めざまし時計
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サンジは途方に暮れていた。
時刻は午後7時を回った辺りだ。
賑やかな駅前を、家路に急ぐ人たちが足早に通り過ぎていく。
みんな、どこかに帰る家がある。
だがサンジには、帰る場所がない。
大きなデイバッグを担ぎ、段ボール箱をひと箱抱えて、もう1時間近く当てもなく突っ立っていた。

一年務めた派遣の仕事は、更新されなかった。
パソコンなどのスキルを持っていないから、せめて事務作業だけでもなんとか役に立とうと、サンジなりに頑張った。
誰よりも早く出勤してオフィス内を掃除し、要領を覚えた単純作業などは段取りよく取り掛かれるよう、下準備も整えた。
小まめに書類の整理をし、ファイリングも得意になった。
時には道端で摘んだ野の花を、こじゃれたガラス瓶に飾ったりした。
バリバリ仕事をこなせないから、できる範囲で精一杯努力したつもりだった。

サンジより3つ年上で、同じ派遣だったミーコちゃんはとても優しくしてくれた。
サンジの手が空かないように常になにくれとなく仕事を回してくれたし、喉乾いたなァとかお腹空いちゃったァとか、可愛い声で甘えてもくれた。
お客さんが「この花、ミーコちゃんが飾ったの?可愛いね」とガラス瓶を指した時は、「ありがとうございますぅ」とサンジの代わりに返事をしてくれた。
急ぐ時はちゃんとそう伝えてくれて、仕事を終えたサンジの手から書類を受け取り「できましたァ」と外回りから帰った上司に提出もしてくれた。
ミーコちゃんがいたから、楽しく仕事ができたのだ。
彼女の契約は更新されたことが、サンジにとっては救いだった。

なんとか他のバイトで繋ぎながら新しい職を探そうと思っていた矢先、住んでいたアパートの隣で火事があった。
類焼こそ免れたものの放水で部屋は水浸しで、しかも老朽化が激しいアパートだったため大家がこの機会にと取り壊しを決めてしまった。
元々、サンジ以外数人しか入居していないアパートで、家事の騒動でそのまま行方をくらませた入居者もいる。
サンジは着の身着のまま、多くない荷物を抱えて追い出された。
あっという間に、住所不定無職になってしまった。

――――どうしよう。
コツコツ貯めた貯金はあるが、無駄なことに使いたくはない。
ネットカフェに泊まる手もあるが、実はサンジはネットカフェに入ったことがないから二の足を踏んだ。
早くに家族を亡くし、親戚の家をたらい回しにされて育ったので、自分のために金を使うことや遊ぶことの経験がない。
高校まで卒業させてもらったことは感謝しているが、毎日の生活は針の筵だった。
今も、世話になった親戚に当時の生活費を少しずつ返している。
それでも、請求されている額をすべて払い終えるまで何年かかるかわからない。

――――どうしよう。
駅エントランスの柱に凭れ、何度目かのため息を吐く。
こうしている間にも刻一刻と時は過ぎ、日もとっぷりと暮れてしまった。
いい加減、今夜の宿を決めねばならない。
観光案内所で、安い宿を聞いてみようか。
カプセルホテルとか、どんな感じかな。
思案していながら、何度目かの光景に目を止めた。
まただ。
さっきから、サンジの目の前で何度も行き来を繰り返している男がいる。
スーツを着てネクタイを締めた、サラリーマンらしき男。
背は高くがっちりとして、体格がよく姿勢も綺麗だ。
珍しい緑色の短髪で、基本、男に興味のないサンジでも嫌でも目に付く。
男が歩く方向はまちまちで現れる時間も決まってはいないが、何度か通り過ぎては立ち止まってスマホを見るので、もしかして迷子かもしれない。
次に通りかかったら、声を掛けてやろうか。
そう考えて見守っていたら、男はスマホを持ったままサンジが凭れる柱の方へと向かってきた。
ほぼ隣に並び立つようにして寄りかかり、スマホをスクロールしている。
何とはなしに手元を覗くと、やはり地図が表示されていた。
そっと視線を上げ、男の横顔を盗み見る。

整った顔立ちだが、眉間に皺を寄せた表情と目付きの鋭さが甘さを取り除いている。
強面イケメンといったところか。
サンジより、十くらい年上かもしれない。
男が立った場所が風上なせいか、ふわんと汗の匂いがした。
女性の芳しい香水の香りは大好きだが、不思議とこの男の匂い嫌悪感は湧かなかった。
「ホテルアラバスタ…」
男が呟いたので、サンジは反射的に声に出した。
「それ、西口」
「ん?」
男はスマホから目を離してサンジを見る。
身長がほぼ同じくらいだから、思ったより顔が近い。
「それ、西口にあるホテル」
「ここは、西口じゃねえのか?」
見た目の印象と違い、随分とぞんざいな口調だ。
「ここ北口、西口は反対側」
サンジが指し示すと、男は「そうか」と軽く会釈した。
「助かった、ありがとう」
そう言って、まっすぐ駅に向かう。
「あ、待てよ、構内は通り抜けできねえから、こっち回るんだ」
サンジが右手を伸ばすと、男はまた礼を言って左側に行こうとした。
「違うって、こっち」
面倒臭くなって、箱を抱えたまま顎をしゃくった。
「ホテルまで連れてってやるよ」
「悪いな、荷物持つ」
「いいよ、軽いし」
サンジが先に立って歩き出すと、男はちゃんとついて来た。
駅を迂回して西口に出ると、眼の前にホテルアラバスタがあった。
「あれがそう」
「お、意外と近かったな」
「近いどころか、目と鼻の先じゃねえか」
思わず声に出して突っ込んで、いけねえと口を閉じる。
初対面の人に大変失礼だ。
「ま、見つかってよかったな」
「おう、ありがとう。お蔭で遅刻せずに済んだ」
男は礼を言って、ホテルの中に入って行った。

ホテルアラバスタと言えば、この辺では一番高い高級ホテルだ。
泊まるなんてもってのほか、食事も無理だろうけれど、一度くらい中に入ってみたいな。
そんなことを思いながら、また当てもなく歩き出す。
別に駅前に突っ立っていたって目的はないのだけれど、闇雲に歩いても疲れるだけだ。
駅に近いホテルだと高いだろうから、ちょっと歩いて離れた場所を探してみよう。
そう思って歩道を歩くと、会社帰りの人達の波が逆方向に流れていく。
疲れた顔をしている人や、イヤホンをしてまっすぐ前を向いたままスタスタ歩く人。
スマホを見ながら俯いている人に、間を縫うように通り過ぎる自転車。
サンジは箱を抱えた分、肩をすくめてなるべく人に当たらないように歩いた。
小路に差し掛かる度に立ち止まり、安ホテルの看板がないか確かめる。
安い、と思うと「休憩」とか書いてあって、一人で泊まれそうな雰囲気ではなかった。
「なんか探してるの?」
箱を抱えてウロウロする姿が目に付くのか、時々人に声を掛けられる。
相手は男ばかりなので、サンジは聞こえないふりをして足を速めた。
そうしてずんずん歩いている間に、いつの間にか人気が無くなり閑静な住宅街に来てしまった。
明るいのはコンビニくらいで、ホテルなんてありそうにない。

また、駅に戻るか。
抱えた箱の裏で、キュルルと小さく腹が鳴る。
「腹、減ったな」
そういえば、昨夜から何も口にしていない。
子どもの頃からまともに食事を与えられたことはなかったから、少ない食料でも日持ちして燃費はいい方だ。
だが腹だって、減る時は減る。
―――安くて栄養のあるもん、ねえかな。
自分で作るのが一番いいのだが、生憎作る場所がない。
やっぱりカプセルホテルでも探して・・・と歩き始めたら、車道にすーとタクシーが停まった。
「おい」
自分に声を掛けられているとは思わず、無視してスタスタと歩いていた。
「おい、ぐる眉」
「なんだと?!」
失礼な物言いに、反射的に振り向いて怒鳴る。
タクシーの後部座席から窓を開けて顔を出しているのは、先ほどの緑頭だった。
「あ、あんた」
「どこまで行くんだ?送って行くぞ」
そう言って、座席を横にずれる
サンジは困惑して立ち止まった。
「別に、行くと来ねえし」
「なんだ、迷子か」
「あんたじゃあるまいし!」
サンジの前で、後部座席のドアがパカッと開いた。
つい、吸い込まれるように中に入って座ってしまう。
「俺ァ、もう終わったカら家に帰るんだ」
「タクシーで?」
「駅に戻ろうとしたら、駅がなかった」
「ンな訳、ねえだろ」
つい、笑ってしまう。
その間に、タクシー静かに発進していた。
サンジが行き先を言わないから、緑頭の家へと向かうのだろう。
「行くとこねえなら、オレんちに来い。さっきの礼だ」
そんな訳にはいかねえ、と言いたかったが、サンジはもうなんだか疲れてしまってどうでもよくなった。
タクシーの後部座席は、座り心地が良い。
このまま目を閉じたら、うっかり眠ってしまいそうだ。
「大丈夫か、おい」
男が気遣わしげに、横顔を覗き込む。
「大丈夫」と返事をしたつもりだが、勝手に瞼が下がってしまった。



「着いたぞ」
コツンと肩を小突かれ、瞼を開けた。
一瞬あれ?と思ってから、慌てて運転席の時計を見る。
乗り込んだときから10分も経っていない。
どうやら転寝をしたようだ。
「降りろ」
「おう」
せっつかれて、先に降りた。
目の前に、小奇麗なマンションのエントランスがある。
ちょっとだけ睡眠を取って目覚めたせいか、急に頭が冴え始めた。
もしかして、俺まずいとこに来たんじゃないのか。
初めて会った、見ず知らずの男の家に上り込んで大丈夫か?
や、でも俺男だし。
別に用心すること、ないよなあ。
躊躇っている間にも、男は先に入り暗証番号を押している。
振り返って、突っ立ったままのサンジをチョイチョイと手招いた。
「こっちだ」
まあいいか、と素直について行く。

「お邪魔しまーす」
通された部屋は、そこそこの広さだった。
キッチンにダイニング、奥は寝室と言ったところか。
壁の片面がクローゼットになっていて、家具が少なく殺風景だが、床にタオルが落ちていたりして妙な生活感がある。
あまり人の家の中を見てはいけないと思いつつ、開けっ放しの引き戸の向こうにあるベッドを見て思わず噴き出した。
慌てて飛び起きたと見られるひっくり返った掛布団の上に、まるで蝉の抜け殻みたいなパジャマが立っていた。
それこそ、起き抜けに脱皮したまんまだ。
「なに、あれ」
「ああ、急いでたから」
男は撥ねられていた掛布団を、パジャマの上から被せた。
それで直したつもりらしい。
「そんなことより、荷物置け」
言われて初めて、サンジはまだ箱を抱えて突っ立てっいたことに気付いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・」
そう言いながら箱を置いて、改めフローリングの上に正座して居住まいを正す。
「えーと、サンジ、です」
名乗って頭を上げると、男もいま気付いたように床に腰を下ろして、あぐらのままぺこりと頭を下げた。
「俺はロロノア・ゾロだ、今日は助かったありがとう」
「いや、俺こそ厚かましく上り込んで・・・」
視線を上げようとしたら、グギュルルル〜と盛大な音がした。
慌てて腹を抑えるも、まだグルグルと鳴り続けている。
でも手に振動が伝わってこない。
俺じゃない?

「腹減った」
代わりに言ったのは緑男・・・もとい、ゾロだった。
「あ、俺、なんか作ろうか?」
反射的に立ち上がり、あ、あ、と遠慮半分でたたらを踏む。
押し掛けた上に勝手に台所を使ってもいいものだろうか。
「料理、できんのか?」
「うん、得意」
「そりゃ助かるが、材料がねえぞ」
「え?」
サンジはキッチンに入り、「失礼」と断ってから冷蔵庫を開けた。

確かにない。
なにもない、卵ですらない。
あるのは酒、ビール、ワイン、何かの干物。
「なんもねえじゃねえか!」
思わず怒鳴って、乱暴に扉を閉めた。
「だから言ってるだろうが」
「マジねえじゃん、つか酒しかねえじゃん」
「いつもコンビニ寄るんだが」
ゾロの視線の先を見ると、キッチンの隅にパンパンのごみ袋が置いてあった。
中味は弁当ガラだ。
何も考えずにポイポイ放り込んでいるらしく、無駄な空間がたくさんある。
「ダメだ、ゴミ出しからしてダメだ」
サンジは辛辣にダメ出しをし、どれから手を付けようかとしばし考える。

「ともかく、飯食いに行こうぜ」
ゾロの提案に、しぶしぶ頷いた。


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