めざまし時計
-3-



ひそやかな朝の気配に誘われるように、サンジはパチリと目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
見慣れない天井、壁にはハンガーに掛けられたスーツが吊るされ、遮光カーテンの隙間から白い光が漏れている。
見知らぬ誰かの、部屋の中だ。
薄目を開けて視線を巡らせてから、瞼を閉じた。
温かい毛布の感触が、頬に心地よい。
――――あーよく寝た。
横になったまま欠伸を一つして、もそもそと起き上がった。
傍らにあるセミダブルのベッドの上で、緑色の髪の男がぐうぐうと寝入っている。

「ああ、そっか」
思い出した。
成り行きで拾ってくれた男の部屋に転がり込んだんだった。
そして自分の役目は、確か「目覚まし時計」

「えっと、何時に起こせばいいんだ?」
昨夜は、肝心の起床時間を聞いていなかった気がする。
慌てて立ち上がると、ローテーブルの上に書置きがあるのに気付いた。
広告チラシの裏に大きな字で「7時半に家を出る」と書いてある。
時計を見れば、まだ5時過ぎだ。
「余裕じゃん」
サンジは張り切って、まずは自分の寝床を片付けた。



昨夜、スーパーで一緒に買物をしながらゾロの好みを聞いた。
なんでも食べるが、好きなのは和食だという。
サンジが親戚の家で家事を受け持っていた時は、従兄弟達がハンバーグだのオムライスだのを好んだのでほとんど洋食オンリーだった。
でも、和食だって作れないことはない
時間が空けば図書館に通って、レシピ本を眺めて過ごしていたのだ。
基礎知識と大体のレシピは、頭の中に入っている。

飯を炊いて野菜を茹で、和え物を作った。
魚の干物を焼き、出汁を取って味噌汁を作る。
ゾロは、あまり具が多くない方が好みらしい。
漬物は、ゾロと二人で選んで買った。
定番の和朝食だが、サンジ自身は作るのも食べるのも初めてだ。
今までは自分が焼いたパンの切れ端や、野菜くずしか口にしていない。
「料理作るのって、面白れェなあ」
家事をすることは苦ではなかったが、少しも辛い気持ちにならなかったと言えば嘘になる。
でも今は、単純に楽しい。
誰かのために料理することが心底楽しくて、わくわくする。

「よし、完璧」
朝食の準備はできた、もういつでも食べられる。
時刻はそろそろ6時半だ。
ゾロがどのくらいの時間を掛けて身支度をするかはわからないが、1時間もあればゆっくり食事もできるだろう。
「起こすか」
改めて寝室に入ったが、そこで「はて」と考えてしまう。
どうやって起こせばいいんだろう。

親戚の家でも、さすがに「起こし役」を任されたことはなかった。
友人同士で泊まったことがないから人を起こした経験はないし、そもそも寝食を共にするほどの親しさを誰かに感じたこともない。
昨日会ったばかりの男を相手に、どう起こせばいいのか。
戸惑いつつ、手始めにちょいちょいと肩を突いてみた。
「朝だぞ」
ゾロの寝息は、乱れもしない。
「起きろ」
肩を掴んでゆさゆさと揺すぶってみる。
一度「んがっ」と鼻を鳴らしたが、起きる気配はない。
「起・き・ろ」
思い余って、掛布団を勢いよく剥いだ。
パジャマの上着が胸まで捲り上がっていて、片手は横腹辺りでズボンの中に突っ込まれていた。
「げ」
一瞬見てはならないものを見た気がして、慌てて布団を直す。
が、思い直して恐る恐る捲ってみた。

なにか運動をしているのか、鍛えられ引き締まった身体だ。
露わになった腹筋もバキバキに割れていて、見た目に見苦しさはない。
これで、腹が出たおっさん体型だったら目も当てられない寝相だろう。
サンジが観察している間に、ズボンに突っ込んだ手がボリボリと脇腹を掻いた。
掻きながら中央付近へと移動しそうになるのを、慌てて腕を押さえて止める。
やっぱりなんか、非常に危険だ。

「起きろー!」
腕を引いて、耳元で怒鳴る
これだけやっても知らん顔できるなんて、大物過ぎだろう。
「起きろっつてんだろ!」
サンジとて気が長い方ではない。
軽く頬を叩いたり髪の毛を引っ張ったりしたものの、まるで反応がなかった。
これでは確かに、ただの目覚まし時計には荷が重すぎる仕事だ。
多少小突いても無駄だと確認して、サンジはすうと息を吸った。
「朝、だ――――!」
致命傷にならない程度に急所を避けて、蹴り飛ばしてみた。



「もう朝か」
サンジ渾身の踵落としを受けながら、ゾロはケロッとした顔で目を覚ました。
時刻は、6時50分になろうかとしている。
起こすだけで20分も掛かってしまった。
ベッドの上に座り眠そうに目を擦る様はどこか幼くて、大の男のくせにちょっと可愛い。
「飯、できてるぞ」
「飯を食うぐ―――」
半眼でなにか言いかけたが、サンジの昨夜の剣幕を思い出したのか即座に口を閉ざした。
そして欠伸を一つして、ベッドから降りる。
「わかった、顔洗ってくる」
ゾロの態度に気をよくして、サンジはいそいそとキッチンに戻った。

「いただきます」
サンジが並べた料理を前にして、ゾロはきちんと手を合わせる。
「いただきます」
同じように唱え、サンジも自分の茶碗を手に取る。
一人暮らしが長いゾロだが、一応食器類はペアで揃えてあった。
使わずに箱に仕舞われていたのを、ありがたく使わせてもらう。
ゾロは味噌汁をすすって、一人でうんと頷いた。
「どうだ?」
「美味い」
「だろ?」
サンジはニカッと笑い、自分も味噌汁に口をつける。
「うん、いい出汁」
満足げなサンジの目の前で、ゾロは頬袋を膨らませ黙々と食べた。
朝食を食べる習慣はなかったが、食欲をそそる匂いと味噌汁の味に胃袋が目覚めてしまったようだ。
「おかわり」
「ほい」
空になった茶碗を受け取り、炊き立てのご飯をふんわりとよそってやる。
思ったよりたくさん食べてくれそうで、嬉しい。
「味噌汁も、おかわりあるぞ」
「もらう」
ずずっと飲み干して、空の汁椀を差し出してきた。
「お前も食え」
「俺はあとでゆっくり食う」
美味しそうにたいらげるゾロの姿を見ているだけで、胸がいっぱいだ。
すごく嬉しい。

「朝飯は、こんな感じでいいか?」
「ああ、上等だ」
綺麗に食べつくして、ゾロはパンと手を合わせた。
「俺まだあんまりバリエーションねえから、なんかリクエストとかあったら聞くぞ」
「そうだな」
ゾロは食後の茶を飲みながら、視線を斜め上にして考えた。
「甘くない卵焼き、とか」
「あ」
サンジはポカンと口を開けた。
「そうだ、俺なんか忘れてると思ったら卵焼きだ。つか、卵料理も朝食の定番じゃねえか」
ああしまったと頭を抱えるのに、ゾロはどこか眩しそうに目を細める。
「明日は、卵焼きもつけてくれ」
「わかった、任せろ」
「いつも和食じゃなくていいぞ、洋食もなんでも食う」
「そんなん言われると、めっちゃいろいろ考えちまうじゃねえか。クソ…」
サンジはそう言って、一瞬泣きそうな顔で口を緩く曲げた。
「クソ楽しいじゃねえか」
くしゃりと、顔を歪ませるサンジの頭にゾロの手がポンと乗る。
「美味かった、ごちそうさん」
軽く撫でられて、サンジは首を振って避けながらも涙目で笑った。



「帰りはたぶん、8時前ぐらいになると思うが…」
ゾロはスマホを取り出し、サンジを振り返った。
「スマホ、持ってねえよな」
「生憎」
実は、使い方さえ知らない。
「部屋に電話繋いでねえから、お前と連絡の取りようがねえな」
「もし遅くなったって別に待ったりしねえから、気にせず仕事がんばれ」
「おう、そうしてくれ」
ゾロはコートを織り、靴を履く。
サンジは上がりかまちに立って、襟を直してやった。
「うし、いってらっしゃい」
「行ってきます」
二人とも若干テレがあるのか、お互いに視線を微妙に外した状態で見送った。

「いってらっしゃい、か」
ドアが閉まって数秒してから、サンジは改めて声に出してみる。
うん、悪くない。
相手が可愛いレディでないのはとてもとても残念なのだけれど。
悪くない。




天気も良いので窓を開け放ち、隅から隅まで掃除した。
昨夜気になった風呂場も、トイレもピカピカだ。
洗濯物もよく乾きそうだし、昼前には大体の家事が終わってしまった。
簡単に昼食を食べ、午後は最寄りの駅まで歩いてみる。
ゾロは「徒歩15分〜1時間」と恐ろしくアバウトな言い方で駅への方向を教えてくれたが、歩いて10分だった。
ほぼ、目と鼻の先といっても過言ではない。
「あの方向音痴っぷりは、マジで病気じゃねえのか?」
若干心配になりつつ、駅にある地図を眺めた。
ゾロが住んでいるマンションの周辺に何があるか、確認してみる。
昨夜行ったスーパーの位置もわかったし、とりあえず駅前の商店街から散策してみよう。
どこに何が売っているか、どのぐらいの値段なのか。
ぶらぶらと歩きながら見比べて検討するのは楽しい。
少ない小遣いでやりくりして、少しでも残ったら貯金して親戚への借金を返してきた。
これからゾロに世話になるとすると、ゾロにだって生活費を納めなきゃならない。
「なんかバイト、ないかなあ」
一緒に暮らす以上一存で決める訳にもいかないので、バイト情報だけ入手して相談することにしよう。

昨夜、ある程度の買い置きはしておいたが夕方のセールもなかなかにお得だ。
今夜の献立を考えつつ、必要なものを買い足して家に戻る。
ゾロは財布も鍵も迷いなく預けていったから、責任重大だ。
「あんなお人好しで、ちゃんと仕事できてんだろうか」
見ず知らずのサンジを自宅に住まわせてくれるなんて、怖そうな外見のわりに仏様のような慈悲深さだ。
こんなに無防備では、悪い人に騙されることだってあるかもしれない。
自分がしっかりしていないと。



日が暮れるより早く、部屋に戻った。
夜ともなると、外は冷える。
暖かい部屋で迎えてやりたい。
夕食の支度をしつつ、カッターシャツにアイロンを当てた。
アイロン一式も揃えてあったが、使った形跡がない。
形状記憶シャツと銘打ってあっても、やはり皺は残るから一応綺麗に当てておく。
できれば箪笥の中も整理したかったが、さすがに本人の了解を得ないとダメだろうと手を付けなかった。
その代わり、目につくところは勝手に整理整頓してしまった。
物は捨てていないから、大丈夫だろう。

午後7時過ぎに、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「はーい」と返事して、玄関へ向かう。
「俺だ」
「あ、開いてる」
ガチャリと、ドアノブが回ってゾロが顔を出す。
「鍵、掛けてないと物騒だぞ」
「おかえり」
「…ただいま」
サンジに言われて、付け足した。
「大丈夫だろ、俺が中にいるのに」
「だから心配なんだ、世の中どんな悪い奴がいるかわかんねえんだぞ」
度を越したお人好しが、何を言っているのか。
呆れながらも、サンジは素直に言うことを聞くことにした。
「わかった、これからは鍵を掛ける」
「よし」
ゾロは偉そうに頷きつつ、コートを脱ぐ。
「早かったんだな」
「ああ、なんでか今日は駅から早く着いた」
徒歩10分の距離なのに、普段はどれだけ時間が掛かってるんだろう。
コートを受け取ってハンガーに掛けると、ゾロは下げていた小さな袋も一緒に差し出した。
「これ」
「なに?」
「スマホ」
え?と、サンジは目を見開いて固まる。
「スマホ?なんで?」
「やっぱ、連絡つかねえと不便だろ。なんか、ポイントとか溜まっててタダで貰えた」
「え?いいの?ってか、それタダじゃなくね?」
「金払ってねえんだから、タダだろ。機種が古くて安物だが」
「ええ、いいの?マジで?」
サンジは恐る恐る受け取って、そうっと中を見る。
いくつかの箱と分厚い冊子が入っていた。
よくわからないが、これはサンジのスマホらしい。
「ええー嬉しい、嬉しいけど、使い方わからねえ」
「後で設定しよう、まず飯を食ってからな」
ゾロの言葉に、サンジは「おう!」と弾んだ声を上げた。






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