持ちよく契約に繋ぎたいじゃん」
「・・・そんだけ面倒見てもらってんのに、なんであいつは契約にウンと言わねえんだ」
ゾロの言葉に、エースは片目だけ見開いて見せた。
いかにも「お前がそれを言うか」と目で訴えている。

「なんだ」
「なんだもなにもないよ、ゾロのせいだよ」
「俺が?なにか」
「だって、ゾロはサンちゃんがモデル引き受けるの反対なんだろ」
詰るような口調に、ふんと鼻で息を吐く。
「俺が反対しようが、関係ねえだろうが」
「関係あるに決まってっしょ。ゾロがいい顔しないから、サンちゃんも承諾できないんだよ」
「関係ねえだろうが」
また押し問答になりそうなので、エースの方が先に話題を変えた。
「ともかく、世間一般の人がサンちゃんを生サンジェルとして受け入れられるかどうか、その辺のリサーチをさせてもらうための教室だから」
「・・・姑息な手を使いやがって」
「頭使ったって言ってもらえるかな?外堀から埋めてくのもこの業界の常套手段でしょ」
言っている間に、タクシーは坂下に着いた。



開放的で明るいキッチンスタジオでは、サンジが慣れた様子で教壇に立っている。
傍らの通訳がこまめに仕事しているお陰で、サンジが話すのと生徒が反応するタイムラグは少ない。
少人数だからアットホームな雰囲気だ。
ゾロがざっと眺めた通り、若い女性が多くみな頬を紅潮させて瞳を輝かせながら話すサンジを見つめている。
「概ね好評みたいだね、生徒さん達のあの表情を見てみなよ」
わかってはいるが、エースにそう言われるとつい憮然としてしまった。
なんだか非常に、面白くない。

「時間的にそろそろ終了かな。この後生徒さん達にはスタジオに残ってもらってアンケート取るから、ゾロはサンちゃん迎えに行ってもらえる?」
「なんで俺が」
「なにしに来たの」
そう返されては、言葉もない。
ゾロはしぶしぶドアの横に立つ。
一際大きな拍手がして、司会者が促すままサンジは軽く手を挙げながらスタジオから出てきた。

「サンちゃん、よかったよー」
エースに肩を叩かれ、やや紅潮した面持ちで頷いた。
擦れ違いでスタジオの中に入るエースを見送ろうとして、はっと二度見して振り返る。
「・・・よお」
「・・・・・・」
先ほどまでの明るい表情はどこへやら。
宇宙語も呟かず、わざとらしく視線を逸らして俯いている。
そんなサンジに対し、ゾロも声をかけあぐねていた。

―――なに話していいか、わからねえ。
こんな状態になったのは初めてだ。
初対面の時でも、言葉がわからぬまま言いたいことを言い合って喧嘩になっていた二人だ。
それがなんだってまた、こんな風に遠慮し合ってお互い意識しつつもモジモジする仲になったのか。

ゾロは苛立ち紛れに頭をガシガシ掻いて、無意識にちっと舌打ちした。
半分だけ覗いたサンジの眉が、力なくへにょんと垂れる。
「ええいもう」
煮え切らない自分自身に腹を立て、ゾロはサンジの手首を掴んで引っ張ると乱暴に大股で歩いた。
「◆◎!*#っ」
サンジは宇宙語でなにやら叫んだが、目の前に喫煙所が見えて納得したらしい。
ガラス張りの温室みたいなそこに二人で入り、サンジはゾロに背を向けて煙草に火を点けた。
ふうと軽く吹かしてから、身体ごと振り返る。
「元気そうだな」
「$△■+」
首を振って前髪を上げ、少し仰向くようにして天井を眺めてから視線を下に流した。
「なかなか大盛況だったじゃねえか、てめえの面ひとつでこんだけ客が集まるなら文句もねえだろ」
「※○★・・・」
「てめえが、引き受けたいなら契約すりゃあいいんだぜ?サンジェルのモデル」
「―――・・・」
「俺に遠慮するこたあねえ、俺は別に、サンジェルの産みの親って訳じゃねえし。あれは企画に携わった人間みなで考えて創り上げたもんだ」
キッとサンジが顔を上げた。
なにか口を開こうとするタイミングで、エースがガラス戸を開ける。
「いやーよかったよかった、よかったよサンちゃーん」
ハイテンションのまま抱きついてくるのを、脛を蹴って撃退した。
エースは笑顔全開で脛を押さえ、ぴょんぴょん飛びながらなおも食い下がる。
「いって・・・いやでもマジよかったよかった。大好評〜」
「客はみんな帰ったのか?」
「いや、まだスタッフが詳細に聞き取りしてるけどね、多分100%サンジェルのお料理教室ってことで納得してるわ。いやはや素晴らしい」
手放しで褒め称えているのだろう。
ゾロにとっての宇宙語を捲くし立てれば、サンジの表情は少し和らいだ。
「そんならもう、なんの問題もねえな」
ゾロの言葉に、エースとサンジが同時に振り向く。
「他に支障がねえってんなら、サンジェルのモデル正式に引き受けろよ」
「って、ゾロが言ってるよ」
エースがすかさず通訳するのに、サンジの顔は晴れない。
「契約事項にさほど束縛はねえんだろ?」
「ああ。サンちゃんに撮影のためにまた渡日してもらうってことじゃないよ。どっちかっつうと画像の使用と名称の許可をしてもらう形かな」
「悪い話じゃねえじゃねえか」
二人かがりで説得するようになっていたが、サンジはどこか恨みがましそうな目でゾロだけを見つめた。
「あんだよ、なに拘ってやがんだ」
再びゾロが舌打ちしそうになった時、エースのスマホが鳴った。
「ちょっとごめん」
二人に背を向けて懐からスマホを取り出し、お?と目を丸くする。
「サンちゃんの親戚からだ」
「はあ?」
親戚と言えども、言葉が通じず意志の疎通が難しいと言っていた。
そのせいか、エースはすっかり世話役と化している。
「はい、はい、そうですかそれはよかった」
スマホ片手に壁に向かってぺこぺこと頭を下げ、笑っている。
「ええ、元気ですよ。もうサンジェルそのまんまで、こちらも驚くやら嬉しいやら、はい」
スマホを胸の辺りに押し当て、くるりと振り返った。
「インフルエンザから回復したらしい。医師の許可も降りたって言うし、サンちゃん親戚んち行く?」
そう言えば、当初の目的は親戚の法事だったか。
それだってサンジェルの一件があったからこそ、湧いて出たような話だ。
法事自体は予定通り行われ、いまさらサンジが行く理由はないかもしれない。
「せっかくだから顔見せに行くか。なんだったら俺が通訳で付いていくよ」
「□α●ёИ#、@△★・・・」
「えっ?!」
エースが驚いた声を出した。
ゾロはイライラして、エースに尋ねる。
「なんだ?」
「サンちゃん、親戚んちに顔出したらもうフランス帰るって」
「はあ?なんでだ」
「日本に来る用事は済んだって・・・そりゃあそうだけど、サンちゃーん」
情けない顔をするエースを押しのけ、ゾロはサンジの両肩にがしっと手を掛けた。

「予定早めてまで帰ることねえだろ、それにこっちとはまだ話が終わってねえ」
『俺がサンジェルに似てるって言うんなら、モデル引き受けたっていいよ』
「んなこと言ってんじゃねえ、お前一体、なに拗ねてんだ」
「は?拗ねてる?」
エースはゾロとサンジの顔を交互に見て、それからゾロの言葉を通訳した。
途端、サンジが目元を赤くしてきつい目で睨み付ける。
『別に拗ねてなんかねえ。俺は、どうせサンジェルに似てねえよ』
「ああ似てねえよ、サンジェルなんて所詮まがい物だからな」
『俺だって所詮、あんたにとっちゃまがい物だろ』
「なんだって?」
『俺はサンジェルでも、原型のサンジでもない。あんたが求めてるような男じゃないんだ』
エースはここまで言って、ああ〜と嘆息した。
「サンちゃん、ワーカーズでゾロが描いた原画見てんだよ」
「それでなんだってんだ」
「確かに、ゾロが言った通り拗ねてるわサンちゃん。俺はゾロの中の“サンジ”じゃないって」
「んなこと、当たり前だろうが」
吐き捨てるように言ったゾロに、サンジは顔を歪めて後ずさった。
踵を返して駆け出そうとしたのを、反射的に腕を掴んで止める。
「待てっ、まだ話は終わってねえ」
『うるせえ、これ以上なに話すってんだ』
腕を取られながらも、ゾロの腹を蹴りつける。
『どうせ俺だけが舞い上がってんだ、あんたはあんたの中のサンジに惹かれてるだけじゃねえか。けど俺は違う、俺はあんたの中のサンジと違う』
「当たり前だろうが」
暴れる身体を押さえつけ、ゾロはがばりと胸に抱き込んだ。
「お前は全然違う、あいつとは違う」
夢の中のサンジは、ゾロに決して弱みを見せなかった。
いつも斜に構えた態度で、人のことを小馬鹿にしておきながらちょっとしたことでムキになって怒る。
扱い辛いタイプではあったが、ひょんなことで垣間見せる素のサンジは、どこか幼く危うくもあった。
けれどこんな風に、自分自身のことを相手にぶちまけたりはしない。
「違うなんてこた端からわかってる、だからてめえがンナ面したら放っとけねえ」
『・・・な、に・・・』
「俺が気にしてんのは、いま目の前にいる、生きてるてめえだ!」
『―――っ!!』
背中が折れるほど強く抱き締められ、サンジは呆然と目を見開いた。
重なったゾロの厚い胸板から、どくどくと脈打つ鼓動が伝わってくる。
その振動に励まされて、宙を彷徨っていた手がおずおずとゾロの背中に回された。

背後で、喫煙室に入ろうとした人がぎょっとした顔で立ち止まり、ドアに掛けようとした手を止めた。
それに気付いてエースは手刀を切って詫びを入れ、しっかりと抱き合う二人を遠巻きにしながら足音を忍ばせて喫煙室を出る。
「悪いけど、ちょっと取り込んでるんで」
「・・・はあ」
「もう一箇所喫煙スペースあるから、そっち行こ」
見知らぬ人を誘導しつつ、エースはその場から静かに立ち去った。
多分もう、通訳なんて必要ないだろう。



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