Lunatic 8


思った以上に風は冷たく、上に登るほどきつくなっている。
意識してボタンを二つ外したシャツの襟元がはためいて、サンジは寒さにぶるりと身体を震わせた。

「さみーなあ、ゾロ。」
起きているか寝てるのか、わからないから一声かけて見張り台に上がった。
ゾロはマストに凭れ掛かって、腕組みしながら座っていた。
目は開いている。
起きているらしい。



「差し入れだ、ありがたく食え。」
サンジはゾロの前に立ったまま、腰を曲げてゾロの前にトレイを差し出した。
案外素直にそれを受け取る。
基本的に接し方は以前と変わらない。
喧嘩もするし言い合いもする。
変わったことは、夜になっても手を出してこないことだけだ。
目の前にサンジが突っ立っているのに、ゾロは頓着せずに酒を呷るとつまみを食べだした。
サンジが用意した箸を使って。
そのことがまた、癪に障る。

サンジはゾロの横にしゃがんでタバコに火をつけた。
深く吸い込んでからゾロの顔に吹きかけてやろうと思って、やめた。
いくらなんでも食事する人の邪魔は、わざとでもしたくない。
きんと透き通る暗い夜空に向かって煙を吐くと風に乗ってすぐに流れは消えてしまう。

ごくりと、間近で酒を飲み下す音が響いた。
なんとなく目だけ寄越してゾロの喉元を窺い見る。
口を開く瞬間、白い歯が見える。
箸を噛み砕きそうな勢いで閉じられる唇は薄い。
きちんと口を閉じて咀嚼するからそれほどの音は立てず、だがろくに噛まないせいか飲み込む音がやけにでかく聞こえる。

「…お前、ちゃんと噛めよ。」
つい、口を挟んでしまった。
だってなんだか見てられない。
ゾロはちらりとサンジの顔を見たが、すぐに視線を落として食べることに集中した。
上品な食べ方とは言い難いが、なんか…セクシーなんだよな。
酷薄そうに見える薄い唇も、大き目の口も、ちらりと覗く白い歯も、紅い舌はキスしたとき熱の塊みたいに変わる。

口端についた汁をぺろりと舐め取る仕種に、サンジの胸はどくりと高鳴った。
あの舌で…この肌を舐められたなら。
歯を立てられて、吸い付かれて、きつく噛まれたなら―――
そう、想像するだけで、かあっと体温が上がった。
身体の中心が熱を伴って自己主張を始めたのがわかる。
どんなセクシー美女を目にしたってこんな反応はできないだろう。
自覚して顔を赤らめて、それでもサンジはゾロの横にぴったりと寄り添った。

ばくばくと心臓が鳴って、それがゾロに伝わるのを恐れつつ期待する。
ゾロは箸を置いて酒を飲むと、自分の左肩に凭れるサンジの方を向いた。
「…てめえ、俺に突っ込まれてえのか?」
来た!
つうか、なんてストレートな物言いなんだ。
抗議したかったが、何も言えないのに気がついてサンジは黙った。
抱かれに来たのかでもSEXしにきたのかでもない。
そう、自分はただ突っ込まれているだけだ。
だから黙ったまま頷いた。
ゾロの手が動くのを待つ。
けれどゾロは酒瓶を離さず、視線は床に落としたまま黙っている。
サンジは焦れてゾロの腕に手をかけた。

「もう島を出てから一週間も経つじゃねえか。溜まってんだろ。」
そう言ってゾロの下半身に手を伸ばした。
いつもはマグロ状態だけど、今日くらいサービスしてやってもいい。
どんな風にすればいいかはエースが教えてくれた。
だがゾロはやんわりとサンジの手首を掴んで傍から引き離す。
ゾロの手は思ったとおり熱くて心地いい。
もっとずっと触って欲しい。

「もうてめえとはやらねえ。」
けれどゾロの口から出たのは残酷な宣言だった。
サンジは落胆の表情を隠さずにゾロを見返す。
「なんでだ?」
…もうって、もう二度とってことなんだろうか。
あの手は二度と俺に触れないんだろうか。
「てめえは、エースを好きなんだろうが。」
好きだよ、嘘だけど。
「なら、そんなてめえに俺はもう手を出さねえ。」
「…そんなん、関係ねえだろ。」
関係ないはずだ。
だって目的は処理なんだから。
「てめえには関係ねえだろうがな。俺には大有りだ。」
何を言いたいのかわからなくて、ゾロの口元を注視する。
「俺はな、確かにてめえに突っ込むばかりでなにもできねえ能無しだった。てめえの口を借りるなら、玄人以外とやったことのねえ不器用な男だ。だがな、身体だけが目的でやるんなら商売相手だけだ。」
そこで一旦言葉を切って、ゾロはまだ掴んでいたサンジの手首をそっと離す。
「エースに心が残ってるてめえとは寝たくねえ。てめえが寂しいからって擦り寄ってきたってこればっかりは譲れねえ。」
さっきまでぬくもりに包まれていた部分が急速に冷えて、サンジは心臓まで凍りつきそうな錯覚を覚えた。
「俺が欲しかったのは身体じゃねえ。てめえごと、全部だ。」




息が、詰まるかと思った。
正面から見据えるゾロの目はあまりに真摯で、見返すことすら憚られる気がする。
こんなにも、ゾロは真剣だったのに。
どうして気付かなかった?
愛撫がなかったからか、キスもろくにしなくて、言葉の一つもなかったからか。
けれど、いつだって挿入は慎重だった。
極力時間をかけて丁寧に解してくれた。
繋がって交わす口づけは100万の言葉より甘やかだったのに―――

「あ―――」
嘘だと。
あれは嘘だ、エースのことは好きでもなんでもないと言い掛けて口を開いて、衝撃で身体が横倒しになった。







大きな破裂音と水飛沫。
顔を上げればGM号のすぐ脇で、巨大な水柱が立っている。

「何?海王類かっ」
「いや船だっ、海賊だ!」
ゾロが立ち上がり下に向かって吠えた。



「敵襲だ――――っ」












闇に乗じてバラバラと小船を出して乗り移ろうとする影に舌打ちして、サンジは身を躍らせた。
邪魔しやがって、こいつらみんなぶっ殺してやる!



キャラベルだと侮ってくるような輩ならウォーミングアップにもならないと思っていたが、なかなかどうして手ごわい相手だった。
闇討ちに慣れているのか、素早く乗り移り攻撃を仕掛ける手際がよくて、簡単に返り討ちにしてゾロとさっきの話の続きなんて持ち込めそうな雰囲気ではない。

―――ああ畜生、お邪魔虫め。
ゾロの真意がわかった今、サンジはこんなことしている場合じゃなかった。
意地とか体裁とか取っ払って、早くあれは嘘だったと伝えたい。
このまま勢いで、俺実はてめえが好きだったんだとか、エースとはほんとはなんでもなかったんだとか…
今更信じてもらえるかどうかわからないけど、ともかくそれだけは伝えたかった。
例えゾロの気持ちは取り戻せなくても――――
闘いの最中なのに、意識が集中していなかったのだろう。
不意を突かれて肩先を銃弾が掠めた。
前から構える銃口とは別に、後方からも殺気を感じる。

舌打ちして身を翻す目の端に、赤い炎が燃え上がった。



――――?!

「エース!」

ルフィの声が闇に響く。
赤々と照らし出された海面の上、場違いな笑顔を浮かべたエースが波を掻き分け突進してきた。

「よーお、俺も混ぜてくんない?」



「あれ、お兄さんじゃないの!」
「なんだなんだ、どうしたんだ。」
驚き喜ぶクルーの前に横入りして帽子を取る。
「いやあ、只の通りすがりさ。」
ナミとロビンに軽くウィンクしてみせると、見る見るうちに腕から立ち上る炎とともに、エースは海賊船に飛び込んだ。



「鷹波!!」

先に敵船に乗り込んでいたゾロは、エースの登場に気付いているだろうに振り向きもせず敵を薙ぎ倒している。
太刀捌きが少々手荒になった気はするが、これで形勢は一気に逆転した。

「引けっ引けい!」
「お宝を置いていきなさいよーーーーっ」
ナミのサンダーボルトテンポに見送られながら、海賊船は這々の体で逃げ去っていった。







「あーやれやれ…」
「エースぅ久しぶりだな。どうしてんだぁ?」
GM号の甲板に降り立ったエースは、駆け寄ったルフィを軽く小突いてお互いにししと笑った。
同じように集まってきたチョッパーやウソップの頭もこんこんと叩き、呆然と見やるサンジに視線を移してにかっと笑う。

―――最悪。
タイミング的には多分最悪。
なんかもう色々怖くて、すぐ後ろに立っているだろうゾロを振り返ることすらできない。

「戦闘の最中に考え事は駄目だぞサンジ。」
なんだかえらく馴れ馴れしい口調でそんなこと言って、こともあろうに肩に手をかけたりしたもんだから、サンジは反射的にその手から逃れるように後ずさった。
ゾロの視線が痛い。
ゾロにしてみれば、惚れた相手のエースが思いもかけず登場したのだからサンジは喜んでいるのだと、思ってるだろう。
そんなことはないけど、でもゾロはきっとそう思ってて。

顔を顰めて視線を逸らして、踵を返して立ち去るんだ。
そしてもう二度と振り向かない。
その様がありありと脳裏に浮かんで、サンジは俯いたまま口元を歪めた。
この場にクルー全員がいる今、釈明することはできない。
ゾロの靴音が響いた。
これで終わりだと、目を閉じたすぐ脇をすり抜ける気配がする。
伸ばしたエースの手の先に、刀の鞘が翳された。

「・・・?」
驚いて顔を上げるサンジの前に、ゾロの背中がある。
「俺あ、どうやら海賊の性分が身についたらしいな。」
ゾロの声だ。
ゾロが、エースに話しかけてる?

「欲しいもんは奪う。力尽くでも。」
「ああ、そりゃ俺も同感さ。」
そう応えてエースは後方まで下がり、手を構えた。
「なんだなんだ?どうしたんだ。」
「おいゾロ、どういうこったよ。」
「なんでもねえ、これは俺とエースの話だ。てめえら中に入ってろ。」
ゾロはバンダナを締め直し、抜刀する。

「おいおい、三本抜いた方がいいと思うぜ。なんせ俺は本気だから。」
「ああ、俺も本気だ。」
すらりと引き抜かれた刃が月明かりに光って、サンジは我に返った。
「おい!どういうことだ!」
サンジの声には応えず、二人とも睨み合ったまま甲板で間合いを取っている。
その光景を信じられない思いで見つめて、サンジはただ焦っていた。
どういうことだ?
なんでゾロとエースが戦う体勢に入ってんだよ。
欲しいもんは奪うって…
欲しいもんって…

心臓が早鐘のように鳴って、開きっぱなしの口から飛び出しそうだ。
まさか、まさかそんな―――
けど、まさか―――

思いもかけない一戦に、ルフィ達はわくわくと成り行きを見守っている。
「死ぬ気で来いよ。」
エースがにやりと口元を歪めて、舌を出した。
それを合図にゾロが飛び込む。


「馬鹿!やめろ!!」
サンジは殆ど巻き込まれる形でその間に割って入った。
「どけ!邪魔だっ怪我すっぞ。」
「邪魔だとお!てめえはいっつもいっつも人を軽く邪魔者扱いしやがってっ!俺は関係ねえだなんて、言えねえだろこれは!」
ゾロは喉の奥でぐるると唸って、刀を構え直した。
向かいでエースがこれ見よがしにでかいため息をつく。

「燃やしちゃだめかい?デリカシーのかけらもない水生集合体は。」
円を描いて揺れる炎を見返して、サンジはエースに向き直った。
「もう俺は、迷わねえよ。」
きつい眼差しで見返し世話になったとそう呟いて、頭を下げる。
背後でゾロの殺気が薄くなっていくのがわかった。


「なんだ?やらねえのか?」
「おいおいおい、なんだってんだおい。」
残念そうなギャラリーの声にエースは肩を竦めて見せた。
「まあしょうがないさ。それよりなんか腹減ったな。」
言われて辺りを見渡せば、いつの間にか水平線から白々と光が満ち始めている。
「サンジ朝だ、朝飯だ!」
「そういや、腹減ったな〜。」
「みんなとりあえず片付けするわよ、エースも食べてって。」
ナミの号令とともに、クルー達はわらわらと動き出す。
傍らで刀を鞘に納めるゾロの顔を見られなくて、サンジは逃げるようにキッチンに駆け込んだ。










いつもよりほんの少し早い朝食時間だが、運動したせいか皆の食欲は旺盛だった。
特にエースが加わったことで熾烈な兄弟争いが起き、それに触発されてウソップもチョッパーも常より多く自分の分を確保するのに必死になっている。

「もう!落ち着いて食べなさいよ。エースも、助けてくれたのはありがたいけど、食費は払って行ってね。」
「ふわいふわい、あいかわらふらな。」
口いっぱい頬張って幸せそうに応えるエースの隣で、ウソップは手を止めて腕を組んだ。
「あのなナミ、船の横っ腹にでかい穴が開いちまってんだ。この辺に寄り道できる島はないか?このまま航海できなくもねえけど、嵐が来ると多分もたねえ。」
「あら、そうなの?」
ナミは前の島で購入した海図を取り出し、皿をどけてテーブルの上に広げた。
「海流にもよるけど、こっちに小さな島があるわね。ある程度資材が調達できるとこがいいんでしょ。」
「まあな、無人島じゃなけりゃいいぜ。」
「それじゃ寄り道ね。夕方には島に着くんじゃないかしら。」
綺麗に空になった皿を下げて、チョッパーがテーブルを拭く。
「ご馳走様でした。んじゃ俺はそろそろ失礼するよ。」
ぱんと手を合わせて頭を下げるとエースは立ち上がった。

「もう行くのか。」
「ゆっくりしていけるといいんだけど。俺は先に行くわ。」
にかっと笑って、それからルフィに近付くと耳元で何か囁いてから拳骨で頭を殴った。
「あてっ」
殴られた後頭部を擦りつつ、ルフィがなんとも言えないような顔つきでにししと笑う。
エースはそれに軽く手を上げて、それからクルー全員に会釈してラウンジを出た。

ゾロの傍を通り過ぎる間際、一瞬足を止めて何事か囁いた。
途端に刀に手をかけて追いかけるゾロから素早く駆け出し、甲板から飛び降りるとあっという間に炎を上げて立ち去ってしまった。


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