妄想天使  -1-



身動きも取れないほどの満員電車に揺られながら、仰向いて息を吐く。
ホームで人波に押し出され、自動改札では引っ掛かり、駅の外に出れば雨。
雨避けにと鞄を頭上に掲げて小走りすれば、側溝の隙間にヒールが入り込んでパンプスが脱げてしまった。
そんな散々な帰り道。
静かで暗いアパートに帰ると、電気を点けてそのまま玄関でほっと一息ついた。

『おかえり』
柔らかな微笑と共に出迎えたのは、仄かに白く発光する天使だ。
『今日もお疲れ様』
金髪碧眼の少年とも見まがう男性で、背中に白い羽根を揺らめかせて疲れたOLを労っている。
だがOLにはその声は聞こえない。
『雨、大変だったね』
男性が濡れた肩のしずくを払うように、白い手を伸ばした。
OLの肩に触れることはなかったけれど、その仕草はどこまでも優しい。
その動きにつられるように、泥跳ねの付いたふくらはぎを片手で撫でてからOLは「よし」と一人呟き立ち上がった。
『風邪を引かないように、ちゃんとタオルで拭くんだよ』
OLの周りを軽やかに移動しながら優しく促せば、OLは乾いたタオルで濡れた髪を拭った。
『今日は帰り際にトラブルがあって大変だったけど、明日の朝までに解決するんじゃないかな』
洗顔を済ませ、さっぱりした顔でキッチンに戻る。
『差し入れ食べたけど、ちょっとお腹が空いたかな?眠る前にあっさりどうぞ』
OLが食器棚から取り出したのは、お茶漬けの元。
就寝前に採るべきサプリを取り込んだ、“寝る前茶漬け”だ。
『美味しく食べて、明日も元気で頑張ろう』
テーブルに向かい合わせで座り、天使は頬杖を着いて、美味しそうにお茶漬けを啜るOLの顔を眺めている。
『明日仕事したら明後日はお休み、きっといい出会いがあるよ』
そう言って、天使は片方だけ覗く瞳でぱちんとウィンクをした。



“寝る前茶漬け”は、「美味しく綺麗に健やかに」をテーマに売り出され、CM効果で大ヒット商品となった。
購買層は主に一人暮らしのOLで、CMに出てくる金髪の天使“サンジェル”はCMから発生したキャラとしては異例の人気を誇っている。
一人暮らしの部屋でひっそりと帰りを待つ、誰にも見えない天使“サンジェル”
確かに、金髪碧眼で整った顔立ちは天使に相応しい。
だがなぜか長い前髪が片方の瞳を隠し、もう片方の見えている瞳の上には眉尻がくるりと渦巻いた珍妙な形の眉毛があった。
そして、天使にあるまじき顎のちょろ髭。
スタンダードな金髪美形に収まらないビジュアル設定が、受けた理由の一つかもしれない。
またこの“サンジェル”、女性に対してはすこぶる優しい。
疲れたOLや主婦にとろけるような穏やかな表情と甘い声で労いの言葉を囁き、希望に満ちた予言を施す。
“サンジェル”の癒しの効果は、CMを見ている側にも効果抜群だった。
家に帰ったら“サンジェル”がいると思えば頑張れると、サンジェルが付いてくるはずもないのに“寝る前茶漬け”の売り上げは上々だ。
やがて、OL編、主婦編に続いて、干物女編、オタク男子編、やもめ男編も次々と製作された。
女性バージョンだけでなく、男性バージョンも作られたことで“サンジェル”のキャラがより鮮明になっていく。
どんな女性にでも傅いて優しい“サンジェル”が、なぜか男性に対しては非常に乱雑かつ粗暴なのだ。
オタク男子には乱暴な言葉でけなしつつも、ダイレクトメールに紛れた大切な通知を教えてやったり、希少なフィギュアゲットを一緒に喜んでやったりする。
やもめ男編でも、妻に逃げられた男を悪し様に罵りながらも栄養の偏りを心配し、別れた妻の元にいる子どもの写真を一緒に眺めて涙ぐんだりする。
この女性編との対応の違いがまた面白いと、“サンジェル”の人気は老若男女を問わず高まっていた。
今では、ゆるキャラにも“サンジェル”もどきがいて、コスプレイヤーや二次創作でも取り上げられ、キャラの一人歩きが始まっている。



“サンジェル”自体はCGで、その版権は広告制作会社の「ジュラキュール.cop」にある。
爆発的人気を博した“サンジェル”の生みの親は、CMディレクターでプランナーでもあるロロノア・ゾロだ。
人気が高まるにつれ、ついには女性週刊誌でも取り上げられ「サンジェル誕生秘話は?」などとインタビューを受けるに至ったが、「製作過程の会議で自然発生したもの」との無難な答えに留めている。
実際にはゾロが一人でキャラクター設定をし、CG製作にも細かな指示を出した。
なぜこんなキャラがこの世に生み出されたのかと問われ、もし正直に答えるなら「夢の中にいつもいるから」としか答えようがない。

ゾロの夢の中に初めて「サンジ」が登場したのは、高校生の頃だった。
しかも初見で夢精してしまったのだから、思春期真っ只中の少年ゾロはそれなりに苦悩した。
なんだって、訳わからない外人が夢に出てきてそれでおっ勃ってしまったのか。
俺はホモか。
ホモなのか。
実は男にしか、興味のないホモだったのか?
そう思い悩んでみても、現実には男を見てピンとも来ない。
友人とは普通に付き合えるし、告白されてグッとくるのは女子ばかりだ。
全然ホモっ気などないはずだった。
それなのに、それからほぼ毎夜“サンジ”が夢に出てきた。
もちろん、目覚めたときに夢の内容を覚えていないことは多々ある。
それでもなにがしか、“サンジ”の気配を感じながら目が覚めた。
覚えていないだけで、きっともっとたくさんの“サンジ”の夢を見ているのだろう。
あまりにも具体的で鮮明な夢だから、見始めた当初ゾロはガラにもなく「夢日記」まで付けたぐらいだ。

夢の中で、ゾロはなぜか船に乗っている。
見渡す限り360度を青い海で囲まれた、まさに大海原の只中を走る船だ。
ゾロ自身船旅などしたことがないから、実際に経験したことではない。
けれど頬に受ける風や潮の匂い、腹の底から覆るような波の荒さや肌を焼く強烈な日差しなど、すべてがリアルだった。
夢の中のゾロは常に刀を三本携える剣士だった。
戦闘を生業に生きていても、おかしくない世界観だったのかもしれない。
細かいことはよく覚えていないが、とにかくそんなゾロのそばにいつも金髪の男“サンジ”がいた。
夢の中で、ゾロがその男に対して名前を呼んだことはないように思う。
ただ、ほかの仲間たちが彼を指して“サンジ”と呼んでいたから、こいつは“サンジ”かと認識しただけだ。
このサンジは、とにかく口が悪くて動作も荒く、ガサツで乱暴だった。
ゾロはしょっちゅう蹴られたし、それが夢の中だとわかっていてもかなり痛くて身体に答えた。
人の話をろくに聞かないでいつでも喧嘩腰で、嫌味というより子どもの喧嘩レベルで突っ掛って来る。
夢の中で、ゾロはそれらの暴挙に面食らうことなく、むしろどっちもどっちだといわんばかりの低レベルさでそんなサンジの喧嘩を買っていた。
目が覚めてから冷静に思い返すと、あんな仲間が傍にいたら嫌だなと思うだろう。
けれど、夢の中のゾロはサンジの存在をさほど嫌ってはいなかった。
売られた喧嘩は買うし、蹴られれば殴るし、気分次第で相手が傷つくような言葉だって投げつける。
それでも、嫌いではなかった。
むしろかなり、惹かれていた。
夢で出会った初日に、二人で睦み合う情景が記憶に流れ込んできたからなおさらなのか。
昼間は喧嘩仲間でも夜はそうじゃないということが高校生のゾロだって自覚できるくらい、あからさまに二人は深く繋がっていた。

いったいこれは、なんなのだろう。
安眠を妨げられるほどの悪夢ではない。
むしろ、目覚めた時に胸に残る温かな感情は間違いなく“安らぎ”だった。
毎夜深く眠り、サンジと出会う。
その夢こそが現実で、いまいるこちらが夢の世界のような奇妙な浮遊感に包まれ、ゾロは夢ごと“サンジ”の存在を受け入れた。
それから20年近い歳月が流れた今も、サンジは欠かさずゾロの夢の中に現れる。
夢の中で、ゾロは年を取らない。
いつまでも若く力強く、仲間たちと大海原を渡っている。
終わりなき旅の中で、常に傍らにサンジがいる。
ゾロの人生は、それだけで充分だと思えるほど充実していた。

成人して社会人となり、女性と恋愛して結婚を考えた時、真っ先に考えたのは“サンジ”のことだった。
夢の中のサンジを、このままにしておいてもいいものか。
どう考えても同じ登場人物の夢を10数年も見続けるのは異常だろう。
精神的な問題でも抱えているのなら、所帯を持つ前に治しておかなければならない。
けれど、ただ夢を見るだけで現実になにか支障が出るわけでもない。
夢の中ではサンジが恋人だが、現実ではきちんと区別して他者と人付き合いもできるし、恋人とだって順調だ。
身体的にも不調は出ていないし、下手に心療内科を受診しておかしな病名を付けられるかもしれないと思うと、踏ん切りがつかなかった。
そうこうするうちに、長く付き合っていた恋人とも自然消滅し、そのうち女性と付き合うのが面倒臭くなってきた。
なんせ夢の中では、いつだってサンジとともに過ごせている。
現実世界でほかに恋人は必要ない。
そんな考え方をすること自体、異常だと薄々気づいてはいたが、結局ゾロはこの年までずっと独身のままだった。
もてない訳ではないから、誘われれば誰とでも付き合う。
けれど誰にも深入りはしない。
ちょっと変わってるわねとよく言われるが、大抵どんな人物でも大なり小なり「変わっている」部分はあるだろう。
だからゾロはそう開き直って、ごくありふれた日常を淡々と生きてきた。


ただ、あまりにも身近にサンジを感じすぎているがゆえに、ゾロの胸には常に寂しさが付きまとっている。
どれほど毎夜会うことができたとしても、現実の世界にサンジはいない。
あの髪も声も、しぐさの一つ一つもはっきりと覚えていて知らない場所などないほどなのに、現実に彼は存在しなかった。
そのことが、ひどく寂しい。
若いころはそうも感じなかったが三十路も半ばを過ぎたあたりからつくづくと思うようになってきた。
―――サンジに、会いたい。

その想いが高じたか、タイミングが重なったのか。
『寝る前茶漬け』の依頼が来た時に、「一人暮らしのOLに癒しを」とのコンセプトでふと“サンジ”が思い当った。
こと、女に対してはアホかと突っ込みたくなるくらい、甲斐甲斐しく尽くす男だ。
あれを一つのキャラクターとして生み出したら、あるいはこの寂しさが紛れるかもしれない。
単なる思い付き、かつ個人的感情だったからダメ元で提案してみたら、あっさりと企画が通ってしまった。
さらに会議の席上でぽつぽつと話を進めるうちに、つい調子に乗って具体的なキャラクター像を提示したら食い付かれた。
それからはとんとん拍子で、CG作成にも細かな注文を付け、ゾロの夢の中にいるサンジを形作った。
あくまで作り物のキャラクターとして、一目でCGとわかるよう精密さは加減してある。
ゾロ自身が錯覚しないためだ。
これはあくまで、自分の想像力が生み出したキャラクターに過ぎない。
そうわかっていて、それでもゾロはCMの中のサンジ(キャラクター名は“サンジェル”)に満足した。
そんな事情は、もし誰かが聞いたらきっと痛そうな顔で見られるに決まっているから、誰にも話したことはない。

妄想力から生み出たキャラ“サンジェル”の動画は、CMの新作が出る度に誰かの手によって即座に動画がUPされてしまう。
それらに削除依頼を入れながらも、その注目度の高さにほくそ笑んでいる企画情報課からある日、おかしなメールが来たとゾロに連絡があった。




『肖像権の侵害だって来たんだけど』
「ああ?」
ゾロはくるりと椅子を回転させ、受話器を持ち替えた。
『フランスからのメールでさ、苦情係に届いたんだけど訳してみるとなーんか“サンジェル”宛てのクレームなんだよね』
「なんでフランスなんだ」
『ネットで見たらしい』
どこもかしこも、手軽に情報が手に入って便利だが不便なものだ。
「なんでフランスくんだりからわざわざ、クレームが入るんだ」
『自分で判断してくれ、とりあえずメールを転送する』
「それくらい、クレーム処理で対応しろよ」
『俺もそう言ったんだけど、こっちに回ってきたんだよ』
「だったらこっちに回すな」
なおも言いつのろうとしたら、ぷつんと通話が切れた。
まったく、面倒を押しつけやがって。

メール到着のアイコンを叩いて開く。
ゾロはフランス語などさっぱりだが、ご丁寧に訳文も付けてくれていた。
送信者は実在していることと、間違いなくフランスから送信されていること、添付画像も閲覧して問題ないと添えられている。
「ここまでしてんなら、返事もそっちですりゃあいいのに」
一人ごちながら、文面をスクロールした。
なるほど、自分の外見および特徴を無断で取り上げ、キャラクター化したことに抗議する…と書いてある。
「また、コアなファンの思い込みか」
サンジェルを盲愛するあまり、本当に実在すると信じ込んでしまう「ちょっとイっちゃった感」のファンからのメールも少なくはなかった。
多分これも、そっち系だろう。
そう思いつつ、ゾロは添付されていた画像を開いた。
そこに、“サンジ”がいた。


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