言葉にできない -3-


雨は止んだが、空は曇天のままだ。
気温は高く、湿気が多いのか空気がじめじめしている。

極力ラウンジに近付かないようにして、鍛錬に専念する。
単調に錘を振っていれば自然と気持ちは無心になるし、鷹の目の顔を思い描けば身体の内側から滾るような興奮が湧き上がって気分が高揚した。
随分と単純な精神構造だと我ながら苦笑して、ゾロは近付く気配に錘を下ろした。


「私に運ばせるだなんて、高いわよ」
トレイを掲げてにやんと笑うのはナミだ。
これはまたとんでもない奴に運ばせたものだと、ゾロは汗の浮いた肩を竦めて見せる。
「ツケといてくれ」
「馬鹿ね、あたしはそこまでセコくないわよ」
や、充分セコいだろ。
うっかり上りかけた軽口を飲み込んで、ゾロはタオルで口元を拭った。
「そう用心しなくても、サンジ君は忙しくてあんたどころじゃないから放っておいても構わなかったのに」
「あ?」
「いやね忘れてるの?今日は彼の誕生日よ」
そんなもの、自分が覚えているはずもない。
「自分の誕生日で、なんでコックが忙しいんだ」
「パーティを開くからよ、サンジ君が腕によりを掛けて私たちにご馳走してくれるの」
「・・・おかしかねえか?」
「そうね」
二人顔を合わせて、どちらからともなくくすりと笑った。

冷たいジュースが喉に心地良い。
嫌味の無い甘さが、身体の隅々にまで行き渡るように滲み込む。
「美味い」
ふと自然に口をついて出た言葉に、ナミが片眉を上げて見せた。
「どうしてそれを、サンジ君がいるときに言わないのかしら」
「あ?」
なんでここで、コックの話が続くのか。
「だって、ゾロったらどれだけ豪華なお料理が出ようと美味しいものを食べようと、ひと言もないんだもの」
ゾロは無言でグラスを傾けた。
「せめてもっと嬉しそうな顔くらいすればいいのに、何食べても仏頂面で。そりゃあ、私達はわかってるわよ。サンジ君が作るものはなんだって美味しいし、ゾロもそう思ってる。その証拠にソースの一滴すら残さないものね。だからサンジ君もわかってると思ったんだけど・・・」
そこで言葉を切るから、ゾロはいぶかしげにナミを見た。
「まさか、コックはわかってねえとか言うんじゃねえだろうな」
そんな馬鹿なと笑いかけて、ナミの真摯な瞳に気圧される。
「・・・マジか?」
ナミがこくりと頷くと、グラスの底から水滴がポタリと落ちた。
「サンジ君は経験も実力も伴っている、まさに一流の海のコックよ。誰もが認めてるし、彼だって自負している。けど、それでありながらいつだって不安定に揺れてる部分があるの」
「馬鹿な」
ゾロは横を向いて吐き捨てるように言った。
「そりゃ修行が足りねえんだろ。確固たる信念と自信があればおのずと余裕が出てくるもんだ。しかもあんな態度のデカい野郎が今さら料理のことでチンタラ悩むなんざ、笑い種にもならねえ」
ゾロの辛辣な言葉にも、ナミは静かに首を振った。
「料理全般とか、そういうことじゃないの。極端なことを言えば、私達にはそうじゃないのよサンジ君は。その辺のこと、わからない?」
「なにが」
禅問答のようで面倒臭い。
「もっとはっきり話せ。よくわからん」
「ああもう」
ナミの方が苛立たしげに、前髪を掻いた。
「だからね、今日はサンジ君の誕生日だしパーティしてお酒飲んで、この辺がいい機会かな〜と思ったのよ。あんた達がちゃんと話し合えるような」
「それは無理だ」
ゾロはきっぱりと否定した。
「俺の耳のおかしな症状は、今夜まだ続くかもしれん。話し合いなんざ到底不可能だぞ。それどころか、俺は顔を突き合わせるのも嫌だ」
「嫌だ、なんて」
ナミが大仰に目を瞠る。
「そんな言葉使わないでよ。そりゃあ確かに妄想変換茸だなんて、おかしなモノを食べちゃったのは不運だったと思うわよ。だから症状が治まるまでは近付くなってのもわかるわ。でもそんな風に拒否する言葉を軽々しく使わないで」
「使うなも何も、事実だ」
「何言ってるの仲間でしょ。折角の、一年に一度しかない誕生日なんだもの。せめてこんな日くらい言葉選びなさいよ」
ゾロははっと息を吐いて空のグラスをトレイに戻した。
「コックの誕生日だからなんだってんだ。そんなもんどうでもいいだろ」
ナミの柳眉が吊り上がった。
「・・・どうでもいい、ですって?」
逆鱗に触れたかとさすがのゾロも言葉を止めたが、ナミがなぜそこまで過剰に反応するのかがわからない。
「サンジ君がこの世に生を受けた日よ、どうでもいいわけないで・・・」
言いかけて急に痛そうに顔を歪める。
顰めた目線が自分の背後に届くのに気付いて、ゾロはゆっくりと振り向いた。

片手にゼリーの入ったガラスの器を持って、サンジが所在無さげに立っている。
ナミにへにょんと笑い掛け、恭しく器を差し出した。
「ビタミンたっぷり、ヘルシー&ビューティ・ゼリーだよ。ナミさんがお日様みたいに笑ってくれたら、本物の太陽だって雲から顔を出すさ」
笑顔をそのままに、ゆっくりとゾロに顔を向けた。
「てめえが何ほざこうが、ひざまづいて足の指舐めてやるよ」
ゾロは目を瞑った。
サンジは、きっと口元に薄ら笑いを浮べているのだろう。
「後ろから突いてくれんのが、好みなのにな」
足音が遠ざかるのを待った。

不意に空気が揺れて、横面を張り倒される。
「このバカ!サンジ君にあんなこと言わせるなんて・・・」
目を開ければ、ナミが目元を赤くして睨み付けていた。
握り締めた拳が震えている。
「なんて言ったんだ」
「・・・なんですって?」
怒りに震える声に被せるように、ゾロは正面から言葉をぶつけた。
「コックは、今俺になんて言ったんだ?」
ナミは小さく息を呑み、目を瞠った。
見る見るうちに肩が下がって、力なく項垂れる。
「・・・ごめんなさい」

ゾロには、わからないのだ。
サンジの言葉が届いていない。
けれど、ゾロの言葉は真正直にサンジに届く。
そのことに苦しんでいるのはサンジだけじゃない。

ゾロは軽く首を振って錘を肩に担ぐと、見張り台へ向かった。
サンジがなんと言ったのか知りたくない訳ではなかったが、ナミの口から聞きたくはない。








雲の切れ間から明るい月が顔を覗かせる。
夜になると空は晴れて、いい月夜となった。
ゾロは一人で杯を傾けながら、甲板から流れて来る喧騒にそっと耳を済ませる。

風が凪いで穏やかな日の入の頃から、サンジの誕生パーティが開かれていた。
主役のサンジは仲間の輪の真ん中に鎮座させられて、あれこれと話し掛けられながら酒を飲んでいる。
とは言え、準備された料理はすべて自分で拵えたものなのだから、ただの宴会と大差はない。

本来なら一応仲間としてゾロもその宴に参加する義務も権利もあるのだが、いかんせん今の状態ではそんな気になれなかった。
ゾロも嫌だがサンジとて不快だろう。
誘いに来たウソップに、その方がお互いのためだと言ったらあっさり引き下がられた。
いつもならば強引に伸び出てきて否応なしに引きずり込む筈のルフィが、今回は静観を決めている。
肝心な部分で賢明だと、今更ながら感心した。

どちらにしろ、宴会の席でサンジが口を開けば――
しかも、それがゾロに向けて発せられた言葉であるなら、九分九厘卑猥な誘い文句となるだろう。
いい加減耳に慣れてきたようでぎょっともしないが、こちらも酒と雰囲気に呑まれて気分が高揚してしまえば、うっかり錯覚を起こしてその場で押し倒さないとも限らない。
実際、煽られるのは事実だ。
下手な芝居のような台詞回しでさえ、自分の欲望を自覚してしまった今では聞き流すことができない。
まあコックも、衆人環視の中で陵辱されたくはないだろう。
これもコックの為だと、ゾロは一人悦に入って宛がわれた酒を飲み干した。







しんと静まり返った甲板からは、幾つかの寝息と不規則な鼾が響いてくる。
まだ宵の口だと言うのに、早い段階でのお開きだ。
ゾロは気配を消して見張り台から降り、ラウンジに向かった。
調子に乗って飲み過ぎて、酒が足らなくなってしまった。
今日はコックのめでたい日だから、もう少しお零れに預かってもいいだろう。

甲板もラウンジに続く廊下もそれほど散らかってはおらず、宴会をしながら後片付けも済ませて行ったかのような手際の良さを感じさせる。
とは言えサンジの誕生パーティなのだから、手伝ったのはチョッパーかウソップ辺りか・・・或いは、クルー全員で手分けして片付けるのもイベントの内としたのかもしれない。

ラウンジからはかすかな灯りが漏れていた。
まだコックは残っているのだろうか。
それだとマズイと内心で舌打ちして、ゾロは殊更慎重に窓へと近付いた。
仕事をしているなら、もっと煌々と灯りがついているはずだ。
だがラウンジは照明を落として、テーブルの上に置かれたランプが柔らかな光を揺らしているだけだった。

「―――」
一目見て、ゾロは息を詰めた。
広いラウンジの、空っぽの水槽の前でサンジは一人グラスを呷っている。
片肘を着いて、少し身体を傾けて。
相当酔いが回っているのか、力なく項垂れた首筋から肩のラインがゆっくりと揺れた。
けれど顔色はどちらかと言うと蒼褪めていて、薄く開いた唇は仄かな灯りに照らされて艶良く濡れて見える。
何よりもゾロを驚かせたのは、その表情だ。
長い前髪に隠されていても、パッと見ただけで察せられる哀しげな雰囲気。
時折噛み締められる口元は、まるで泣き出すのを我慢する幼子のように小刻みに震え、そこだけ薄紅に染まった目元は潤んでいた。

サンジが哀しんでいる。
そのことが、ゾロに想像以上の衝撃を与えた。
今日はサンジにとって、楽しい1日だったはずなのに。
女共にチヤホヤされて仲間達に囲まれて、自分の料理を振る舞って酒も飲んで歌って騒いで、あれほど楽しそうな
笑い声を立てていたコックが、今は薄暗いラウンジで一人グラスを傾けている。
空のグラスの中で氷がカラリと渇いた音を立てた。
サンジの口元がゆっくりと歪み、まるで祈るようにきつく目が閉じられた。
眉間に皺が寄り、眉が顰められる。
嗚咽を堪える声が扉越しに聞こえてきそうで、ゾロは勢いでドアを開けた。





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