めざまし時計
-8-



シネコンのカフェで遅いランチを摂りながら、サンジは半ば放心していた。
初めて見た、映画館での映画はすごかった。
まず音の大きさに驚き、こんな強烈な音の中で映画に集中できるんだろうか心配になったが、いざ上映されればそれも杞憂に終わった。
大画面で観る映画は迫力満点で、サンジにとってはアトラクションのようなものだ。
映画館も映画そのものにも魅了され、まだ余韻に浸っている。

そんなサンジの前で、ゾロは食後のコーヒーを啜っていた。
あの迫力で大音量だったのに、ゾロは映画が始まって数分で寝入っていた。
そのまま、エンドロールが流れ終わり館内が明るくなるまで爆睡だった。
なぜこれほどまでに眠れるのか、サンジには不思議でならない。

「バスが暴走し始めた辺りで、ビビったよな」
「ああ」
「でもピンチのところで親友が助けに来てくれてさ」
「ああ」
「やっぱ自分がレディの身体になってるって、気付いたらまず最初に触って確かめちゃうもんかね」
「ああ」
適当に相槌を打つゾロをじろりと睨む。
「レディの身体云々って場面は、なかったんだけど」
「あ、そうか?」
ゾロはぱちくりと瞬きをした。
「ずっと、寝てただろ」
「ああーそうかもな。記憶が途切れ途切れで・・・」
「多分、途切れてもねえ」
サンジがぷんすか怒ると、ゾロはからっと笑った。
「まあ、お前が楽しかったなら何よりだ」
「なんだよー。観終わったあと感想語り合いたいじゃねえか」
「語ればいい」
「お前が見てないのに語っても、共感してもらえないだろ」
実際、サンジが楽しんだ映画をゾロも一緒に楽しまなかったのは残念だが、口で言うほど腹を立ててもいない。
こうして軽く言い合いをするだけでも、サンジにとっては楽しかった。
ゾロも本気で弁明するつもりはないらしく、軽く調子を合わせてくれる。

「さて、じゃあ詫びに次に行く場所もリクエストに応えるぞ。どこがいい?」
「布団以外に?」
「布団以外に」
サンジは少し考えてから、おずおずと申し出た。
「百貨店」
「あ?」
「駅前デパ地下で、東海域フェアがあるってロンリン企画で準備してたろ?今日は初日だし、行ってみたい」
「いいぞ」
サンジは担当者と開催前の現場に行っただけで、その時のことをゾロに話してはいなかった。
電車に乗って、二駅先の百貨店へと向かう。

「あのさ、出店する中で俺が知ってる店があったんだ」
「東海にか?」
「ああ、小学校ん時、2年ほど東海の親戚んちにいた」
その2年間は、サンジにとって最も辛い日々だった。
昨今目にする虐待のニュースを思えば、あれも一種の虐待だったのじゃないかと思わないでもない。
そう疑うこと自体が、恩義ある親戚に仇を成すようで滅多なことは言えないのだけれど。

「バラティエってぇフレンチの店が、一時だけ俺が住まわせてもらってた家の隣にあったんだ」
小学校に転校手続きは済ませたものの、その家はもともと女性の一人暮らしだったため小学生のサンジのことは放ったらかしだった。
放ったらかしというより、存在をないものとして扱われていたに等しい。
サンジが進んで学校に通うようにはしていたが、食事も満足に取れず洗濯や掃除などの家事をこなしていた。
そうしないと、女性は外で働く以外何もしなかったからだ。
帰宅時間もまちまちで、男性を連れてきた時はサンジはこっそり外に出なければならなかった。
ほぼ給食だけで食いつないでいたが、冬休みに入り本格的に食べ物が手に入らなくなった。
昼間から雪がちらつく日、家から出されて行く当てもなく勝手口に膝を抱えて蹲っていた。
その時、向かいの店からいかつい男が顔を出し、サンジの姿を認めていったん引き返してからまたやってきた。
怒られるかと思った。
目障りだ、うっとうしい、邪魔だと何度も言われてきたから、ここにいたら怒られるかと。

「腹、減ってるのか」
ぶっきらぼうながら、予想に反して穏やかな声が頭から降ってきた。
咄嗟に縮こまっていたサンジは、おそるおそる顔を上げる。
男の手には、大きめの陶器の器が乗っていた。
湯気が立って、いい匂いがする。
「今夜のスープだ、お前、試食してみろ」
「ししょく?」
「美味いかどうか、味見してみろ」
そう言って、男性は屈んでサンジにスープを差し出してきた。
その時のぎこちない動きから、男性の足が不自由なことに気付く。
「足、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
両手でおずおずと受け取ると、分厚い陶器は思ったほど熱くなかった。
冷え切った指に沁みとおるように、心地よい暖かさだ。
「あったかい」
「スープは熱いぞ、気を付けて食え」
その時のスープの味を、サンジは一生忘れない。

「それから時々俺に味見させてくれて、厨房も覗かせてくれるようになったんだ」
電車に揺られながら、ゾロは黙って聞いている。
「俺が料理を習いたいというと、そこからは厳しく躾けてくれた。へまやるとすぐ怒るし怒鳴るし蹴るし、すっげえ乱暴なんだけど、どん臭い俺を根気よく教えてくれたんだ。俺がいま、こうして一応それなりに料理ができるのは、そん時のジジイのお陰だ」
「そうだな」
きっと基礎の基礎を習ったのだろう。
彼なりアレンジしていても、何を作っても美味い訳だとゾロは納得した。
「で、2年後に別の親戚に預けられることになって、ろくに礼も言えねえまま場所を移ったんだ。それからずっと、俺は心残りで…」
サンジはそういうと、目を輝かせてゾロを見上げる。
「だから、偶然でもここで店の誰かに会えるかもって思うと、それだけですげえ嬉しい。いつか、いつか金が溜まったら…そんな日は来ないかもって思ってたんだけど、でもいつか金を貯めて、ジジイに礼を言いに行きたかった」
「そうか」
「ずっと、どうしてるかなって思った。そりゃ、向こうにしたらちょっとの間だけ飯を分けてやった貧乏くさいガキだって、覚えてるかどうかさえわかんないけど。俺にしたら一生の恩人だ。味見なんて理由を付けて、俺にいつも腹いっぱい食わせてくれた」
サンジは「あ」と小さく声を上げ、車内の中刷り広告に目をやる。
「ほら、あれ。シスターアンコーってのはバラティエのデザート部門なんだ。小さく、『バラティエ』って書いてあるだろ」
ちょうど百貨店のイベント広告が吊ってあった。
「俺がいた時はまだそんな部門なかったんだけど、パティってパティシェが計画してるの聞いてたんだ。だから、間違いない」
「その、恩義ある爺さんに会えるといいな」
「うん、でも遠いから来てないだろうなあ。せめて、パティに会えればいいな」
小声で話している間に、電車は駅に着いた。



土曜の午後のデパートは、どこもかしこも混んでいた。
特にデパ地下はすれ違うのもやっとな混雑具合で、芋の子を洗うようだ。
「東海フェアで人気あんのかな、だと嬉しい」

雑踏の中、まるで魚市場みたいなだみ声が響いている。
デパ地下に鮮魚店が?と思い顔を向けてみると、和洋菓子コーナーだった。
「へーい、いらっしゃいいらっしゃい、シスターアンコーのガレットだよ!」
「パティ?!」
サンジは思わず声を上げた。
どう見ても卸市場のおっさんみたいないかつい男が、ねじり鉢巻きをして菓子を売っている。
「はい、シスターアンコー最後尾はこちらです」
スタッフにテナントが見えない位置にまで誘導され、非常階段に並ばされた。
「すげえ列だな」
「こんだけ人気なんだ、嬉しいな」
サンジは目を輝かせながらそう言い、ゾロを見てへにょんと眉を下げた。
「あ、ごめん。ゾロまで並ばせちまって」
「いや構わん。俺もお前が世話になった人に礼を言っておきたい」
すっかり保護者的物言いに、サンジは不服そうに首を傾ける。
「それより、パソコンはどうだ。使えそうか」
「あ、昨夜もちょっと使わせてもらったけど、なんとなくわかってきた」
サンジはそう言って、中空に指先でくるりと円を描く。
「なんかさ、変な話だけど料理してて段取り間違えると、この『元に戻す』矢印を探したりすんだよ」
「…は?」
「リアルでも、あの矢印あったら元に戻るような錯覚を起こす」
「はア」
ゾロは顎に指を当て、眉間に皺を寄せた。
「わかるような、わらかねえような」
「えーわかんねえ?」

列は長いが回転は速いようで、立ち止まる間もなくサクサクと進む。
あれこれ話している間に、店が見えてきた。
でかくて丸い髭面の大男が、パティだという。
「あの、どんだけ買ってもいい?」
「どうせだから全種類買おうぜ。あと、職場にも持っていきたい」
「え、いいの?ありがと」
サンジはウキウキしながら、首を伸ばして列の前をのぞき込んだ。
「焼き菓子もパッケージも上品でおしゃれなのに、なんで売る人間がああな感じかなあ」
「見事だな」
デパートのマネキンさんらしき人を除き、全員強面のおっさんだった。
サンジがいた時から、変わっていないらしい。
順番が来たので、マネキンさんから受け取ったバスケットに焼き菓子を入れていく。
会計の時に、ギフト用のボックスも頼んだ。
ちょうど、奥のベースから新しい菓子をもってパティが出てきたところだ。
「パティ」
「はいよっ!」
勢いよく振り返り、パティはしばらく動きを止める。
サンジの顔をまじまじと見てから「ああ!」と素っ頓狂な声を出した。
「なんでえ、チビナスか?!」
「チビナス言うな!」
条件反射で言い返したが、パティの太い腕がブース越しに伸びてサンジの頭をむんずと掴んだ。
「なんだなんだ、チビナスじゃねえかでかくなりやがって!元気だったか!」
割れるような胴間声で、パティが乱暴に髪を掻き混ぜる。
「元気だよ、痛えって。相変わらずだな」
はしゃぐサンジを横目に、ゾロは買い物の会計を済ませた。
「ジジイは、元気?」
「ああ元気も元気、相変わらずだぜ」
パティは目を潤ませ、ぐしっと鼻の下を擦った。
「しかしでかくなりやがって、今どうしてんだ、学生か?」
「いんや、仕事探し中」
「マジか!」
パティは目を剝き、それから辺りを憚るように見回してからサンジの肩に手を回した。

「おい、暇なら手伝え」
「いいの?!」
「一応百貨店だから今日は無理だが、話しつけとくから明日来れるか?」
「行く、いつからでもいいぜ。タダでもいい」
「そりゃダメだ、バイト料はちゃんと弾む。これ、俺の連絡先だ」
パティはポケットから名刺を取り出し、差し出した。
「今は立て込んでるからな、今晩にでも連絡くれ」
「わかった、俺から連絡する」
商売の邪魔をしてはいけないので、サンジはささっと会話を交わしてすぐに店から離れた。
幸い、買い物の流れは妨げなかったようで、相変わらず飛ぶように売れていてスタッフたちは大忙しのようだ。
「話せたか?」
少し離れた位置で、ゾロが待っていてくれた。
サンジは駆け寄って、もらった名刺を見せる。
「ああ、明日からバイトで雇ってくれるって」
「そうか、そりゃよかったな」
思わぬ展開になって、サンジも興奮を隠しきれない。

「俺のこと覚えててくれて、元気かって喜んでくれた。すげえ嬉しい」
「よかったな」
「今夜、俺から連絡しなきゃ」
「今は、それどころじゃなさそうだ」
ゾロの言葉に振り返ると、相変わらずの混雑ぶりだった。
バラティエの名がここまで売れて、パティが手掛けるシスターアンコーが人気なのがとても嬉しい。
「よかった。ゾロ、ありがとうな」
振り返って礼を言えば、ゾロは買い物袋を軽く掲げて微笑んだ。






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