今日という日に -2- <一滴さま>



明日が出航という前日に、俺はくるみたっぷりのパウンドケーキを携えてあの寺をたずねた。
声をかけるとすぐに柔和な笑顔でシスターが出迎えてくれた。
ケーキを差し出して改めて御礼を申し上げると
「まぁ」とニコニコ度がアップした。よかった。
「こないだはなんかご迷惑じゃなかったかと思ってずっと気になっていたんで…」
「いいえ、そんな迷惑だなんて。でもおみやげはうれしいこと…あなた、お急ぎ?」
「いえ?」買出しの下見をしとこうと思ってただけで別に急いじゃいない。

「少し年寄りの相手をお願いしても、よろしいかしら?」
「もっちろん。女性からのお誘いはよろこんでお受けしますよ。えっと、シスター?」
「ほほ、シスターなんて呼ばれたのははじめて。新鮮ね。さ、どうぞ」


つい先日訪れた茶室ではなく、おそらくシスターが起居しているであろう庵の方へ通された。
すっきりした空間。凛とした空気の中、かすかに立ち残る香の匂いに心が落ち着く。

「あなたにはもう一度、お会いしたいと思っておりましたの」
意外にも用意された紅茶と切り分けられたケーキを前にしてそう言われたのだった。
んん?と疑問に思ったが

ケーキをひと口食べたシスターの
「まぁ!美味しいこと!!」の声に瞬時にかき消された。

そう言ってもらうのが何てったって一番嬉しい。
「良かった。お口に合って光栄ですレディ」
片手を胸にナイトのように礼をする。

「こんなに美味しいものが毎日食べられる、あなたの船の人たちは幸せね」
イヤイヤイヤ。そうなんですけど!
「レディ達はともかく、野郎共ときたらありがたいなんて思う前に無くなっちまってますからねぇ」

ほめられてくすぐったい気持ちでついうろうろと視線をさまよわせ、さまよったその先に掛け軸を見た。
ああ、ここにも掛け軸があるんだ。この前とは違う字だ。


……あれ?


「あの、シスター?」
ケーキを食べる手を休め、はい?と目がたずねる。
「あの掛け軸の文字…」
あれからずっとサンジの内ポケットに大事に仕舞われてる茶杓の筒を取り出す。
「これと同じ?」茶杓入れには表を少し削って銘が入れられてあった。
「ちょっと拝見…銘『感会』……剣士殿が削られた?」
「…はい」
「そう。茶杓に…。中、拝見しても?」
「あ、もちろん」

どこからが美しいハンカチみたいな布を取り出し、するりと茶杓をそれに取って見つめる。
「美しい姿ですね…すらりと長い追取、丸い露。櫂先とのバランスが良い…。
切止めは三刀。茶杓の切止めには切り方で一刀から五刀などございますが、こちらは三刀。
…あの方のお腰のものも三刀でございましたね」 

手の向きを返して茶杓を後ろから眺めてみればふと何かに思い当たる気がするが。
(はて、どこかで見た覚えがあるような…?)

記憶をたどってしばらく見つめていたが、サンジがじっと待っているので、思い出せぬものはいったんあきらめ、茶杓をサンジに返し、そうして先の答えを胸に浮かべて軸に目を移す。

「『今日感会(こんにちかんかい)』 ―― 今日という日に出会えて良かった、そのような意味です」

…会えて良かった…そんな意味だったのか。誰と?みんなと?

なんとなくサンジも軸を見やる。
なんてぇか引き込まれるっつーか、惹きつけられるっつーか、そんな不思議な感覚が湧く。
文字なんだけど、見つめていると絵のようにも思えてくる。


「魅力ある筆でございましょう?字には書いた方の生き様が宿ると申します。気が満ち、光ある筆を墨気が良いと申しますが、この筆はまさにそれ――。私もこれを目にした時はひと目惚れでした」


「…一週間ほど前、あの方が門前にじっと立っていらっしゃいましてね」

何か?とお尋ねしましたら、ここに茶室はあるか、と申されまして。
ございます、とお答えしましたら、船で一緒に旅をしている仲間の誕生祝いに一服、馳走したい。
道具も何もかも借りることになるが金は無ェ。薪割りでも何でもやる、それで返す、ダメか?と大層率直なお申し出でございました。
ほほと笑い、シスターが楽しそうに話す。

「ああ、そりゃあウチのクソ緑がとんだご迷惑を…」
サンジは口を濁しながらモゴモゴ謝る。
ああ、あのヤロウ。俺の誕生日はまだ少し先だけど覚えてやがったのか。

「いえいえ。若い働き手は年寄りにはありがたいもの。荒れ放題の竹林など私どもでは手に負えないものでしたがさすがですね。あっという間に綺麗さっぱり斬り払われまして。まあまあどれも見事な水平の切り口で、いくつかはわざと斜めに切り上げて頂きました。おかげで良い花入れがたんと出来ました」

「鍛錬になる、と仰って薪割りもすべてやって下さいましてね。茶室を一日お貸しするだけですのに、おつりがくるほどでございました」

そうだ。ゾロが帰ってこない日があった。
どこかで迷子になってるものと思っていたが、そっか、ここに居たのか。

「そう、切った竹をひとつ取り上げて貰っていいか?と。茶杓にしたいと仰るので、荒曲げしたものがいくつかございますのでお持ちになりますか?そう申し上げましたら、そりゃありがてぇ、とうれしそうになさって。その中の手触りの良い、節の無い1本をお選びになりましてね。これを貰うと、ふわりとお笑いになりました」

「もてなす客はおひとり、亭主と客の一席一亭と仰る。それで大事なお方と心得まして。どんなお席にするかはご亭主次第なのですが、まぁご用意しようにもお道具がちんぷんかんぷん。だってあなた、骨とか、みかんとか、キノコとか。はてはトカナイなんて仰る。それに紫か黒の艶っぽいの…と言われましたので私、茄子の香合をお出ししましたの。
そしたらあの方、う、と何とも言えない顔で固まって、それはちょっと違う、と申されて。私、いい加減業を煮やしましてね『ご趣向を言ってくださいませ!』と怒鳴ってしまいました。ほほ、仏の道にあるまじき短気。お許しを…。そこでようやく仲間だ、と。口をへの字に曲げながら白状なさって」

いや、白状ってシスター。
口を挟もうにも挟めない。サンジはうすーく笑いを張り付けてだまって聞いているしかなかった。

「それでようやく得心いたしましてね、ならばと改めてあれこれ見繕わせていただきました。あの方ふと考え込んで、さすがに船は無ェよな…とボソッと言われましたので、ございますよ?お釜なら。そう言いましたら子供みたいな笑顔で、ホントか?!そりゃいいな!と。なんとまぁ、かわいらしいこと。つい釣られてあれもこれもとお出ししたくなりましてね。なんというかあの方の笑顔……反則ですわね?」

小首を傾げてふふ、とシスターが少女のように笑った。

「私、あなたがいらした時、心の中で手を打って喜んでおりましたのよ。だってあなた、ふわふわタバコをお吸いになって、黄色で、うず巻き…」
口に手を当て片手を空中ではたくような動作をしてくくくっと笑い出した。
ごめんなさいと言いながらも身を二つに折って声を殺して笑っている。

ああ、だからゾロと顔を見合わせてたんだな。なるほどそうかよ。よぉーくわかった。
ツボにはまったままの庵主をちろっと見て
「…シスター、笑いすぎですよ…」とやんわりたしなめる。

再びごめんなさい、といいながらようやく顔を上げた。
「しつらえのご用意の間、本当に楽しゅうございましてね。久しぶりにワクワクいたしました。年甲斐もないとお笑いなさいますな。本当に楽しかった…」

シスターがまた掛け軸に目をやる。

「お軸はいかがいたしますか、との問いにこの一語を求められましたが、あいにくこちらにはございませんで。『一期一会』ならございますがと申し上げたのですが。いや、そう軽くも無ェんだと。無いなら書こう、と仰って」

「え、じゃこれは…」

「はい。このお軸は剣士殿がお書きになられたもの」

――ゾロが…?

「まるで剣を筆に持ち替えただけという風情でさらりと書いてしまわれました。あまりにあっさりお書きになったので見ているこちらが拍子抜けするほどでございましたが。出来上がったものはあまりにお見事。底光りするような墨気に、私、声も出ずその場でただただ見入っておりました」

「剣士殿はしばらく書きあがったものの前で端坐しておいででしたが、やっぱりこれは止めておこう、と。捨てておいてくれと事も無げに仰る。滅相も無い。捨てるにはあまりに惜しく、私、失礼ですが頂いてもよろしゅうございますかとお断りしてお軸にさせて頂きました。剣士殿は、こんなもん要るのか?と怪訝顔でしたけれど…」

そう話し終えると、再び掛け軸をじっと見やる。


『 今日感会 』


「サンジ殿」

突然、名前を呼ばれてドキッとした。
「…はい?」

「この言葉には続きがございます」
――続き?

『 今日感会  今日臨終 』 

「今日という日に出会えてよかった。今日果てて、明日という日は来ないかもしれないから」


――え?

明日が来ない、かもしれない…?


「とても厳しい言葉と言えましょう。今生の出会いを噛みしめる言葉」
思考がスローになる。

「日々、お覚悟を決めて過ごしていらっしゃる、とお察しいたします」
ああ。てめぇ、命なんざとっくに捨ててるんだった――


「このお軸を前にしておりますと、なにやら目に浮かぶのです。両手に剣を抜き放ち、天を見据えて立つ剣士殿のお姿が。天地を貫く想い…なのに静か…その密度の濃さにこちらの胸が苦しくなる…」
シスターの声が遠くに聞こえる。


言葉を切って黙りこんでいる俺を見て、シスターがちょっと失礼、といって部屋を出ていき、しばらくして小さな器を手にして戻って来た。


「あの日しつらえたお道具の中で、おそらく剣士殿はこれはあなた様にはご説明されなかった…」
と黒い入れ物をすっと前に差し出された。

気持ちが定まらないまま、開けるのか?と目で聞くと、はい、というように頷かれる。
つややかな黒い蓋を、落とさないようそっと開ける。

(あ…)

蓋裏に、ぽかりとひとつ、月が。
開けてはじめて目に飛び込むように、丸い月が描かれていた。
器の中にはこんもりと抹茶が盛られている。

「棗、ご覧の通り抹茶が入ってございます。点前の折には茶杓はこの棗に添えられます。漆黒に金。緑。器に掛かる茶杓は「感会」――あなた様ならこれをどう解釈されましょう?」

それは…


「あの方、なかなかどうしてロマンチストじゃありませんか。…見上げれば皓々と自分を照らす月がいる。あなたに会えて良かった…これは剣士殿の心に浮かぶ風景、と解釈するのは私の思い過ごしでしょうか?」


考えが、まとまらない。


「…あのヤロウが、俺のこと、そんな風に思ってるなんて…」
うまく言葉がでてこない。

「シスターからはそう見えたのかも知れない、けど…あいつは確かに大事な仲間ですよ。殺しても死なないってぇくらいタフで。背中預けて戦えて…みんなの信頼も厚い…男からみても頼りになる… でもあいつの中には壁があるんですよ…シスター。他の連中には無くても俺に対しては、ある。こっから入ってくんなってぇ壁が…」

やや首を傾げた形でシスターはだまって聞いてくれている。

「そんなのはなんとなくわかっちまうでしょ?
理由は怖くて聞けねぇ。聞きたくもねぇ。聞けばそこで終わっちまう気がする…。このままで、気づかないフリして傍に居られるんならこのままでって、思っちまう…」

シスターがはい、というように小さく頷く。
「剣士殿も言ってしまえば楽でしょうにね」

…え?

「でも言ってしまえばそれはもう元には戻せなくなる…あなた様の自由を奪うことになる。あの激情ですからね。だから言わない、言えない。口をつぐむのは、あなたを大事に思ってのこと、ではないのでしょうか?」

自由を奪う?なんで?
「シスター…、俺、よくわからねぇ…」

「サンジ殿」
慈しむ笑顔で話しかけられる。

「心配など無用。あなた様はあの方に深く愛されておいでです」
きっぱりとした口調で諭される。


「なんで…」
「わかるのかって?このお軸が間違いなく語っているではありませんか。それに先の茶会は剣士殿のあなたへの愛情で溢れておいでではなかったですか」


「人と人との出会いは決して偶然ではございません。ただすれ違った事でさえ意味があるのです。今日こうしてあなたと会えたことも、ね」


「あの方の情は深い。信じるに足るお方ではありませんのか…?」


くしゅっと顔が歪んだ。俺、今絶対、泣きそうな顔してる…。
「そんな顔をしてはいけません。せっかくのハンサムさんが台無し」
だまってしまった俺の肩にシスターがやさしくそっと手をかける。


「…しつらえのお道具がすべて決まりましてね、剣士殿が『ではよろしく頼む』と仰って帰る際、『あなた様の大事な方のお名前は?』とお尋ねしましたら――


『サンジ』


…と一言、お答えになられましたよ」



あ、あ。

ぶわっと涙があふれる。
シスターに見えないように顔を伏せるが、パタタッとズボンに涙の粒が落ちちまった。


「あなた様のお名前を伺った時、これはもしかして剣士殿の片恋かと思ったのですよ。だからできればもう一度、あなた様にお会いしてお話したかった。でも要らぬ世話でしたね。あなた様のお気持ちも、とうに決まっておられる。なのにあなた様が泣いてしまうとは、何としたこと」

これは剣士殿がお悪うございますなぁ、とポツリと庵主がつぶやいた。

ねぇ?とやさしく声をかけられ、子供にするみたいに、やさしくポンポンと背中をあやされた。
グッとこらえた涙がまた出てきそうで顔を上げれない。

長いことサンジの背中をさすりながら、恋をして泣けるとは…うらやましいこと、と遠い誰かを思い出すかのようにしみじみと言ったのをサンジは聞いていた。



玄関で両手をさんざん振って辞退したけれど、シスターが門前までわざわざ見送ってくれた。

「これはおみやげに」
といって出された小さな綺麗な布でできた茶巾袋がふたつ。俺の手を取り掌にのせてくれた。
「お抹茶です。ひとつは先日の茶会でお使いしたもの。ひとつは私から」

銘柄はご存知?とたずねられるが、わかるわけがない。
あいまいにさぁ?という顔をしたら

「茶会のものは“緑毛の昔”」
はい?

「私からは“金毛の昔”」
そんな。まんまじゃねぇか――。

返す言葉もなく突っ立つ俺を見て
「抹茶のパウンドケーキも、美味しゅうございますよ」
今度、剣士殿に黙って焼いておあげなったら?と柔和な目がいたずらっぽく笑う。

つられて俺もふっと笑った。
「…シスター」
俺の背丈の半分ほどしかない、お茶目でやさしい女性を両腕にキュッと包み込んだ。


「なんて言っていいか、言葉がありません。でもありがとう。俺、シスターのこと、大好きです」
「あらうれしい。私も大好きですよ。あなた様も剣士殿も。またいつかいらっしゃい。今度はお仲間もご一緒に。それまで仲良くね。…どうか、お気をつけて」

また背中をポンポンとされて、そうしてごきげんようと送り出された。



茶杓と抹茶を胸に、船にゆっくりした足取りで戻る――。
顔を俯けてシュっとタバコに火を点ける。
ゾロは船に居るだろうか。



見送っていた庵主がその黒いスーツ姿が一瞬背を丸めた姿に、あ、と口が開き、思い出せなかった何かと瞬時に符号した。

(すらりと長い追取、まぁるい露、軽く撓めた背中から櫂先へと続く強い撓め…)

…そんなに好いておいでなら、お放しなさいますな剣士殿。
目の前に居れば頭のひとつもひっぱたいてやるものを。
うん、とひとりで強く頷いて心でゾロを叱りつつ、
ふわふわ煙をなびかせて歩くサンジの後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていた。



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