めざまし時計
-7-



衣擦れの音と共に沈む感覚がして、サンジははっと目を覚ました。
開いた視界の先に、骨太な男の手がある。
視線を上げれば、見下ろすゾロと目が合った。
「おは、よう」
「おはよう」
どうやら二度寝していたらしい。
しかもゾロが眠るベッドにうつ伏せるようにして。

え、これ不自然じゃね?
ってか、寝ぼけてたんだな俺。
うん、寝ぼけてたんだ。

誰に言い訳するともなしに心の中でそう唱え、サンジは身体を起こして乱れた髪を両手で撫で付けた。
「あー・・・寝てた」
「ああ、俺もよく寝た」
時計を見れば、もう昼前だ。
サンジはともかく、ゾロはそりゃあよく寝ただろう。
昨夜だって23時には電池が切れたように寝落ちていた。
ほぼ12時間、寝っ放しだ。

目覚めた直後に目が合ったせいか、それともサンジが考えすぎなのか。
なんともバツの悪い思いで、モソモソと身支度をした。
サンジが着替えている間にゾロが洗面所に行き、入れ替わりでサンジが顔を洗っている間にゾロが服を着る。
朝食・・・というよりほぼ昼食になにを食べようかと、冷蔵庫を覗くサンジにゾロが提案した。
「たまには、外で飯食おう」
「お、おう」
サンジの中では「外食=自分で食事を作れない状態」なので、純粋に食事を楽しんだことがない。
「いわゆる“ランチ”ってやつ?」
ちょっとだけ、胸がときめいてしまった。
「店によってはまだモーニングもある」
ゾロの言葉に、サンジは素で驚いた。
「なんで?もう昼だろ」
「都会の朝は遅いんだ」
モーニングセットというものだろうか。
外食すらまともにしたことがないサンジにとって、縁遠い品物だ。
「おれ、“モーニングセット”っての、食べてみたい」
「決まりだな、出掛けるぞ」
ゾロの後について、サンジは浮き浮きと部屋を出た。



ゾロと暮らし始めて、サンジにとっての「初めて」がたくさんできた。
普通の人にとってはただの朝食も、サンジには大変なご馳走だ。
朝から店で朝食を食べられるなんて、なんて贅沢なのだろう。
「俺の行きつけだが・・・」
「いいよ、それがすごくいい」
はしゃいだ様子のサンジにゾロの方が驚いたようで、そんなことを言ってくる。
「なんの変哲もない喫茶店だぞ、そう期待するな」
「えー、俺めっちゃ期待してるけど」
わざとプレッシャーを掛けると、ゾロはなぜだか愛しそうに目を細めた。
そんな顔をされると、こっちが気恥ずかしくなっちゃうじゃないか。
勝手に鼓動が早まって、サンジは慌てて目を逸らした。
今朝、唐突に自覚してしまったせいか、ゾロの一挙一動がいちいち心臓に来る。



ゾロに連れられて入った喫茶店は、古き良きレトロな雰囲気だった。
ドアを開ければカランカランと来客を告げるベルが鳴り、昼間でもやや暗めの照明の下、カウンターから渋いマスターが「いらっしゃい」と声を掛ける。
「今日は、可愛いお連れさんが一緒ですね」
どこかで言われたような台詞を投げられ、サンジは反射的に振り返ってしまった。
やっぱり、可愛いレディの姿はない。
もしかして、ゾロには可愛いレディの守護霊でも憑いているんだろうか。
首をひねりつつ、クラシカルな天鵞絨地の椅子に座った。
ふかっと、腰が埋まる。

メニューを見ると、なんとモーニングセットは3種類から選べるらしい。
しかもコーヒーまでついてくる。
卵にサラダ、ハムまでついて栄養バランスも完璧だ。
サンジは感激にむせび泣きそうになった。
朝から(もう昼だが)なんて贅沢なんだろう。
「そんなに感動することか?」
目を潤ませる様子に、ゾロが気遣わしげに覗き込んでくる。
「うっせえな、俺にとっちゃ衝撃なんだよ」
今までゾロは、休日ともなればこの店でこのような朝食を食べていたのかもしれない。
だったら、これからサンジが作る朝食も、これ以上に充実したものにしなくては。
密かに決意を新たにしていると、先に食べ終わったゾロがコーヒーのお代わりを頼んだ。
お代わりまでできるとは!
いちいち感動して、胸が詰まる。
そんなサンジの様子に頓着せず、ゾロは店に置いてある新聞紙に目を通した。

「それで、今日の買い物だがな」
「お、おう」
そうだった、今日は買い物に行くんだった。
「なに買うんだ?食材は日曜朝市の方が安いけど、二人で買って帰るなら隣町のスーパーで・・・」
「布団」
「は?」
「布団、お前の」
思いがけない買い物にサンジは驚いて手を止めた。
「俺の?」
「ああ、うちは客用の布団なんざねえから、お前毛布で丸まって寝てっだろ。あれじゃ窮屈だし熟睡できねえ」
「ンなことねえよ、むしろこんなにあったかくて柔らかい場所で眠れるなんて、めったにねえからめっちゃ快適」
サンジは大真面目に行ったのだが、ゾロはそこでなぜか目頭を押さえた。
新聞紙の影に隠れているが、紙片が小刻みに揺れている。

「本当はベッドを買ってやれればいいが、いかんせんもう一台となると部屋が狭すぎる。布団で我慢してくれ」
「だからいいって、そんな・・・いつまでも厄介になるつもりはねえよ、勿体ねえし」
サンジがそう言うと、ゾロはなぜか血相を変えた。
「俺の目覚ましはどうなるんだ」
そこを突かれると、困ってしまう。
だが、サンジは思い直した。
「それこそ、俺じゃなくてちゃんと朝起こしてくれる嫁さん、見つけたらいいじゃん」
「すぐに見つかるとは思えん」
「だから、俺はその間までの繋ぎってことで」
「だったら、やはり布団は必要だろう」

小声で会話しているはずなのに、そこそこ賑わっている客同士の会話が途切れなぜか店内は静かだった。
控えめなジャズのBGMだけが流れている。

「それに、いつまでも世話になってる訳にもいかねえし、本格的に仕事探そうと思う」
サンジの言葉に、ゾロは真面目な顔で「そうだな」と頷いた。
「職安に登録はできてるか?身元引受人なら俺がなるが」
「そうして貰えるとありがてえ。あと、言いにくいんだけど生活費はもうちょっと、待ってくれるかな。親戚への返済が滞ってて・・・」
それに、ゾロがすっと掌を翳してきた。
「そのことなんだが」
「うん」
「お前の親戚は、この人だな」
ゾロが懐から封書を取り出し、広げて見せた。
そこには叔父の名前が自筆で書かれ、印鑑が押されている。
「え、あ、そう。なんでわかったんだ?ってか、なにこれ」
よく読んでみるが、なにやら小難しい文面が羅列していてよくわからない。
「平たく言うと、叔父さんはお前のために今まで金を溜めていてくれた、ということだ」
「えっ?!」
サンジは驚いて、顔を上げた
「お前のご両親が遺してくれた保険金や学資保険、そこから学費や生活費を差し引いても充分にお釣りがくる。さらに、お前が借金返済と称してコツコツと払っていた額も全部、こうして貯金されていた」
「え、なんで?」
サンジは混乱していた。
この年になるまで育ててくれるのに、莫大な金が掛かったと聞かされてきたからだ。
微々たる保険金で賄えるものではなく、一生かかっても返しきれないほど借金額が膨らんでいると聞いていたのに。
呆然とするサンジに、ゾロは言葉を選ぶように慎重に説明した。

「まあ俺の憶測だが、叔父さんはお前のためを思ってそう言ってたんだろうな。幼い頃にお家族を亡くして辛い思いをしたけれど、それでも、一人ででも強く生きていけるように。心を鬼にして厳しく接したんだろう。そうしながら、ちゃんとお前のために財産を蓄えておいてくれた。そういうことだ」
「・・・そうだったのか」
耐え切れず、ほろりと涙を零してしまった。
今までの辛い記憶が、走馬灯のように脳裏に浮かび上がる。
いくつもの親戚にたらい回しにされ、どの家でも居心地の悪い思いをしてきたこと。
従兄弟と差を付けられ、役立たずのごく潰しと苛められても耐えてきたこと。
空腹を紛らわすために、公園の水をがぶ飲みして凌いでいたこと。
家族旅行で留守を任され、冷蔵庫も空っぽでやっぱり水道の水を飲んで耐え忍んだこと。
なにもかも、自分を鍛えるための愛の鞭だったんだ。

「お、叔父さんにお礼言わないと・・・」
サンジがそわそわしながら立ち上がったので、ゾロもつられたように立ち上がり肩を押さえた。
「いや、それはしない方がいい」
「え、なんで、こんなに親切にしてもらったのに」
「だからこそ、だ」
ゾロはそう言って、まあまあと宥めるようにサンジを座らせた。
「叔父さんはお前から感謝の言葉が欲しいんじゃない、叔父さんの願いは、お前の幸せだ」
「俺の?」
「ああ、だから叔父さんに感謝するなら、お前はこれからどんどん幸せになって行くことが一番の恩返しだ。俺が言ってることが、わかるか?」
噛んで含めるように諭すゾロに、サンジはこくんと頷いた。
「でも、せめて一言お礼を・・・」
「それは叔父さんが望むことじゃない。礼なんかいらないから、幸せになれと叔父さんは言ってた」

そうなんだろうか。
でも、ゾロがそう言うなら、そうなのだろう。

「ってか、なんでゾロは俺の叔父さんこと知ってるんだ?」
「ああ、それは調べたから」
しれっと応えるゾロに、サンジは目を丸くした。
「そんなことわかるのか?しかもこんな短期間で」
「大学時代の先輩に弁護士がいて、ちいと色々調べて貰った。今はまだあくまで誓約段階だが、お前の誕生日までにこの金額を耳を揃えて支払うことになっている」
ゾロの言葉の一つ一つに、なんとなく違和感を覚えるのは気のせいだろうか。
そこはかとなく滲み出る強制臭・・・
「ほんとに、叔父さんが?」
「そうだ、叔父さんはいい人だな」
ゾロにそう言われ、サンジの胸にじんわりと嬉しさが込み上げた。
亡くなった父の父、祖父が再婚した時の連れ子で血が繋がらない叔父だけれど、身内が褒められるのは嬉しい。

「わかった、ゾロがそういうなら、叔父さんにお礼は伝えない」
そこでなぜか、ゾロは安堵の表情を浮かべた。
「その代り、心の中でずっと感謝を忘れないよ。そして叔父さんが望むとおり、俺は幸せになる」
本当はもう、とっくに幸せなのだけれど。
ゾロと出会えて、それだけですごくすごく幸せだ。
そう言いたかったが、口には出さなかった。
さすがにこれは引くと思う。



「ごちそうさまでした」
サンジが食べ終えるのを待って、ゾロは読んでいた新聞紙を畳んだ。
「うし、行くか」
「布団屋?」
「ああ、量販店に行けばなんでもあるだろうが、その前に腹ごなしに映画でも観るか」
「えい、が?!」
サンジは雷にでも打たれたかのように、固まってしまった。
その様子を、レジで精算しながらゾロが振り返る。
「どうした」
「・・・えいが」
「なんだ、映画は苦手か?」
「ち、違う」
慌ててブンブンと首を振る。
「俺、映画館って行ったことねえ」
「・・・」
「あ、映画は観たことあるぞ。学校の授業とかで、道徳的なの」
だから、映画を観たことはあるが映画館に行くのは初めてだ。

「えー、映画館ってどんななんだろ・・・」
「その様子だと、観たい映画とか知らなさそうだな」
「え、や、ある。すげえ寒くて家電の店入ってた時、宣伝してた。あれ、まだしてるのかなあ」
「じゃあ、まず映画館行くか」
「おう!」
嬉しそうに頷いて店から足を踏み出し、「あ」と振り返る。
「今日のモーニングも、俺につけおいてくれな。叔父さんが俺のためにためておいてくれたって貯金を手にしたら、ちゃんときっちりゾロに返すから」
「わかったわかった」

カランカランと音を立てて、喫茶店のドアが閉まった。
聞き耳を立てていた客たちが一斉に息を吐き、元のざわめきが戻ってきた。







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