めざまし時計
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住宅街でコンビニくらいしかないかと思ったら、マンションの真裏に小さな居酒屋があった。
どうやらゾロのいきつけらしく、暖簾を潜るとカウンターの中の店主が人懐っこい笑顔を浮かべる。
「珍しい、可愛いお連れさんが一緒じゃねえか」
サンジは思わず、振り返った。
可愛いレディでもいるかと思ったのに、後ろには誰もいない。
狐につままれたような顔で向き直ると、店主と常連客らしきおっさん達が笑いを堪えるように肩を震わせていた。
「今日はそっち、いいか」
「どうぞ」
狭いボックス席に対面で収まると、ゾロはおしぼりで手を拭きながら顎で示した。
「まあ、好きなモン頼め」
手元のメニューを、ざっと読む。
酒の種類が豊富で、一品料理はほとんど酒のつまみ関係だった。
「どれも割といけるぞ。酒は?」
「え、俺はまだ」
「未成年か?」
おっさんらしく顔までおしぼりで拭いて、こざっぱりした顔を上げる。
「来月、20歳になる」
「なら、もういいじゃねえか」
「やー、やっぱケジメとして」
渋るサンジに、ゾロはニカッと笑顔を見せた。
「まあ、そういう固さは嫌いじゃねえ」
ドクンと、不意に胸が鳴る。
―――なんだ?
胸の内がちょっと熱くなって、サンジ自身が戸惑った。

前の職場では「いいからいいから」と無責任に飲まされて具合が悪くなり、路上で吐きまくっていたらそのまま置いて行かれたことがあった。
見かねた通行人が水を買ってくれて事なきを得たが、あれ以来サンジは用心深くなっている。
なので、無理強いしない姿勢に好感を持った。

「ソフトドリンクは、ウーロン茶しかねえな」
「それで、あとお握りと出し巻き卵も・・・いいかな?」
おずおずと口に出すと、ゾロは怪訝そうな顔をした。
「他には」
「や、もうそれでいっぱい」
「ンな訳ねえだろ、もっと食え。鶏とか豚とか牛とか」
ゾロはメニューを指さしながら、顔を上げた。
「好き嫌いがあるのか?」
「や、そんなんねえ。俺ァ何でも食う」
「だったら―――」
背を反るようにして、店主に声を掛けた
「いつものプラス、適当に頼む」
「よっしゃ」
ものすごくいい加減なオーダーが、通ってしまった。

「ここは酒が美味いが、飯も結構いける」
「それに、迷わず帰れるしな」
カウンターに座るどこかのおっさんが合いの手を入れ、場がどっと沸いた。
「あんた、方向音痴なのか?」
「別にそうじゃねえ、わかりにくい場所が多いだけだ」
「ンなんことねえだろ、こっからだって裏のマンション戻るのに、最初は二周くらいしてた」
店主にまでからかわれ、ゾロは憮然とした表情をする。
それがおかしくて、サンジは思わず吹き出してしまった。
「どうりで、同じとこ行ったり来たりしてんなあと思ったんだ」
「気付いてたのか」
「や、どうしたって目に付くだろう」
話している間に、チャキチャキしたお姉さんが飲み物を持って来てくれた。
「はい、刺し身に唐揚げ、揚げ出しにナス田楽・・・」
「美味しそう・・・」
食欲をそそる匂いに、くらりと眩暈すら覚えてしまった。
急激に腹が減って来たが、ここで焦ってはダメだと経験上知っている。
「ほら、どんどん食え」
ゾロが嬉しそうに皿を寄せるので、サンジは箸を持って手を合わせる。
「ありがと、でもちょっとずつ食わねえと、胃がびっくりする」
「なんでだ?」
ゾロはビールを呷りながら、首を傾けた。

「昨日からなんも食ってねえんだ、いきなりこんな御馳走が入ってきたら、腹だってビックリすっだろ?」
「なんだと?!」
背後から店主の驚いた声が聞こえ、それにビックリして振り返る。
「なんでそれを早く言わねえ、ちょっと待ってろ」
真剣な顔で、包丁を動かし始めた。
怒られたのかとドキドキしながら向き直ると、ゾロも真面目な顔つきでじっと見ている。
「お前、家がないっつったな」
「あ、うん」
「それも含めて、なにがあったのか話してみろ」
「うー・・・ん」
人様に話すようなことは特にないと思っているので、サンジはちょっと迷った。

「帰る場所がなくなったのは、アパートの隣で火事があって・・・」
「うん」
「先月まで仕事してたんだけど、契約が打ち切られて…」
「うん」
些細なことでも、ゾロは一々相槌を打ってきちんと耳を傾けてくれるので、つい調子に乗って話し過ぎてしまった。
生い立ちまで遡り、間にちょこちょことゾロから質問が入る。
「ご両親は、なんで亡くなったんだ?」
「交通事故、らしい」
「自損か?」
「や、渋滞で停まってたら、後ろからトラックが突っ込んで来たとかで」
「保険は?」
「それは、最初に世話になった叔父さんが全部手続きしてくれたって聞いてる。でも、俺を育てるので赤字になったって」
ゾロは時々難しい顔をして、虚空を睨みつける。
訥々と話している間に、店主が温かい煮込みうどんを持って来てくれた。
程よく冷ましてあって、味が染みて蕩けるように柔らかい。
「わ、美味っ・・・」
「ゆっくり食え」
ゾロはビールをお代わりして、箸を動かしながら世間話の続きみたいに先を促した。
「それで、俺を高校にまで行かせてくれたから、その分毎月ちょっとずつでも返さなきゃと思って・・・」
「―――・・・」
特に口を挟まないが、ゾロの眉間の皺がどんどん深くなっていく。
顰めっ面しい表情で、空のジョッキを掲げ「おかわり」と言った。
応じるお姉さんの顔も、心なしか若干険しい。

「そういう訳で、とにかくまず、仕事から探さないといけねえんだ」
サンジはうどんで温もった腹を撫でて、ほうと息を吐いた。
「すっごく美味しかった、お蔭で元気出た、ありがとう」
サンジが笑顔で礼を言うと、店主はカウンターの向こうで横を向いて鼻を啜っている。
「こんなんでよけりゃ、いつでも食わせてやるよ」
花粉症かな?と首を傾けると、ゾロが空のグラスをどんと置いた。
「仕事探しもいいが、まず住む場所だろ」
「ああ、それも問題だな。どっか、事故物件でいいから安いとことかないかなあ。最近は公園もすぐ追い出されるし、今はちょっと寒いし」
「そんなん、風邪引いちまうよ」
お姉さんが、またビールを持ってきた。
ゾロのピッチは、めちゃくちゃ早い。

「そこで相談なんだが、お前うちに住まないか?」
「は?」
唐突に切り出されたので、サンジはウーロン茶のグラスを傾けたまま固まってしまった。
「うちって、ゾロんち?」
「ああ、さっきの部屋」
「それはありがたいけど、でも迷惑だろ?」
第一、今日出会ったばかりでどこの馬の骨ともわからない同士だ。
サンジにだって、人並みの警戒感はある。
「ただでとは言わん。役に立って貰いたい」
「・・・な、んの」
思わず、身構えてしまった。
心なしか、狭い居酒屋の中も静まり返る。
誰かが、ごくりとつばを飲み込む音がした。

「朝、俺を起こしてくれ」
「・・・は?」
「俺は朝、なかなか起きれない」
深夜ラジオに嵌った高校生みたいなことを、言い出した。
サンジは額に手を当て、「えーと」と呟いた。
「目覚まし時計、セットしときゃいいじゃん」
「無意識に壊す」
「時間差でいくつも仕掛けるとか」
「いつの間にか壊す」
「スマホは?いくらなんでも・・・」
「壊した」
あちゃーと、額に手を当てた。
こりゃダメだ。
サンジは息を吐いて、姿勢を正した。
「わかった、これも一宿一飯の恩義だ。お前の目覚まし役、引き受けよう
「おう、ありがとう」
ゾロも姿勢を正し、ほっとしたように肩の力を抜いた。

「その代わり」
「ん?」
「朝飯は、俺が作るぞ。だからお前もちゃんと食べろ」
「―――・・・」
途端、ゾロは渋面を作る。
「朝飯食う時間があるなら、その分寝ていたい」
「ダメだ、そこんとこ条件にしないと、俺は引き受けねえ」
これだけは譲れないと、サンジはキッと睨み据えた。
「仮にもこの俺を目覚まし代わりに使おうってんだ、だったらちゃんと朝飯を食え。飯を食える状況にいるのにただ面倒臭いからとか眠いからとか、ふざけた理由で食うことを蔑するのは、俺が許さん」
「そん通り!」
店主が横から合いの手を入れた。
そうだそうだと、常連客達が酔っぱらって声を上げる。
「その子が言う通りだ!」
「いい目覚まし見つけたなあ」
「もう、うちの目覚ましになっちゃわない?」
「いやうちだ」
陽気お客さんが多いなあと、呆れながらも微笑んでしまうサンジの前に、ゾロは立ち塞がるように身を寄せた。
「わかった、飯も全般的にお前に任せる」
「だったら早速、材料買おうか」
「あ?コンビニか?」
「24時間スーパー、近くにあるよ」
お姉さんが口添えをしてくれて、サンジはパッと瞳を輝かせた。
「あるの?」
「あるのか?」
ゾロと同時に行って、顔を見合わせる。
「すぐ近くよ」
「なんで知らないんだよ」
「知らねえよ」
サンジに詰られ、ゾロはバツが悪そうに横を向いた。



徒歩十分ぐらいで、目的のスーパーに着いた。
時間帯のせいかほぼ割引されていて、サンジはあれもこれもと籠に入れる。
食費は完全にゾロ持ちだということで、その辺も考慮して食材を揃えた。
「あと酒」
「まだ冷蔵庫にいっぱいあっただろ、こんなに近いならいつでも買いに来れるじゃん」
そうは言ったものの、ゾロ単体だとこの店までたどり着けないかもしれない。
ゾロも同じ考えが浮かんだようだが、自ら口にはしなかった。

サンジがいると帰路も早い。
通り過ぎかけたゾロを引き留め、無事マンションまで戻った。
「お前、物覚えいいな」
「お前が悪過ぎんだよ」
仮にも宿主に対して随分な物言いをしてしまったが、ゾロにはなんでか遠慮がなくなってしまう。
「あの、あんた幾つ?」
「ああ、俺はこないだ26歳になった」
「え?まだ20代?」
失礼な驚き方に、ゾロは怒るでもなく苦笑する。
「まだ、働き始めて2年目のペーペーだ」
「マジか、なんかホラ、貫録あるってえか」
「そりゃどうも」
なら迷子気質でも仕方ないかなァと、甘く見てやることにした。

帰宅してすぐゾロは風呂に入り、その間サンジは買ってきたものを冷蔵庫に入れたり仕込みをしたりした。
包丁は使ったことがあるのかどうか疑わしいほど新しいし、まな板もない。
箱に入れて持ち運んでいたマイまな板を早速活用し、小なべなども収納する。
着替えなどを用意していたら、ゾロがさっさと上がってきた。
「お先」
「早っ、烏の行水にもほどがね?」
「着替え、あんのか?」
サンジは着古したジャージを恥ずかしそうに畳み直して、頷いた。
「真新しい下着ぐらい、あるぞ」
「サイズ合いそうにないし、気持ちだけで」
本当に、人様の部屋にお泊りするんだなあと思うとなんとも妙な気持ちだ。
ちょっとだけ、ワクワクする。
子どもの時にだって、友人の家に遊びに行くこともなかった。
修学旅行にも行ってないし、お泊りなんて初めてだ。

「お邪魔しますー」
ユニットバスはそこそこ狭いが、ちゃんとトイレと別にしてあって使い勝手は良さそうだ。
よく見ると湯船に湯垢が着いている。
明日、ちゃんと洗ってやろう。
たっぷりと張られた湯に身体を沈めると、ほうと安堵の息が漏れた。
こんなにゆったりと風呂に入るのも、久しぶりだ。
以前住んでいたアパートは風呂がなかったから、炊事場で湯を汲んで身体を拭いていた。
銭湯に行く金も、惜しかった。
「あ〜極楽極楽」
じじむさいことを呟いて、湯船に顎まで浸かる。
汗が目に染みたから、手の甲で拭った。
どんどん溢れるのを、絞ったタオルでふき取る。
温かい湯に浸かると、涙腺まで緩むようだ。


「お先でした」
ぽかぽかに温まって、サンジは脱衣所から出て来た。
部屋の電気は点きっぱなしだが、ベッドにはゾロが大の字になって寝転んでいる。
すでに夢の中なのか、ぐうぐうと高いびきだ。
「なんだ、寝つきはいいんだな」
サンジは呆れて、はみ出した手足に布団を掛け直してやる。
ベッドの傍らに、ナイロン袋に包まれた状態で掛布団と毛布が置いてあった。
遠慮なく使わせてもらおう。
部屋の隅に寝床を作り、灯りを消して丸くなる。

こんなに温かくて安全な場所で眠るのも、久しぶりだ。
目を閉じると、ゾロの規則正しい呼吸音が聞こえた。
その心地よい響きは、サンジにとって子守唄のようだった。



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