めざまし時計
-10-



デパ地下の閉店を過ぎて、打ち上げが始まったのは夜の9時半からだった。
翌日も、朝から仕事だ。
ささっと腹ごしらえする程度だが、本店のオーナーを迎えスタッフ達も若干緊張している。
サンジは今日一日でほかのスタッフ達とも随分と打ち解けた。
本当はマネキンのお姉様方も一緒だったらなお嬉しいのだが、彼女達は定められた時間で先に引き上げている。
結果、打ち上げ場所の居酒屋には男のメンツしかいない。

「かんぱーい」
フェアの開始と順調な滑り出しを祝い、お互いに祝杯を挙げる。
サンジも末席でウーロン茶を啜りながら、他のスタッフ達に食事をとり分けたり追加注文を引き受けたりしていた。
腹も減っているが、こうして動いている方がなんだか落ち着く。

「こらチビナス、人の世話ばかり焼いてねえでお前も食え」
パティにそう怒鳴られ、反射的に「チビナス言うな!」と怒鳴り返す。
「チビナスって、なんか可愛いいっすね」
「そりゃあ、そんだけチビな頃にバラティエに出入りしてたんだ」
「古参じゃねえですか」
当時を知らないスタッフ達にからかわれつつ、サンジも神妙に頭を下げた。
「ガキん時は、本当にお世話になりました」
「けっ、しゃらくせえ」
「まだまだケツの青いガキが、生言ってんじゃねえよ」
茶化されて、ぶすくれている間にサンジの皿にいろいろと盛られた。
まずは食えと、急かされる。

上座に座っていたゼフがトイレに立った。
そのまま奥に戻らず、端っこに座るサンジを押して腰を掛ける。
「そんなとこ危ねえじゃねえかジジイ、こっち代わるから」
「いいからもっと詰めろ」
「俺がこっち行きやす」
サンジの反対側に座るスタッフが場所を避けてくれて、ゼフと隣同士になった。
「なんだよジジイ」
「うるせえ、相変わらずヒョロついた身体しやがって、ちゃんと食ってんのか」
「最近は食ってるよ、今日ももう腹いっぱい」
幼い頃に食うや食わずの生活を続けたため、サンジは今でも一時にたくさんの量が食べられない。
「デザートあるぞ」
横からパティがグランドメニューを差し出した。
受け取って、最後の方をめくる。
「ところでお前」
「うん」
「野郎ん家で、世話になってるって?」
「あ、うん」
サンジは顔を上げ、ゼフを改めて見つめ返した。
「ジジイ」
「なんだ」
「今頃でアレなんだけど、本当にクソお世話になりました」
メニューを閉じて、深々と頭を下げた。
「なんだ、藪から棒に」
「ずっと礼を言いたかったんだ。俺にとって、飯を食わせてくれたのもあんな風に優しくしてもらえたのも、ジジイ達だけだった。礼も言えないで引っ越してそれきりになって、でもずっと忘れられないでいて」
サンジはそこまで言って、へへっと照れ臭そうに笑う。
「こんなんガラじゃねえけど、でもずっと、命の恩人でした。ありがとうございます」

膝に手を置いて再び頭を下げると、なんでぇなんでぇとパティが声を荒げる。
「水臭ぇぞ、チビナスのくせに」
「チビナス言うな」
「ガキが、生意気言ってんじゃねえ!」
「そうだ、泣かせやがってこの野郎」
なぜか、サンジの幼い頃を知らないはずのスタッフ達までが鼻水を啜って目元を拭っている。
どうも、義理人情に厚い人種ばかりのようだ。

「まあ飲め、いいから食え」
「じゃあ、カタラーナ一つ」
「パフェはどうだ、あんみつもあるぞ」
わいわいとスタッフ達に囲まれるサンジに、ゼフは変わらず渋い顔のままだ。
「チビナス」
「だからチビナスって…」
「で、てめえが世話になってる野郎ってのは、どこのどいつだ」
再三尋ねられ、そういえばそんな話だったかと思いだした。
「ああ、ロロノア・ゾロってサラリーマンだよ。まだ二十代だけどそこそこ仕事できるみてえで、けどとんでもねえ方向音痴なんだ」
サンジは、ゾロと出会った経緯を簡単に説明した。

「それで、俺は目覚まし時計の役割を引き受けたって訳だ」
そう言ってゼフの顔を見ると、眉間の皺はますます深くなっていた。
あれ?と思って周囲を見ると、パティを筆頭にみな一様に剣呑な表情をしている。
「なにか?」
「サンジ、おめえ大丈夫か?」
「あ、なにが」
サンジは急に不安になった。
今のところ、ゾロの下で大きな失敗はしていないはずだ。
「ちゃんと朝起こしてるから目覚まし時計の役には立ってると思うけど。それに、今日はここにお邪魔させてもらってるから帰りは遅くなるけど、前まではちゃんと夕飯も作ってやれたし朝飯も食ってくれるし、昼は弁当を作って持たせてるし」
「いやいやいやいや」
そうじゃねえ、と向かいのスタッフが掌を掲げる。
「その、ロロノア・ゾロって野郎は大丈夫なやつかと聞いてんだ。妙な事されてねえだろうな」
「妙な事?」
きょとんとして、聞き返す。
何の話か、さっぱり見えない。
サンジがあまりにも無垢な表情で見返すので、スタッフの方がたじろいだ。
「いや…なんでもねえ」
「おい、はっきり言えよ」
「ならてめえが言えよ」
「いや、もしかして俺の心が汚れきってるだけじゃねえのかと」
「俺もそんな気が…」
ひそひそと小声で言い合うスタッフ達の前で、サンジは困ったようにゼフを振り返る。
「ゾロが怪しいやつかもしんねえって、心配してる?」
「そうだ」
即答するゼフに、サンジは首を振った。
「それはない。多分すげえ男気に溢れてて、度を越したお人好しだ。俺が心配になるくらい無防備でさ、初対面なのに飯をおごってくれたし家に上げてくれたし、その上俺が知らない間に親戚の叔父さんと話して、俺のために貯金までしててくれたって調べてくれたんだぜ」
「貯金、だと?」
怪訝そうなゼフに、ことのあらましをざっと説明した。
ゼフの眉間の皺は、ますます深くなる。

「つまり、なんだ、叔父さんとやらはてめえに金を返すと約束したってんだな」
「返すっていうか、俺のために取っておいてくれたって。本当に親切な人だったんだな、俺が無駄遣いしねえように気を付けてくれてたんだ。俺はお礼を言いたいと思ったんだけど、ゾロはそうしない方がいいって。俺が幸せになることだけが恩返しだからってそう言うんだよ。でもやっぱ、一言くらいお礼に行った方がいいよな?」
サンジがそう言うと、ゼフは素早い動きで首を横に振った。
ふと横を見れば、パティを筆頭に全員がぶんぶんと首を真横に振っている。
「え?ダメ?」
パティは身を乗り出して言った。
「ああ、そりゃそのゾロって奴が言っていることの方が正しい。確かにゾロの言うことをようく聞けば、間違いがねえ」
「そうなの」
「そうだ、お前、いい人に拾われたな」
「へへ、だろ?」
途端に、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
ゼフはといえば、嘆かわし気に額に手を当てて俯いている。
「まあなんだ、目覚まし時計としての役割があるってんなら、大義名分になるわな」
「それにしたって、大の大人が自力で起きれねえってのはそもそも社会人としてどうなんだ」
別のスタッフの言葉に、サンジの方がムッとした。
たとえ事実だとしても、ゾロをバカにされたようで腹が立つ。
「仕方ねえだろ、人間誰だって欠点の一つや二つあるよ。丸一年通っててもまともに道が覚えられない方向音痴とか、目覚ましを5つセットしても全部無意識に止めて寝坊するとか」
「…壊滅的だな」
「ただ、ゾロは寝すぎなんだよなあ」
話している間に、デザートが目の前に置かれた。
「いただきます」と皆に断ってから、フォークを持つ。

「だってさ、夜の11時ぐらいにはもうぐっすり寝てるし。ってか、俺が風呂入ってる間とか、パソコンの練習してるときとか、ちょっと目を離したすきにコンマ0.5秒くらいの素早さで寝るんだよ。めっちゃ寝つきが早い」
「なんだそりゃ」
笑うスタッフ達の中で、一人だけ難しい顔をした男が口を開く。
「おい、そりゃほんとに眠ってるのか?」
「へ?」
思いもかけない問いに、サンジはぱちくりと目を瞬かせる。
「新聞だか何だかで見たことあるが、あんまり寝つきがいいやつってのは実は寝不足だって話だ」
「へ?マジ?」
「なんだそりゃあ」
他のスタッフ達も、興味深げに耳を傾ける。
「そいつは、いびきは酷くねえか?」
「…いや、特には」
サンジは思い出しながら答えた。
ゾロは静かに、規則正しく呼吸している。
「無呼吸症候群だったかな。寝ている間に息が止まったり、呼吸が不規則になったりして寝てない症状ってのがある。そうすると慢性的に寝不足になって、ちょっとした時間でもストンと寝ちまう」
「無呼吸症候群って、怖いな」
その響きの物騒さに青ざめた。
「まさしく、呼吸が止まるんだ。あんまり続くと脳に酸素がいきわたらないし身体にも影響が出る」
「マジで?」
そうと聞いたら、居てもたってもいられなくなった。
ゾロのあの頑健な身体に、ほんの少しでも影響があったりしたら大変だ。
「そういうの、どうしたらわかんだろ。治し方は?」
「そこまでは知らねえが、そういう可能性もあるってことだ。なんなら自分で調べてみろよ」
「そうだな、そうする」
にわかに落ち着きがなくなったサンジに、パティは苦笑した。
「じゃあそろそろお開きにすっか、明日もてめえら早ぇからな。頼んだぞ」
「おう!」
騒がしい店内に野太い声が響き渡って、他の客たちが一瞬だけビビった。
「てめえら。まあ、よろしく頼むぞ」
ゼフはそう言い、サンジの手を借りて立ち上がった。
「俺は、二週間後の最終日にまた来る」
「そうか、気を付けて帰ってくれよ」
サンジはゼフの腕を掴んだまま、ぺこりを頭を下げた。
「俺のことを覚えててくれて、またこうして雇ってくれてありがとう」
「けっ、しおらしいこと言ってねえで、キリキリ働け」
「そうする」
サンジは笑って、すぐ隣のホテルに帰っていく一行を見送った。
そうしてすぐさま、踵を返す。
ゾロのことが気がかりで、ならなかった。






「ただいま」
合鍵でドアを開け、部屋の中に入った。
煌々と明かりが点いているのに、ゾロはソファに横たわってすでに眠っている。
相変わらず、寝つきだけはいい。
「あーあ、ベッドに入らないで…」
晩御飯はちゃんと食べたらしく、洗い籠に食器も伏せてあった。
サンジはゾロの身体に布団を掛けて明かりを落とし、風呂に向かった。
上がってきてもゾロはそのままで、ぐうぐうと寝入っている。
耳を澄ませても、いびきをかいている風でもない。

―――――起こして、ベッドに寝かせた方がいいのか。
でもせっかく気持ちよさそうに眠っているのに、起こすのは気の毒だ。
だが、今日はゾロは一日休みでほとんど寝て暮らしてたんじゃないだろうか。
その辺、どうなんだろう。
他人と暮らしたことがないから、気遣いの距離が測れない。
考えあぐねた挙句、サンジは「子供じゃないんだから」と割り切って自分の寝床に入った。


今日は一日たくさん働いたし、ずっと気がかりだったゼフに礼も言えたし、楽しく食べて話せた。
身体的には疲れたけれど充実した一日だった。
とても幸せな気分なのに、頭が冴えてなかなか眠れない。
静かにしているとゾロの呼吸音がやけに大きく響く気がして、それも気になった。
―――――明日も、仕事だから。
何度か寝返りを繰り返し、うとうとと微睡んだ。





ふと、横を向いた拍子に目が覚める。
寝入ったと思ったのに、枕元に置いたスマホに手を伸ばすと、夜中の1時を指している。
そんなに時間が経っていない。
―――――あれ?
目の端に、ソファが映った。
眠るときは、そこにゾロのマリモ頭が見えていたはずなのに、いない。
ベッドに映ったのかと起き上がって首を伸ばしたが、ベッドも空だ。
片方の引き戸が引いてあって、キッチンは見通せなかった。
明かりが点いていないが、闇に慣れた目は暗い部屋の中を見通せる。

音をたてないように、静かに立ち上がった。
毛足の長いラグの上を歩くと、足音が消える。
そうっと扉の向こうを覗くと、キッチンに座るゾロと目が合った。





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