言葉にできない -1-


とうとうコックの頭が沸いたか、とゾロは思った。

まず自分の耳を疑うと言うことをしなかったので、それは当然の結果かもしれないが、それでも動揺を露わにしなかったのは彼にとって幸いだったと言える。
なんせサンジはゾロにこう言ったのだ。
仲間が集うサニー号の、真昼間の芝生の上で。

「てめえみてえな筋肉ダルマが汗だくんなってんの見ると、こっちまでクルんだよ。感じすぎて漏れちまいそうだ」



「―――は?」

リアクションを返すのにたっぷり10秒は係ってしまった。
だがサンジは、そんなゾロの愚鈍な態度が癇に障ったらしい。
口元を歪めて顎を上げ、並々と注がれたドリンクを一滴も零さずにトレイを掲げた。
「アホみたいに突っ立ってないで、その無駄に流す汗で俺までどろグチャにしてみろってんだ。こっちが疼いて仕方ねえんだよ」
ゾロは目をぱちくりとして、それから視線を下ろした。
目の前のコックの態度は普段となんら変わりない。
と言うか、言葉と行動がまったく伴っていない。
さすがにその程度の違和感は察して、ゾロは首を巡らした。

デッキチェアに寝そべって本を読むロビンやドリンクを飲むナミに変化は無い。
芝生に腰を下ろしてなにやら機械を弄くっているウソップも、ギターを奏でるフランキーも、船縁に座って釣り糸を垂れるルフィとチョッパーも、サンジの言動に驚いた風ではなさそうだ。
横を向いたゾロに苛立ったのか、サンジは乱暴にトレイを押し付けてきた。
「蕩けちまうだろうが、とっとと食えよ俺様を」
そう言って煙草を咥え直すと、がしがし大股で立ち去っていった。
少し猫背でひょろっこい、いつもの後ろ姿を呆然と見送るゾロの手の中で、グラスの氷がからんと涼しげな音を立てた。




突然のコックの奇行で、その後のゾロの集中力は途絶えてしまった。
とりあえず白昼夢の類かと勝手に判断し、以後ずっと昼寝を敢行して蹴り起こされたのはとっぷりと日も暮れた夕刻だった。

「いい加減起きろ根腐れマリモ。我慢できねえで俺がしゃぶっちまうぞ」
バチっ
目が覚めた。
ばっちりと目が覚めた。
「ほんとはてめえにしゃぶられてえんだ。察しろ、馬鹿」
馬鹿はどっちだ。
つうか、お前、自分が何言ってんのかわかってるのか。

いつものように横腹に強烈な蹴りを入れておいて、サンジは煙草を咥えたまま腕を組み仁王立ちしている。
状況から察するに、夕飯だからと起こしに来たのか。
「早く来ねえと夜鳴きしちまわあ。たまにはガッツけよ」
そう言ってきびすを返すのに、ゾロは飛び起きて追いかけた。

「クソコック」
「なんだダーリン」
「ダ・・・」
危うく膝が抜けそうになった。
「お前、一体どうした」
「何が?」
面倒臭そうに眉を顰めて、歩みを止めないで首だけ巡らす。
「タチの悪い遊びでも始めたか?」
そうとしか考えられない。
普段なら絶対口にしないであろう、いや、強要されても絶対に言わないであろう台詞がなんのためらいもなくポンポン口から飛び出すのははっきり言って異様だ。
「なんのことだ。四の五の言ってねえでさっさとやれよ。俺の上で腰振ってりゃいいんだ」
大きな声でそう言って、ラウンジの扉を開ける。
今の台詞はさすがに中にいたクルー全員に聞こえただろうに、ざわめきつつも行儀よくテーブルについた仲間達は知らぬ顔でこちらを見ている。
「ああやっと来た!遅いぞゾロ!」
「はい、じゃあみんなでいただきましょうか」
「いっただっきま〜す!」
ゾロが着席するのも待たず、大合唱で食べ始める仲間達の後ろを、ゾロは唖然としながら歩いた。

少なくとも、サンジ以外の仲間達の言葉と行動は普通だ。
食卓にはいつも通り美味そうな飯が準備してあるし、ゾロのための酒やつまみもちゃんとある。
テーブルに着くとサンジはカウンターの中に入り、最後の一皿を持ってきてゾロの向かいに腰を下ろした。
「ほら、さっさと食べろよクソダーリン。後で俺様もたっぷり食ってくれ、な?」

やべえ、やっぱりおかしい。
こいつの方が絶対おかしい。

いぶかりながらグラスを持ち上げ、窺うように口をつける。
サンジの顔から視線を外さずじっと睨み付けていたら、さすがにバツが悪くなったのかテーブルに肘をついて戸惑うように煙草を揉み消した。
「どうしたゾロ、俺の乳首摘まむ?」
瞬間、ゾロは酒を噴き出した。





「一体どうしたっての」
明らかに挙動不審なゾロを、最初に問い詰めたのはナミだ。
チョッパーも熱を測ったり聴診器を当てたりと、忙しい。
「・・・おかしいのは俺の方じゃない」
憮然として言い返すゾロに、仲間全員が首を振る。
「や、おかしいぞ。お前」
「なんかぼうっとしてるって言うか、驚いたような顔してるのよね」
「何に驚いているのかしら」
ロビンの穏やかな問い掛けに、実はと言いかけて口を噤んだ。
クソコックの言葉が全部エロ台詞に聞こえるのだと言ってしまえば、「お前、頭おかしいよ」と言われるに決まっている。
「コックの言う言葉が・・・おかしく聞こえる」
ゾロは苦し紛れに真実を述べた。
「どんな風に?」
「・・・まあ、明らかにおかしいとわかる言い方だ」
苦しい。
ゾロの人生に置いて、こんなにまで歯に衣を着せた経験は無い。

「コック以外の、お前らの言うことは全部まともだ。何言ってるかもわかる。言動が一致してるから問題ない。だがコックのは違う」
「言動が一致していないの?」
「そうだ、そう」
その通りだと、大袈裟な素振りで頷いた。
カウンターの向こうで片付けをしていたサンジが、くるりと振り返って口を尖らせる。
「俺が何言ったってこの口でイかせてやれんだから、たっぷり飲ませろよ」
ピキっとゾロの額に青筋が浮いた。
血が逆流しそうになるのを必死で抑える。
「もしかして、今のもおかしな風に聞こえたのかしら」
ロビンの言葉に辛うじて頷いた。
「ちなみに、コックは今なんて言った?」
「俺が何言ったって難癖つけるのは止めろ。知ったこっちゃねえよ」
ナミの台詞に愕然とする。
やっぱり、全然違うじゃねえか。
「ゾロはなんて聞こえたんだ?」
チョッパーの素朴な疑問が恨めしい。
ゾロは固く口元を引き結んで目で牽制した。
「・・・き、聞いちゃいけないのか?」
「口に出したくもねえ」
地を這うような低い声に、その場がしんと冷える。
からかえる雰囲気でも無いらしい。

「ともかく、原因を探らなきゃ」
「島を出て2日目ね。この辺の風土病かしら」
「あ、オレ街で地方の風土病対策の本を買ったんだ。早速調べてみるよ」
ワタワタと飛び出していくチョッパーに、サンジが声を掛ける。
「すまねえなチョッパー、ココア用意しとくから」
まともだ。
よく聞いてみると、ゾロに話しかける以外のサンジの言葉は、すべてまともだ。
サンジはくるっと振り返ると香り豊かなコーヒーを恭しく掲げて、ナミとロビンの間に置いた。
「腐れ腹巻のためにお手を煩わせてすみません。きっとこいつの頭が沸いただけだから、放っといたって構わねえよ」
「そうも行かないわよ。毎回食卓で噴き出されちゃ堪らないもの」
ごもっともと頷き、射殺しそうな目線でゾロを睨み据える。
「てめえ、くだらねえことで時間掛けてねえで、とっとと俺に突っ込まねえと漏らすぞ」
ピキピキっと、額の青筋が増える。
ゾロはぎこちなく首を巡らしてナミを見た。
ナミはふっと溜息をついて、低く声真似をしてみせる。
「てめえ、くだらねえことでレディに心配掛けてねえで、とっとと治らねえとオロスぞ」










「妄想変換茸」
「「「・・・は?」」」
仲間達の声がハモった。
「その名の通りズバリだ。妄想に変換する茸、食用のテノヒラダケとよく似ているから誤食が多発している」
「毒性は強いの?」
眉を顰めたロビンに、チョッパーはあどけない瞳を返した。
「ううん、潜伏期間が2日、発症したら3日で症状は消える。後遺症も無いらしいし、あの島ではポピュラーな症例だったよ。ただし、認識のない旅行者などが発症した場合は信頼や権威を損なう怖れがあるため注意すべし、だって」
「信頼や権威・・・最初からなくてよかったわね」
「誰がだ」
ナミの憎まれ口に反論しながらもほっとした。
原因がわかればたわいないことだ。

「妄想と現実の区別がつき難いタイプとかは、これを切っ掛けに精紳の均衡が崩れる場合もあるらしい。未成年者とかは特に注意が必要。ゾロの場合街の宿で一人だけつまみ食べてたからな、あれが原因だろう」
「俺だけ食ってりゃよかったんだよ」
不意に割り込んだサンジの台詞に、ゾロは顔を顰めた。
「今、なんてった?」
代わりにチョッパーが答える。
「俺の飯だけ食ってりゃよかったんだよって」
―――間違いじゃない。
溜息をついてがりがり首の後ろを掻くゾロを、ウソップは気の毒そうに眺めやった。

「治せないのか?」
「症状に直接効く薬はないらしい。治まるのを待つしかないよ」
「まあ、後遺症も無いし一時的なものなら、ね」
ナミが元気付けるようにゾロの肩を叩いた。
「仕方ないわ。サンジ君はなるべくゾロに話しかけないようにして、それでいいでしょ」
サンジは不満そうだが、何も言わずに口をへの字に曲げている。
「まあでも、ゾロも慣れてくると聞き流せるようになるんじゃねえの。なんて聞こえてるか知らねえけど」
鼻を穿りながら暢気に呟くルフィに、ゾロは鋭い一瞥をくれた。
「・・・最悪、この船からコックが消えることになるぞ・・・」
「それだけは勘弁してくれっ」
打って変わった悲痛な叫びに、仲間達がどっと笑う。
笑い事で無いのは、当のゾロとサンジだけだ。


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