くれない匂う -1-



春島海域に近い事を告げるように、島鳥が頭上を転回した。
ルフィはほぼ条件反射で、すばやく腕を伸ばす。
「うまほ〜」
「コラッ」
手にした本でガツンと殴られ、涙目で振り返る。
「なんでナミに殴られっと、痛いんだろうなあ」
「もうすぐ島に着くんだから、無駄な殺生しないの。ほら、鳥が驚いてるじゃない」
いきなり目の前に突き出された長く伸びた腕に、鳥は羽毛を撒き散らしながら方向転換して慌しく飛び去っていった。
嘴に咥えていた赤い実を落としたことにも気付かずに。



「―――ん?」
緑の芝生の上にポツンとそこだけ鮮やかな赤が落ちている。
サンジは洗濯物を取り入れる手を止めて、そこに歩み寄った。
ひと房の赤い実だ。
「カラント、かな?さっきの屋台船で買った時付いて来たのか」
島から出張して来た屋台舟には、新鮮な野菜や果物がどっさりと積まれていた。
島に着けば幾らでも買えるとわかっていても、つい欲しくなって一足早く葉物野菜を購入したのだ。
その時籠にでも引っ付いて落ちたのかもしれないと、サンジは思った。
「艶々して美味そうだな、真っ白なケーキの上に飾ると映えそうだ」
どれ味見、とばかりに房のまま口の中に入れる。
予想していた甘酸っぱさはなく、舌の上に僅かな甘みを残しあっという間に溶けてしまった。
「・・・なんだ、あんまり美味くねえ」
見た目とは違うなーと房を海に投げ入れて、サンジは洗濯物を抱え船内に戻った。



夕食時、チョッパーは青い鼻をヒクつかせ、訝しげに辺りを見回している。
「なんか、変な匂いがする」
「え、そう?」
「俺は美味い匂いしかしねえなあ」
食卓は相変わらずの争奪戦だ。
縦横無尽に伸びるルフィの魔の手から自分の皿を死守すべく、男達は決死の防御を張っている。
「食事の匂いもするけど、なんかこう・・・あ!」
皿の上の肉を奪われて、慌てて隣のルフィに飛びついた。
「ダメだって、これは俺の!」
「ほら、ぼんやりしてっからだってば」
ウソップに加勢されてなんとか肉を取り返し、チョッパーは慌ててモグモグと頬張った。
その隣で、ゾロもなんだかおかしな顔をしている。

嵐のような食事を終え、それぞれが風呂に入ったり男部屋に戻ったりしている中で、サンジは一人後片付けに励んでいた。
舐めたように綺麗に平らげられた皿を洗うのは気持ちがいい。
コックの仕事だからと割り切る以上に、サンジにとっては楽しい作業だ。
がしかし、そんなサンジの後ろ姿をなにやら物騒な目付きで眺める男が一人。
キッチンの空気がビンビン震えそうなほどモノ言いたげな視線を不躾に投げ掛けてくるから、サンジは盛大に溜め息を吐いて振り返った。
「なにか言いてえことがあるならはっきり言やあどうだ。それとも食後の運動でもしてえのか?」
手を拭きながら、クイクイっと指を立て挑発する。
ここのところ無難で平穏な航海が続いていたから、上陸を前にひと暴れしてやってもいい。
多少船が壊れたところで、修繕用の材料はウソップが買い込んでくれるだろう。

サンジの目論見とは裏腹に、ゾロはなんだか妙な顔つきをしてじっとサンジの姿を眺めた。
頭の先からつま先まで、舐めるような視線だ。
「あんだってんだ、お?」
サンジは顎を下げ顔を顰めて、腰を落としながら蟹股で歩み寄った。
喧嘩売ってんのかコラ状態だ。
「あんだってんだ」
「・・・やっぱりな」
サンジの剣呑な雰囲気も意に介さず、ゾロは一人納得したように頷いた。
「妙な匂いがすると思ったら、てめえからか」
「は?」
そういえば、さっきチョッパーも匂いがどうとか言ってたっけか。
ふと思い出し歩みを止めたサンジに、ゾロは大股で近付いた。
「誰もいなくなってもまだ匂うってことは、てめえだ。ああ、やっぱり」
言いながら顔を近付け、クンクンと鼻をヒクつかせる。
その奇矯な行動に、腹を立てるより引いてしまった。
「なんだてめえ、気色悪い」
言いながら後退れば、ゾロは更に勢いよく前に踏み込んでくる。
「匂う、匂うぞ。なんだこの匂い、クソッ」
言いながら動物じみた仕草で身体を屈めた。
「ここだ!」
「んぎゃあああああああああ!!」
夜のキッチンに悲痛な叫びが響き渡った。



「どうした!」
ただならぬ悲鳴を聞き付けて賭け付けたウソップの目に飛び込んだのは、キッチンの壁に減り込んだゾロの半身だった。
「うぎゃあああ」
「医者―っ!」
「一体何事よ?!」
ナミやロビンまで顔を覗かせて、シンクの前で真っ赤な顔をして息を切らしていたサンジは慌てて手を振った。
「いや違うんだ、騒がせてゴメンよ」
「なあに、また喧嘩?」
ナミは顔を顰めてキッチンの惨状を眺める。
「随分と派手にやったもんね」
ウソップとチョッパーに手伝って貰い、なんとか壁から抜き出たゾロが頭を振って木屑を払った。
「なにしやがるクソコックっ!」
「それはこっちの台詞だ、このド変態マリモっ!」
ポワポワと毛を逆立て、茹蛸以上に真っ赤に染まった顔でサンジは我が身を抱いたまま後退った。
その尋常でない素振りに、ロビンがゆったりと首を傾ける。
「どうしたの?」
「え、いやほんとただの喧嘩で」
「妙な匂い撒き散らしやがって」
「うがあっ!」
素早くフライパンが飛んできて、ゾロの顎を直撃した。
今度は床に引っくり返ってしばし起き上がれない。
「匂いって、ゾロもわかるのか?」
駆け寄って囁くチョッパーに、ゾロは仰向けのまま頷く。
「ウソップは?」
不意に問いかけられ、ゾロを助け起こしながらもウソップはきょとんと見返した。
「匂いって、なんのことだ?」
「ロビンは?ナミもわからない?」
「なんのこと?」
さあ、と女性陣二人は顔を見合わせる。
「なんか妙な匂いがするんだよ、夕食の前辺りから。今も」
「今も?」
「んな匂いなんかしねえっつうんだ!」
サンジは一人離れた場所で、苛立たしげに足踏みをしている。
「俺が臭えっつうんなら風呂行ってくらあ、誰も入ってくんなよ!」
「いや、誰も入らないって」
呆れ顔のウソップの隣で、ゾロが妙な顔つきをしている。
「ナミさん、ロビンちゃん、騒がせてゴメンね」
「はいはい、おやすみなさい」
「ごゆっくり」
一体なんだったのよーとゾロを詰る声を背中に聞きながら、サンジは風呂に向かって駆け出した。

匂いだの何だの訳のわからないことでイチャモン付けられるのならともかく、さっきのゾロのあれはヤバかった。
いきなり人の身体に近付いたと思ったら、ここが一番匂うと鼻を突っ込んできやがった。
こともあろうに、人の尻に!!
「うがああああああ」
思い出しただけで憤死しそうで、サンジは闇雲に叫びながら風呂場に飛び込んだ。





「おはよう、よく眠れた?」
翌日も爽やかな晴天だった。
今日上陸する島はすでに見えていて、朝食後には接岸する予定だ。
「おはよう、今日も二人とも綺麗だね〜」
メロリンと表情を崩しながら、手際よく朝食の準備を進める。
見張りだったルフィはすでに食卓に着いていて、大量の朝食を詰め込んでいた。
「見張りすると腹減るなあ」
「元気ねえ」
呆れながら食卓に着く女性二人に遅れて、ウソップとチョッパーがやってきた。
チョッパーは戸口で足を止め、やはりおかしな顔つきになる。
「どしたチョッパー、まさかまた妙な匂いがしやがるとか言うんじゃねえだろうな」
サンジがおたまを持ったまま凄んで見せると、怯えて後退りながらもおずおずと頷いた。
「・・・昨日より、匂いがきつくなってる」
怒るよりへにょんと眉毛が下がってしまったサンジを見て、ウソップはフォローに回った。
「俺は全然わからねえんだけど、そりゃ嫌な匂いなのか?」
「そうじゃない。悪い匂いじゃないと思うんだけど俺にはよくわからない」
ゾロならわかるんじゃないかなと、言ってる傍からゾロが起きて来た。
らしくなく、なにやら警戒するように慎重に歩んできて足を止める。
明らかに、そこから先に進もうとはしていない。
「ゾロ、匂い・・・するよな」
「ああ」
思い切り不機嫌そうに顔を顰めた。
サンジの眉が益々下がったが、すぐに憤怒の形相に変わる。

「ああそうかい、わかったよ。俺が臭くて悪いんだよな!」
エプロンを引き千切るように脱ぎ去ると、くしゃくしゃに丸めてテーブルの上に投げ捨て上着を羽織った。
「ナミさん、悪いけど後は適当に食っといて。キャプテン、俺先に島に降りるぜ」
「はっは、ふひふ〜」
「何言ってるかわかんないわよ!ちょっとサンジ君!」
「俺が臭くて飯も食えねんだろ、匂いの元は消えてやるさ」
言い捨ててひらりと身を翻した。
上陸用の小船を操り、瞬く間に船から遠ざかっていく。
「ちょっとサンジ君!」
「ログが溜まるのは3日後よ〜」
ロビンが暢気にアドバイスして、大きく手を振って見せた。




「畜生、なんだってんだ」
手漕ぎボートをガシガシ漕いで、一目散に島を目指すサンジは憤懣やるかたない。
昨日からやれ妙な匂いがするだのなんだの難癖つけて、こともあろうに人のケツの匂いを嗅ぐとは何事か!
あの後、風呂で全身隈なく念入りに洗い、デートの時しかつけないコロンまで振り掛けたと言うのに、男部屋に転がっていたらいつの間にかゾロが傍まで近付いて来ていた。
闇夜に浮かぶ白い双眸がギラついているのを見て、心底ビビって卒倒しそうになった。
なんだあの超絶変態!マリモの上に腐れホモだったのか!?
仲間を起こさないように速やかに蹴り飛ばして倉庫に避難したのが真夜中。
それから一睡もできやしなかった。
いつゾロが匂いを嗅ぎつけてやってくるかと気が気でなかったからだ。
なんだあれは。
急に目覚めちゃったわけ?
俺からホモ臭でもするってのかコノヤロウ!!
オールを漕ぐ手を止めて、自分の肘を鼻先に近付けクンクンと嗅いでみる。
特におかしな匂いはしない・・・と思う。
ナミさんやロビンちゃんだってわからないと言っていたのだ。
ルフィやウソップも・・・だから変なのはチョッパーとゾロだけ。
チョッパーは獣だから仕方がないとして、ゾロも獣並みだからこうなったのか?
よくわからねえとグルグル考えながら、ともかく闇雲にオールを漕いだ。
そうでないと昨夜の衝撃を思い出してしまう。
ゾロの両手が捕らえた獲物を逃がすまいとでもするように、がしっと腰骨を掴んで、あの取り澄ました顔が自分の尻に押し付けられただなんて―――

「う、があああああああっ」
青い空にモクモクと白い雲が盛り上がっている。
そんな爽やかな景色に向かって、サンジは咆哮を上げた。




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