天使の日   -1-


 サンジが、丸窓を磨き立てすぎるせいかもしれない。
 ときおり渡りの海鳥が、雲と空とを映す海賊船サニー号の窓ガラスに、激突することがあった。運の悪い鳥は、甲板で目を回して何が何だか分からないうちに、海の一流コックの手にかかって夕食の一品とされてしまう。まことにもってお気の毒様。
 さて。その日も、食堂でおやつにクルー一同が群がっていたところに、バシン、と衝撃音が伝わって来た。次いで何かが落下したような振動もあった。
「あ〜。こりゃ鳥がぶつかったかな」
 船の料理人であるサンジが、咥えタバコでのんびりとドアを開けて外へ出る。他の面々は、ここでうかつに席を立てば、ルフィにおやつを食べられてしまうと知っているので、そんな危険は侵さない。


「ちょっと重たげな音だったわよね」
 ナミが軽く首を傾げた。
「ひゃっほ〜っ!肉、肉!ジャイアントペンギンかな。ふたこぶダチョウかな」
 船長が、踊り出す。なるべく大きな鳥を期待していることは分かるが、ペンギンもダチョウも、多分空は飛ばないし飛べない。
「島を出航したばかりで、食料をたっぷり積んでいるから、まずそうな鳥だったら、サンジくんは逃がすと思うわよ」
「え〜っ!?何でだよ。肉食いてえー!」
 静かにしなさい、と拳骨をふるってナミが釘を刺す。
 と。 
「あら。パンツを引き裂く男の悲鳴が」
 おっとりとロビンが呟いた。
「え?」
 直後、確かにサンジの声が微かに聞こえてきた。悲鳴とまではいかないものの、何かに驚いているような気配が伝わって来る。


 のんきに構えていた一同は、慌てて腰を浮かせた。敵襲だったのかもしれない。外を見張っている人間は、誰もいなかったのだ。急いで甲板へ出る。ルフィも誰のものか定かでないマフィンを両手に一つずつ持って、ちゃんと外へ出た。
 幸い怪しい人影は無い。周囲に敵船や海軍の姿も見えない。
 芝生のところで、サンジが腰をぺたんとつけて座り込み、のけぞっているだけだ。
 そしてその前には、白い羽根を持ったかなり大きな…。
「うしっ!肉だっ!」
 涎を垂らしてルフィが突進しようとする。
 即座に、ゾロが首根っこを捕まえた。
「何すんだよ。ゾロ」
 口を尖らして、ジタバタと暴れて伸び縮みしながら、ルフィがゾロに抗議する。
「俺は、アレを食うんだっ」
「お前、どう見たって、アレは食えねえだろう」
 はあっ、とため息を吐いて、ゾロは頭痛を感じた額に手を添えた。
 アレ、を見たナミ、ウソップ、チョッパーの顎が、ガッポーン、と効果音つきで大きく開いた。
 だってサンジの前で、ぶっ倒れているのは、大きな白い羽根を背中から生やした、人間の姿をした生き物だったのだ。



「ハーピーね。顔が人間で体が鳥だものね」
「いや、翼はあっても、脚の辺りは人間だぞ」
「翼があるのに腕と手ついているのね。おいしいのかしら?食べたら翼が生えちゃったりしない?」
 ロビンとフランキーの掛け合いは、妙にシュールだ。ロビンに関しては、ルフィの発言の流れをそのまま汲んで、目の前の生き物を食用とみなして話を進めているあたり、冷静なだけにかえって怖い。
「人間に翼が生えてるなら、ハーピーじゃなくて天使だろ。空島にもいたじゃねえか。どう考えても食えねェって」
 小声で、ウソップが呟いた。
芝生の上に散る、キラキラした金髪。色白の肌。白い襞の多い布を纏ったような服装。その辺りは天使と聞いて、彼らが幼い頃に思い浮かべた姿に合致している。
「確かに天使、に見えるわね。空島の天使とは、また違うみたいだけど…」
 やっとのことで口をきけるようになったナミだが、少し含みを持たせて、天使とは言い切らずに言い淀む。
芝生の上で目を回している天使らしき存在は、コニスたちと明らかに翼の大きさが違っていた。だがそれだけではなくて…。


「こいつ、窓にぶつかったからっつーより、太りすぎて飛べずに落っこちてきただけじゃねえのか?」
 頭に浮かんでも口に出しちゃいけないかな?とみんなが思っていた言葉を、ゾロはあっさりと言ってのけた。
 そう。この天使と覚しき人物は、若く美しくはあったが、ふくよかという範疇をはるかに超えて、ふっくらぽちゃぽちゃした完全なる肥満体だったのだ。白く輝く大きな翼が一対生えているが、この姿で空を飛ぶのは無理だろう、と誰だって思うほどに。
 かなり大柄な相撲取りの背中に、翼を背負わせてみたところをイメージしていただければ、話が早い。
「手前っ。レディに向かって言っちゃ、ならねえことを」
 惚けていたサンジが、急に息巻いてゾロを睨みつけた。

 天使には性別が無いという通説もあるくらいで、だからレディじゃないかもしれないのだが、サンジにそんなことを言っても始まらない。犬猫であれ、天使であれ、男よりは女性である方が良いに決まっている、というのは殆ど彼の人生哲学だ。
「んなこと言ったってなあ。明らかに…」
「いいから!チョッパー、診てあげて。ゾロ、早く医務室に運んであげなさい。迂闊なことを言って、バチをあてられちゃたまんないわ」
「俺は神なんざ信じねえ」
「ルフィがまだ、おいしそうだって言って涎を垂らしているのよ!齧りついちゃったらどうする気!?」
 まだ持論を曲げずに、さらに不穏な発言を続けようとするゾロの口を、ナミがぴしゃっと塞いだ。かなり非常識なゾロだって、それに輪をかけたルフィの非常識ぶりについては熟知している。確かにルフィならやりかねない。それはまずい。

 頭の中で黒白を決着させると、ゾロはよく肥えた推定天使の方へと、不承不承、歩を進めた。
 だが同時に、頼まれていないサンジの方も、同じ方向に動いていた。ゾロが動かないことを危惧したためと思われる。
 二人の視線が、空中でバチコンと絡み合う。
 別にゾロの方は、乗り気じゃなかったのだから、サンジに任せれば良いようなものなのに、何かというと張り合い始めてしまう不思議。お互い意地になって、相手より先に重そうな体を担ぎ上げようと手を伸ばした。
 と。
 むにっ。
 むっちりと肥えた手が、二人が伸ばした腕を両方同時に握った。
「うっ」
「わっ…!」
 ビクリっと男達の体が跳ねた。
 ギャラリー達の目に、羽根の生えた体が発光し、光の渦のようなものが、繋がれた手を通じて、ゾロとサンジの体へと流れ伝っていくのが見えた。


 光が消えた時、くた、と丸い体は力尽きたように、芝生につんのめった。ゾロとサンジも、ほぼ同時にその場に崩れ落ちる。
「ひい〜っ。誰か〜!医者〜!」
 チョッパーが走り回った。
「「「お前だろー!」」」
 お決まりの突っ込みが入る。
「あ。そうか。俺だった。おい。お前、それからサンジ、ゾロ、大丈夫か?」
 トナカイの船医は、天使かもしれない相手をお前呼ばわりしながら、急いで三人のもとへと駆け寄った。
「う…何だったんだ?今の」
「くらくらしやがる…」
 口々に言いながらも、頑丈この上無い二人が、まずは起き上がった。とりあえずは無事らしい。
 しかし。
「…チョッパー」
 奇妙な声音で、サンジが船医を呼ぶ。
「あの、さ。何か…背中がむずむずするんだけど…?」
 何でもないよね?と言いたげに、サンジが引きつった笑顔で、周囲をぐるっと見回した。嫌な予感を感じているらしい。その予感は、当然ながら、その場にいるクルー全員が共有している。
 そして嫌な予感は、すぐに形になった。
 バサッと服を突き破るようにして、サンジの背中から飛び出てきたのは、大変に大きな一対の白い羽根だった。はずみで、よろけてサンジが尻餅をついた。
「うわ〜っ。サンジに羽根が生えた〜!?医者〜!」
 医者はお前だ、とは誰も突っ込まない。だって医者だって、これはどうしようもない。
 サンジ自身、ぽかん、と口を開けたままだ。
 バサリ、と大きな羽音と共に翼が一度動き、一瞬、サンジの体が浮き上がって、再び芝生にお尻から着地した。
「あら。よく似合っているわね。本当の天使みたい」
「ぐる眉の兄ちゃん、スーパーだなあ」
 亀の甲より年の功。やはり冷静なのは、年上の二人だった。
 実際、金髪碧眼に白い肌を持つ痩身のサンジに、大きな白い羽根はよく嵌っていた。
「ホントだ…何か、サンジ、本物の天使みたいだぞ。眉が巻いてるけど」
 芝生の上に、本物の天使と思われる人物が転がっていることを無視して、チョッパーが感嘆の声をあげた。
「嬉しくねえ…」
 絞り出すようなサンジの声を汐に、クルー達の視線は、おそるおそる天使ビームを浴びたもう一方の人間へと向いた。 


 ゾロだって、顔そのものは、悪くない。すっきりと精悍な男らしい顔立ちだ。
 しかし。
 緑の頭に、緑のハラマキ。三本の刀を腰に下げた出で立ちの筋肉マッチョな男に、でっかい白い翼というのは、いかがなものか。

「おわ〜っ。見たくねえっ!」
「…裁きの天使、とか言う、おっかないのがいたよな。あんな感じかな?」
「ゾロ。やっぱり変だぞ」
「何か、すさまじく違和感があるわ」
 かろうじて、ウソップがフォローを入れたが、他の乗組員たちは全否定の構えだ。
「みだぐね」
「ひょっとして、伝染性の病気なのかしら。触ると羽根が生えてくるとか」
「きゃ〜!寄らないで。ゾロ、サンジくん」
 似合う、似合わないというのは、問題の本質には関係が無いはずだが、何故かそちらの方で話が盛り上がってしまっている。
 好き勝手を言うクルーに、翼を背負いつつ、ドンッと腕組みをして仁王立ちになっているゾロの眉間に、皺が何本も深く刻まれていく。
「ん?」
 今さっき、クルーの声に混ざって、耳慣れない、鈴を振るような麗しい声が聞こえた気がする。
 ゾロ天使に集まっていた視線が、倒れているはずの『病原体』の方へといっせいに向いた。



「さい!わりがったっス」
 ぺたんと座り込んだ元祖天使は、眉尻を下げて困り切った顔をして、頭を不器用に下げた。



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