繭の檻 1


これは檻だと、声が囁く。

無償の愛など存在しうるはずがない。
ましてや赤の他人に与えられる善意など施しに過ぎず、すべては自己満足の産物だ。
思い知れ、己の愚かさを。
まやかしの優しさに縋った弱さを深く恥じ入れ。

そこから――――

再生がはじまる。



金の睫毛に縁取られた目元が細かく震えた。
いよいよ目が覚める頃だと、ガラにもなく緊張する。

サンジさんが、目の前にいる。
憧れに似た想いをずっと胸に秘めていた、唯一の特別な「人」
忌まわしき、心の重枷。

二、三度瞬きを繰り返し、血の気の失せた瞼がゆっくりと開く。
焦点の定まらぬ揺れる瞳は滲んだような蒼を湛えて、その色で捉えられることを本能が恐れた。
気付かれたくない。
そう怯える己を叱咤する。
賽は投げられた。
もう、後戻りはできない。

鬼を取り戻すために、これ以外道はないのだ。


「ギン?」

訝しげに目を眇め、唇が名を告げた。
その音を、響きを胸に受けて、痛みが走る。
サンジさんが、その名を呼んでくれる。
なんの疑いもなく警戒もなく、真っ直ぐに俺を見て、俺の名を呼んで。
まだ気付いてはいないのだ。
「ギン、どうしたんだ俺は・・・」
じゃらりと、耳障りな音が鳴った。
気付いて仰向く、どこか幼い表情が辛い。
この瞬間、俺の心は期待と歓喜に満たされるはずなのに、今胸を締めるのは恐ればかりだ。
サンジさんに嫌われる軽蔑される
絶望される。
それこそを望んで取った行動なのに。

驚きに目を見開き、サンジさんは俺を見た。
ああ、そんな目で見られることに俺はこんなにも怯えている。
やはりまだ駄目なのだ。
捕らわれているのだ。
この偽りの偽善者の瞳に。
ああ、頭が痛い。


「ギン、こりゃあなんの真似だ。」
瞬時に怒りを刷いた瞳が俺を射抜いた。
いっそそうして憎んでくれれば、俺の気は随分と楽になる。
絶望より怒りが、嘆きより憎しみが俺を奮い立たせてくれる。
「サンジさん、あんた相変わらず甘いよな。」
俺はわざと、馬鹿にしたように鼻で笑って見せた。
実際にこの人は恐ろしく無防備で、甘ちゃんだ。
偶然街で出会った俺に、のこのこと付いてくるなんて。
ああ、本当に頭が痛い。



昨日この島についたサンジさんは、予想通りまず市場へと足を繰り出した。
ログが溜まる期間は1ヶ月。
長い逗留になる。
それでもきっと、まずは仕入れのことから考えるだろうと踏んで、俺は市場で待ち伏せをしていた。
そう、出会ったのは偶然じゃない。
俺は随分前からGM号の軌跡を追って、再会するチャンスを狙っていた。


海上レストラン・バラティエで初めて出会った黒衣のコックは、明らかに海賊の俺に飯を食わせてくれた。
クソ美味えだろと笑いかけてくれた。
食糧を分け与えるのになんのためらいもなかった。
こんな風に、無条件で誰かに優しくされたことはなかったんだ。
今まで、生まれてきて一度だって。
ドン・クリークが倒され俺たちは負けたけれど、俺はサンジさんが忘れられなかった。
あの優しさを思い出すだけで心が温かくなった。

クリークが回復し再びグランドラインを目指した俺たちは、相変わらず卑劣な手段で航海を続けた。
客船を襲い島を荒らして、益々巨大な一団へと勢力を広げて行く。
そんな中で、俺だけが少し変わった。
泣き喚き許しを乞う獲物たちを前にして、サンジさんに通じる何かを持つ相手にだけ手心を加えるようになった。
金髪だったり青い目だったり、タバコを咥えた仕種だったり。
そんななんでもないことに、殆ど無意識に。
ドンはすぐに気付いた。
仲間たちには知らせず、俺だけを呼び出し警告した。
鬼人である俺にとって、それは命取りだと。



修羅を覚悟で海を渡る海賊船で、下手な情けは仇となる。
冷酷無比な鬼であるからこそ戦闘隊長の任に着いていた俺を、ドンは無用だと言い切った。
鬼ではない俺に存在価値はない。
だが俺はお前を消したくはないとも。
一度は毒ガスをあおって殺されかけた相手だ。
それでも俺にとってドン・クリークはすべてだった。
こうして一生付き従いドンの隣で死ねるなら、心底本望だと思う。

それでも俺の心の片隅に、サンジさんが住んでいる。
初めて俺に優しくしてくれて、美味い飯を食わせてくれた。
俺が死に掛けたら本気で涙を流してくれた、俺のために怒ってくれた、優しいサンジさんがずっと胸に残っている。

それが駄目だとドンは言った。
その幻影を消してしまえ。
消せないのなら、当人を殺してしまえ。
そうしなければ、お前は一生甘い幻想に捕らわれたままだ。
気まぐれに投げかけられた同情に絆されて、人の心を取り戻したかのように勘違いして中途半端に情けをかける。
そのままでは鬼にはなれない。
かと言って、人にもなれない。
それが哀れだと、ドンは涙を流して俺を諭した。


バラティエで別れたきり会えないままで俺の中に留まったサンジさんの姿は、恐らくは相当美化されているのだろう。
俺のことなんかもう、覚えていないかもしれない。
捨て猫に餌をやった程度にしか、覚えていないのかもしれない。
もしそうならば、そんな相手を崇拝して心酔している己の愚かさに気付くだろう。
よしんば俺を覚えていても、所詮は只の人間だ。
身包み剥いで貶めたなら本性を現して、今まで殺めた幾多の獲物たちと同じように跪いて許しを乞い、
媚び諂うに違いない。
その姿を目に焼き付けて、幻想を消してしまえとけしかけた。

この世に無償の愛などありはしない。
ましてや、無垢の善意など。
信じないから、信じられないから確かめたい。
あるはずないと思うから、求めて止まない。
俺の鬼を取り戻すために。
鬼に触れた優しさの本質を暴き立てなければ、鬼は取り戻せないのだ。



「あんたあ、相変わらず甘ちゃんだな。」
俺はくっくと喉を鳴らして笑って見せた。
サンジさんはきっと睨みつけながらも、その口元はまだ信じ難そうに唇を噛んでいる。

「あんたの飯をまた食ってみたいって、そう言った俺にのこのこ着いてくるなんて、危なっかしいにも程があるだろ。やべえとか思わなかったのか。」
「やべえって、なにがやべえんだよ。てめえが腹減ってるっつったんだから当たり前だろうが。」
ああ、やっぱりそうなのか。
本気でこの人は、俺に飯を食わせてくれるつもりだったのか。

偶然を装って再会して、一目見て思い出してくれたことが嬉しかった。
懐かしそうに笑って話しかけてくれて、心臓が飛び出すかと思うくらい緊張した。
少なくとも、俺だけが覚えていた訳じゃない。

サンジさんも俺を覚えていて
会えて嬉しいと思ってくれて
俺に飯を食わせようとついてきてくれて・・・
やはりどうにも信じ難くて、俺は黙って首を振る。

騙されるな。
何か裏があるはずだ。
一度は殺されかけた相手にこんな風に無防備に気を許すはずがない。
普通ならば。


「まあいい、ふざけてんなら外してくれ。」
サンジさんは俺に見せつけるように両手を掲げた。
コックの命だとあれほど大事にしていた腕を、俺は太い鎖を絡ませて拘束していた。
足にも別々の枷をつけて鎖で念入りに繋いでいる。
自由に身動きできないように。
連れ込んだのは寂れた安宿の一番端の部屋だ。
長期間借りきり、サンジさんのタメに室内を整えた。
鎖で繋いで自由を奪って、何日でも何年でもここで二人で暮らせるように。


ドン・クリークから提案を持ちかけられたとき、俺を襲ったのは紛れも無い喜びの感情だった。
サンジさんをこの手に捕らえる。
自分だけのものにして、誰にも会わせないで俺だけに馴染ませて、この手で殺すときまで傍にいる。
飼っているうちに幻滅したなら未練はない。
とっとと殺して死体は捨てろ。
その時、俺を捕らえた甘い幻想からもおさらばできるはずだ。
従順に飼い慣らせたならペット代わりに連れてくるがいい。
海賊の一味として、それなりに役には立つだろうから。

想像しただけで夢のようだった。
サンジさんを俺のものにする。
俺だけのものに。

あの優しさが本物であってもまやかしであっても、もうどちらでも構わなかった。
サンジさんをこの手に。
想像するだけで歓喜に震えた。

それが俺のためなのだと、ドン・クリークはそう囁き優しげに笑った。


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