キミはLolipop
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まだ明け切らぬ朝靄に包まれて、サンジはゆっくりと覚醒する。

男部屋の中は鼾と歯軋りと小さな寝言で満ちていて、殆どが薄い闇だ。
だがサンジは清冽な空気を敏感に感じ取り、静かに身体を起こす。
物心ついてより、目覚まし時計など使ったこともない。
正確な体内時計は、まもなくやってくる朝を告げてくれている。

手早く着替えてそっと部屋を出て、洗面所に向かった。
まだ波も暗く、東の水平線だけがうっすらと白く染まっている。
歯を磨き顔を洗い、寝癖のついた髪を解かして、鏡に向かっていつもの決め顔を作って見せた。
うし、今日の俺もイかしてる。

再び甲板に出れば、水平線から輝く太陽が顔を出している。
薄い金色から白、水色から青、紫へと続く壮大なグラデーション。
サンジが一番好きな、空の色だ。

「今日もいい天気だ」
船べりに凭れ、朝の一服を愉しむ。
雨の日の朝も好きだ。
海面を叩く雫の一つ一つが、踊るように優しく跳ねて小さく煌く。
曇りの朝も好きだ。
重く垂れ込めた灰色の雲の層は風と一緒に形を変え、時折垣間見せる日の光も遠い雷も一層
鮮やかに浮き上がらせてくれる。
無論雪の日の美しさは格別で、嵐の朝も壮絶な景色を見せてくれている。
要は海の景色ならなんだって好きなのだ。
いや、海に限らない。

サンジはよく、景色に見とれる。
グランドラインに入ってからは、桁違いの壮大な景色ばかりが展開しているけれども、そんな意外性の
あるものばかりでなくて、なんてことない日々の風景に魅了されることがある。
緑濃い山並みも、古き良き建物の群落も、草原広がる牧歌的な風景も、物々しい海軍の要塞だって
見ようによって美しいと思う。

サンジは、些細なものに美しさを見つけるのが得意だ。
そして、それを眺めることで言いようのない幸福感を覚える。
結局のところ、サンジは極端な「綺麗なモノ好き」だった。






いつから好きだったのかなんて、まったくわからない。
自覚したのも遅い方だ。
ともかく、子どもの頃からちょっと夢見がちで物思いに耽りやすいタイプだったのは間違いないだろう。
幼い頃絵本で読み聞かせてもらった物語によくのめりこんだ。
綺麗なお花畑や可憐なお姫様。
恐ろしい竜に魔法使い、豪華なお城にたくさんの家来。
空には翼を持った天使がいて、海には輝く鱗を持った人魚がいるのだ。
同じような物語を、何度もせがんで読んで聞かせてもらった。
自分で読めるようになったら、それこそ本がボロボロになるまで何度も何度もページを繰った。
なにより、話の間に添えられた挿絵を飽きずに眺めた。
こんな世界に行ってみたいと、本気でうっとりしていたのだ。

夢は半ば現実になる。
純白の翼を持った天使と実際にあった。
輝く鱗を持つ人魚にも、きっともうすぐ逢えるだろう。

サンジの人生は、いやサンジ自身の楽しみは、GM号に乗ったことで劇的に変化したと言える。
バラティエにいた頃は、ゼフの後をついていくだけで精一杯だったし、自分が好きなものを「好きだ」と
口にするのは憚られた。
なんせコックたちは揃って野蛮で粗雑な野郎揃い。
サンジの感性を理解してくれるとは言いがたい。
逆に鼻で笑われ、馬鹿にされるのがオチだろう。

波に洗われ砂から顔を出した桜貝の柔らかなピンクも、巻貝のノーブルな縞模様も、浜辺に咲く夕顔の
儚い艶やかさも、さっぱり理解してもらえない。
それらに目を奪われてうっかりと見入っていれば「なにぼんやりしてるんだ」と罵倒されるばかりだ。
それでも、テーブルに飾る花を選んで活ける仕事はちゃんと確保した。
花屋に出向き、季節の花を選んで組み合わせを考える。
テーブルクロスの色と花色のバランスを考えるのが何より楽しい。
食事は目でも愉しむものだとゼフは言ってくれた。
サンジもその意見に賛同して、勇んでテーブルセッティングに精を出す。
本当は花器も色々取り揃えて、店の内装から食器の類まで全部自分の好みに揃えてみたいが、それは
バラティエでは無駄なことだ。
海賊の襲撃や物取りなどしょっちゅうで、すぐに店内は戦場となり皿は割れ壁に血糊がつく。
だからサンジは、その日にできる精一杯のおしゃれをテーブルに施すことで、自分のささやかな美意識を
満足させてきた。

だが、今は違う。
小さいながらも海賊船に乗り込んで、キッチンは我が城となった。
テーブルクロスも食器も花器も、好きなものを選んで使える。
立ち寄った島で花を摘み、緑を飾って思い通りのセッティングができる。
キッチンは隅から隅までぴかぴかに磨き上げ、いつも洗い立てのテーブルクロスを敷いて、曇りのない
グラスで、温かいものは皿も温かく、冷たいものは氷の器を作ってクルーに供する。
傍から見れば手の込んだ面倒臭い仕事でも、サンジにとってはその作業自体が楽しくてたまらないから
苦痛などは感じない。

がしかし、晴れて選択の自由を手に入れたとは言え、あからさまに自分の趣味で固めるわけにもいかなかった。
一応、クールでダンディなキャラで通っている手前、実は花柄やレースが大好きなんです、とは言えない。
悟られることも素振りを見せることもなく、たださり気なく好みのものを添えて満足するだけだ。

―――ああ今日も、なんて綺麗なんだろう
サンジは朝食用に輪切りにしたオクラの断面図を眺めながら、うっとりとため息を落とした。









「んナミすわんっ、ロビンちゅわん!冷たいお茶をどうぞ」
午後には、少し汗ばむくらいの陽気になった。
こんな時は爽やかな飲み物をと、サンジは張り切ってティータイムの準備をする。
TS号になってから台所の使い勝手が極端に良くなって、仕事をするのがより一層楽しくなった。
鍵付き巨大冷蔵庫は、その機能をフルに発揮して氷も手軽に作ってくれる。
夏島の気候にはもってこいで、サンジの腕もますます揮う。

「ありがと、ちょうど喉が渇いていたの」
デッキチェアに凭れ、陶器のような肌を惜しげなく曝す露出度の高いタンクトップ姿のナミが腕を伸ばした。
「ああ〜明るい太陽の下で、キミの美しさは一層輝いている〜〜〜!」
腰から下がクナクナ揺れるサンジだが、不思議なことに手にしたトレイはピクリとも動かない。
不思議そうにその姿を見つめるロビンに、くるりと向き直ってグラスを差し出した。
「ありがとうコックさん」
「どういたしまして。ロビンちゃんも涼しげなレースのキャミソールが素敵だ〜〜〜v」
再び痙攣のようなクナクナ動きを再開させて、空のトレイを頭に載せたまま踊るようなステップでキッチンへと
戻っていった。

サンジにとって何よりも大きな喜びは、女神のごとき美しさを備えた美女二人と共に過ごせることだろう。
バラティエではむさ苦しい野郎ばかりが周囲に犇めき、客として訪れてくれる女性だけを心の拠り所にして生きてきた。
なんせ女性は美しい。
軽やかな髪と滑らかな肌、華奢な体躯と可憐な声の響きを持っている。
身体は柔らかく、何もつけなくても甘い匂いがするのだろう。
瞬きすれば瞳は潤み、話す度に唇は濡れて艶めく。
きっと吐息は、花の香りに違いない。
そんな風に自然にメロリンとなりながら、サンジは女性客がいる時は夢見心地で給仕に精を出した。
常連の美女が予約してくれる時など、一日千秋の想いで当日を待ち侘びて張り切ったものだ。

だが今は――――
同じ船で暮らす仲間として、飛び切りの美女が2人も側にいてくれている。
2人とも、通常ランクよりも顔・スタイル・性格・頭脳共に抜きん出た、超ハイレベルナイスバディ才媛美女だ。
センス抜群の際どいファッションでダイナマイトボディを惜しげもなく披露し、優雅な仕種でサンジのハートを
魅了してくれる。
普段はクールでダンディなジェントルマンと言えども、この2人を前にしてはどうポーカーフェイスを気取ったところで
つい脂下がってしまうのは、致し方ないことだろう。
そうでなくては男と言えない。
グランドラインの荒波だって海賊や海軍の襲撃だって、この薔薇色の航海の中では、ほんの一粒のスパイスにも
なりはしない。


「今日のお2人もとびきり美しい。どうしてあんなに煌めいて見えるんだろう」
ブツブツと危ない人のように抑えきれない賛辞の言葉を口の中で呟きながら、キッチンに舞い戻った。
レディを優先しておやつを出したが、後には欠食児童のごとき野蛮人が腹を空かせて待っている。
冷やした皿に濃厚なチョコレートのタルトを乗せ、ベリーソースとアングレーズソースをたっぷりと掛けて爪楊枝で
模様を描く。
先ほどはハートとお花だったが、男どもには☆程度でいいだろう。
鼻歌交じりでちまちまと絵を描き、できあがりに目を細めた。

ベリーのルージュは宝石にも勝る輝きを持っている。
なんって綺麗なんだろう。
―――この世は美しいモノで溢れている。
うっとりと魅入った後、冷やしたジュースが冷めぬようにとトレイに乗せてキッチンを出た。








「サンジ〜おやつ〜」
「美味そう〜!」
騒がしいお子ちゃまたち(フランキー含む)に餌を巻き、上品なケーキだけでは満足できないだろうとオマケのドーナツも
山盛り置いてやる。
さて最後は、ときょろきょろ首を巡らした。
TS号になってから、船内の行動範囲が広くなっていっぱしの人探しが必要になるのだ。
「ゾロなら後甲板で錘振ってるぞ」
ああ本当だ、巨大な鉄の塊が定期的に日の光を弾き返している。
サンジはチッと舌打ちをして見せ、肩をいからせ上半身を揺らせながらチンピラ歩きで後甲板に向かった。



ブンブンと錘が揺れる後甲板に近付くにつれ、乱暴な歩調は次第にゆっくりになり、そっと足音を殺し動きを止める。
きつい陽射しを受けながら、ゾロは真っ直ぐに背筋を伸ばし、竹刀でも振っているかのように軽ろやかに巨大な錘を振っていた。
白いシャツは汗に濡れ、ぴしりと張り詰めた筋肉を布越しに浮き上がらせている。
ゾロの腕が上下する度に背中の筋肉はしなやかに動き、重厚な上半身に反して足捌きは軽やかだ。
日に焼けた肌は汗を弾いて、鋼鉄のように鈍い光を放っている。
サンジはつい我を忘れて、トレイを持ったままぼんやりと突っ立った。

美しい景色が好きだ。
美しいレディが大好きだ。
何の変哲もない野菜の切り口にも、野草の葉脈の一つ一つにも美しさを認めてしまうサンジには、もう一つ何より大好きな
「美しいモノ」がある。


例え毎日「能無し役立たずの穀潰し」と口汚く罵ろうと「むさい臭い暑苦しい」と毛嫌いしようと「マリモ腹巻ハゲ」
と貶めようと、サンジはゾロが好きだった。
ゾロの顔とか顔とか顔とか身体とか声とか。
細かいパーツに分解して挙げれば、それこそきりがないほどに何もかもが好きだ。
つうか、綺麗だと思う。
今だってサンジスコープは勝手に空を飛び、超至近距離でゾロの額に流れる汗を追っている。
露玉となり浮き出し流れ落ちる雫は、端正な横顔を撫でるように垂れ、形のいい頤に溜まる。
キラリと光を弾いて落ちる水滴は逞しく張った胸筋の上でシャツに染みを作り、或いはゴツゴツと浮き上がった喉仏までも
撫でて、窪んだ鎖骨と傷跡の残る胸へと流れ落ちている。

―――綺麗だ
まかり間違っても過去の人生の中で、男の汗を美しいと思ったことなど一度もない。
・・・スープの仕込みをするジジイの額に浮いた汗は、ちょっといいと思ったが・・・
ともかく、バラティエを飛び出すまでは、野郎相手に“綺麗なモノ大好きアンテナ”が作動することなどなかったのだ。
だが、あの瞬間にすべてを変えられた。
両手を広げ、全てを受け止めるように立ちはだかった男は、血飛沫を上げて海に落ちていった。
あの瞬間、すべてのシーンがサンジのハートを鷲掴みにして、魂まで持って行ってしまった。

―――簡単だろ、野望を捨てるくらい―――
誰かに対してあんな風に真剣に叫んだことはなかった。
その場で泣き出してしまいそうになった。
自分が今まで築き上げて来たものが根底から覆され、メチャクチャにされてしまう気がした。
それほどまでに強烈なダメージをサンジに与えておきながら、その男はさっさと死にに行くところだった。

あの時のことを思えば、サンジの胸は見えない爪に掻き毟られ、血を流す。
あんなにも鮮烈で、熱く冷酷な衝撃はなかった。
「馬鹿」のひと言では済まされないほどに心が乱れた。
その疵は今も癒えることなく、胸の奥で疼き続けている。
じくじくと疼く疵と熱のせいで、ゾロを「美しい」と誤認してしまったのかもしれない。
今のサンジには自分でも理解不能だが、どういう訳かほぼ本能的ゾロのことが好きで好きでたまらない。




ほんの数秒だったのか、それとも数分経ってしまっていたのか。
サンジが我に返る前に、錘が床に降ろされた。
内心慌てて、しかし表面上はおくびにも出さず、サンジは火のついていない煙草を咥えると大股でゾロに近寄った。

「あ〜嫌だ嫌だ、この暑苦しいのに、さらに汗まみれで臭くてムサえよ」
「うっせえな」
船縁に掛けてあるタオルでざっと首周りを拭いて、ゾロは面倒臭そうに言い返す。
眉を顰めた横顔も、またいい―――
引き続きうっとりしそうな自分を叱咤して、サンジは樽の上にトレイを置いた。
「無駄に汗ばっか流して新しい甲板に染みつけてんじゃねえぞ。水分補給くらいちゃんとしやがれ」
憎まれ口を叩くものの、ゾロのおやつは特別メニューだ。
基本的にクルーの食事やおやつは、女性・男性向け以外にも、それぞれの事情に合わせて少しずつ変えられている。
ゾロの場合も鍛錬で消費される水分や塩分を補い、筋肉を作る蛋白質やミネラルの補給など、色々考えて工夫されて
いるものだが、それはコックとしての仕事の範疇だとサンジは自負している。
ゾロもその辺りは気付いているのか、それ以上サンジに言い返しもしないでトレイの前で手を合わせた。

ゾロは意外な仕種をさりげなく行うことがある。
食事前と後には手を合わせる。
狭いメリー号の中で擦れ違うときは、必ず船縁側にいる。
船から下りるナミやロビンに肩を貸す。
嵐に見舞われたとき、ルフィやチョッパーが大波を被る前に立ちはだかる。

恐らくは無意識なのだろうが、何をするのも自然でさり気ない。
言葉に出して確認したり、気付いてから動くということはなく、最初から身につけている作法のように流麗だ。

―――ち、カッコいいぜ
レディを前にするとつい言葉が口をついて出て、身体全体で喜びを表現してしまうサンジから見たら、ゾロの仕種は
スマートでより紳士的だ。
それが口惜しくもあり、ちょっと憧れたりもするのだが。

ビタミンたっぷりのジュースを飲み、甘いタルトを頬張るゾロをついぽうっと見つめてしまっていた。
サンジは誤魔化すようにタバコを咥え直すと、「トレイは後でキッチンまで持って来いよ」と尊大な口調で命令して
肩をそびやかす。
踵を返して戻ろうとしたら、俄かに襟元が苦しくなった。
「・・・あ、あんだあ?」
反射的に軸足を回転させて、振り向きザマに蹴りを放つ。
間一髪でそれをかわして、ゾロは片手に皿を持ったまま2mほど飛び退った。
「・・・な、な、何すんだっ」
サンジ自身、何が起こったんだかわからない。
だがゾロはしれっとした顔で指についたソースを舐めると、空になったトレイを突き出してきた。
「ごっそさん」
「・・・あ、ああ」
狐に抓まれたような面持ちで、サンジはトレイを受け取る。
何か今、ゾロに襟首掴まれた気が・・・するんだけど。

サンジの戸惑いを他所に、ゾロはまた巨大な錘を持ち上げて振り回し始めた。
こうなると側にいるのは邪魔になるから、サンジは黙ってそこから立ち去る。

―――気のせい、だったのか?
まさかいきなり、人の襟首掴んだりしねえよなあ、普通。
それより、指についた赤いソースを舐め取るゾロが、なんかちょっとやーらしかったな。
先ほど目にした光景が脳裏を過ぎって、サンジは一人にへらと表情を崩した。
あんな風に舌出されると、どきっとする。
ナミさんやロビンちゃんがそうしたらそれはそれでドキドキするけど、ゾロのあれはなんかこう・・・
ドキンとかズクンとか?
色々考えてたら気恥ずかしくなってきて、サンジは慌ててブンブン首を振った。

いやいやいや、俺はゾロが大好きだけど顔とか身体とか見てるのが好きなだけであって、そういうシュミはないはずだ。
うん、気のせい。


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