此処より彼方へ 4



いつの間にか呼吸のリズムが揃ってきて、上下する肩も平淡な動きに変わって来た。
俺は詰めていた息をほおと吐く。
抱えていた背中を軽く撫でてそろそろと身を起こせば、長時間同じ姿勢でいたせいか関節がぽきりと鳴った。
あちこち強張ってる手足をずらしてゾロから身体を離す。

少し歯に引っ掛かっていたシャツを引き抜くと、ゾロはごろりと床に転がった。
そのままくうくうと寝息を立てる。

「――――やっと寝たか。」


まるででかい赤ん坊を寝かしつけたみたいだ。
やれやれと首を巡らせて、足音で起こさないように静かに倉庫から出た。
空は既に白み始めていて、夜明けが近いと知れる。




甲板に出て軽く伸びをすると頭上から声が掛かった。
「おはようサンジ君。随分早いわね。」
「ああっ、ナミすわん!見張りでしたかっ」
しまった。
よりによってナミさんへの差し入れを忘れるなんて。
ナミさんはひらりとマストから飛び降りると、大きな瞳をより見開いて俺を凝視した。

「すみません、すぐ熱いコーヒーをお持ちしますからっ」
「いいえ、いいのよ。サンジ君はもう休みなさい。」
じーっと見られてからにっこりと微笑みかけられる。
・・・なんで?

ナミさんの視線の先は自分の胸元。
辿るように下を向いて仰天した。
白いシャツの襟元はぐしゃぐしゃでボタンが取れていて、しかも涎まみれで所々に血まで滲んでいる。

「う、あ・・・ち、違うんですっ、これはっ」
慌てて抑えた手にも痛みを感じて見れば、手の甲にくっきりと歯形がついて、しかも滲んだ血がどす黒く渇いてこびりついていた。
「・・・想像以上に、激しいプレイみたいね。」
「ち、違うんです――――っ!」
「あーいいのいいの。早くシャワーしてらっしゃい。」
ナミさんはまるで犬でも追っ払うかのように、そっぽを向いて手だけでしっしと振って見せる。
言い訳しようにもどこから話せばいいのかわからなくて、ともかくこれ以上誤解が広がるのを防ぐ為、俺は着替えに走った。







得体の知れないクソ腹巻の発作のせいで、とんだ目に遭った。

軽くシャワーを浴びて着替えを済ませ慌ててキッチンに駆け込むと、もう殆どのクルーが朝食を待っていた。
ルフィは廊下にまで聞こえるような声で「メシメシ!」とうるさい。
「だめよルフィ。サンジ君にも都合ってもんがあるんだから。」
「ナミさ〜〜〜ん・・・」
クルーの手前、俺は下手に言い訳も出来なくて、途方に暮れながらただひたすらに手を動かしつづけた。

さすがにゾロはまだ寝ているのだろう。
結局、朝食を終えた頃にも、起きてこなかった。
ナミさんにからかわれたらこっそり釈明するつもりだったけど、思わせぶりに笑ってるだけでそれ以上突っ込んでこないし、ルフィたちはいつもと変わらぬ能天気ぶりだし、とうとう説明する機会を失ってしまった。
チョッパーにはなぜか俺から言い出すのは憚られて、なるべく手の創に気付かれないように気を遣う始末だ。




「まだ雨は降りそうも無いわね。」
手すりに肘をついてぼうと眺めるナミさんに、こっそり言い訳しておこうかなとお茶を持って近づくと、見張り台のウソップが大声を上げた。
「海軍だっ、こっちへ来るぞ!!」
慌てて示す方向を見ると、とんでもないスピードでこっちへ近づいてくる。

「大変、逃げるわよ!」
「やっつけねえのか?」
「馬鹿!海軍相手じゃ逃げるが勝ちよ!」









「麦藁海賊団!大人しくなさい。」

一際通る女性の声が響いた。
この声は、いつぞやの島でやり合わせたメガネのレディ。
もしかして、煙のおっさんもいるのか。

「うえ〜、煙のおっさんもいるのかぁ?」
ルフィも同じことを考えたらしい。
首を伸ばして確認している。
「ルフィ、適当にガトリング叩き込んで足止めさせろ。その隙に逃げる!」
バタついている時に、ようやうくゾロが現れた。
まだ寝ぼけ眼で生欠伸をしている。

「ゾロ手伝え!逃げっぞ!」
「ああ?逃げる?」
ぼりぼりと頭を掻きながら海軍を振り返ったゾロは、そのまま動きを止めた。





「ガトリング〜〜〜っ」

ルフィの威力で甲板に出ていた海兵達が海に落ちていく。
あの女曹長は怒り心頭で躍起になって追いかけてきた。
「お待ちなさい!許しませんよ!!大佐がいらっしゃらないと思って馬鹿にしないで!!」
「あーいないんだ。」
なら楽勝かも。
なんて思っていたら、あろうことかゾロが刀を抜いて海軍船へ飛び移ろうとする。

「・・・!何やってんだっ!!」
俺は怒鳴りながら慌ててその後を追った。






ゾロはまっしぐらに海軍の甲板を目指している。
途中行く手を阻んだ海兵たちを横薙ぎに斬り倒した。
ただならぬ気迫にルフィ達も緊張する。

「馬鹿、なにやってんのゾロ!!逃げるのよっ」
ナミさんの悲鳴みたいな声に混じって、ゾロの呟きが俺に届いた。

「・・・くいなっ」
その先にはメガネのレディ。

俺は咄嗟にゾロが彼女を斬ると思った。
斬らせちゃいけないとも、思った。

そして奇跡的に、俺はゾロを追い越したんだ。




――――――ざんっ・・・


鈍い、肉を斬る音を背中で聞いて、それでも俺はレディの肩を押し退けた。
膝の力が抜けて、そのまま床に崩れ落ちる。
レディは刀を構えたまま、その勢いで尻餅を着いた。

叩きつけられた衝撃だけで、痛みなんかは感じない。
ただ、燃えるように背中が熱い――――――

辛うじて肘を着いて、俺は顔を上げた。
ゾロが斬った海兵達で辺りは血の海になっている。
その中には、多分俺が流した血も混じってるんだろう。

座り込んだレディは俺の頭上辺りに視線を留めたまま、ガタガタと震えている。
多分背後にゾロがいて・・・
止めを刺そうとしてるんだろうか。

どうか、ゾロ・・・その人を殺さないで。
俺は喉が絡んでうまく出来ない息の下で、必至に声を絞り出した。

「・・・ゾロ、殺しちゃダメだ。」



その声は、届いただろうか。


それから後のことは、まったく覚えていない――――












目を覚ませば、見慣れた男部屋の中だった。
枕元にぽつんと灯りがついていて、昼間だか夜だか見当がつかない。
俺の傍らにチョッパーがいて、蹄を揃えたままじいっと顔を覗き込んでいた。

「・・・ちょぱ?」
「ああ、よかったサンジ。」
にししと笑って目元を擦っている。
医者の癖に泣き虫な奴だ。

「大丈夫だぞサンジ。間際にゾロは剣を引いてた。骨も神経も大丈夫だ。」
・・・ゾロ?
そうか、俺ゾロに斬られて―――――

「あの子は?あの女曹長・・・」
「多分無事だよ。あの後すぐルフィがサンジとゾロを連れ帰った。海軍は追いかけて来なかったから、うまく撒くことが出来たんだ。」

彼女にしてみれば悪夢みたいな一瞬だったろうと思う。
突然現れた剣士がその場にいた海兵たちを次々と斬り殺したんだ。
彼女を真っ直ぐ標的にして・・・

「ゾロは・・・?」
「あれからずっと倉庫ん中篭りっきりなんだ。食事も取ってない。」


どうやら俺が斬られてから2日ばかり経っているらしい。

「サンジ、ごめんな。これは医者として俺のミスだ。ゾロからちゃんと聞かされてたのに。状態を図りかねて適切な処置をしてなかった。」
うるうる目を潤ませながら青い鼻を啜る。
よくわからないがお前のせいじゃねえよと言いたい。

「ゾロが時々おかしくなるってのは、俺はわかってた。それにあん時は特別だった。多分、彼女に原因がある。」
それが慰めの言葉になるかどうかは分からないが、俺はチョッパーの帽子を軽く叩いた。
「肝心のゾロが何も言わないんじゃわからないな。次はこんなことねえように、俺らで考えようぜ。」
しゃくりあげながら、チョッパーはシーツに顔を擦りつけた。
何度か頷いて顔を上げる。

「サンジに、サンジにだけは・・・ちゃんと言っとくから。」
ずっと鼻を啜って、それでも俺の目を真っ直ぐ見据えた。

「――――ゾロは、薬物依存症だ。」




「・・・え?」

思わぬ言葉に俺は手を止めた。
沈黙が流れる。

・・・それってつまり・・・

「あのー・・・あれか?ヤク中?」
こくんとチョッパーが頷く。


・・・マジかよ・・・

感覚の無い背中に冷たい汗が流れた気がした。
















――――あれは、禁断症状だったのか。
なんとなく納得して、俺は枕に頭を預けた。
チョッパーはまだ鼻を啜っている。

「あのよ、海軍が来る前の晩に、俺倉庫の中で様子のおかしいゾロを見てんだ。」
「うん。」
こくん、と糸の切れた人形みたいにチョッパーは力なく頷く。

「ゾロがクスリをやめてからもう5年は経ってる。だから治療期間は終わってるけど、後遺症ってのは完全になくならないんだ。何かの拍子にフラッシュバックが起こったり、皮膚の下を虫が這いずり回るような嫌悪感が突然現れたりする。」
うわあ。
想像しただけで虫唾が走る。

「不眠や幻覚症状も現れる。けどゾロは今までそれをたった一人で乗り越えてきた。」
「・・・そんなこと、できんのか?」
それこそ化け物並みじゃねえか。

チョッパーは枕もとのテーブルから水差しを取ってコップに注いでくれた。
それを一口飲むと、ひやりとした感触が嘘みたいな話の中から現実に引き戻してくれる。

「これはロビンに聞いたんだけど。ゾロの故郷のカムンチュってとこは内戦が酷くて、ゲリラの活動が活発だったらしい。村を襲っては子供だけを浚って兵士として育ててた。」
俺は驚いてチョッパーの顔を見た。
そんな話は、確かに人伝えに聞いたことはあったけど…

「まだ年端も行かない子供が剣や銃を片手に戦場に送り込まれる。その時恐怖を感じないように麻薬を打たれるんだ。」
俺はただ声も出なくて、馬鹿みたいに口を開けていた。
「そうして駆り出された少年兵はそのまま戦場で散っていく。運良く生き延びて戦線から離脱できたとしても、幼い頃から打たれ続けた麻薬の禁断症状からは逃れられない。」
だから、ゾロみたいな例は稀だと、チョッパーは言う。
「並みの精神力じゃない。普通は禁断症状に耐え切れず再び薬に手を出して、廃人になる。ここまで生きてこれただけでも奇跡に近いんだよ。・・・だから、ゾロを許してやってくれ。」

ゾロのせいじゃないんだと。
そんなことは、最初からわかってる。
多分、俺はわかってた。
だから俺はチョッパーの毛並みを撫でて、ベッドから身体を起こした。

「・・・!ダメだよ。まだ寝てなきゃ。」
「でも骨にも神経にも影響ねえんだろ。それに、俺が行かねえと多分ゾロは倉庫から出てこねえぞ。」
俺の言葉に、チョッパーは詰まってしまった。
それでもなんとか俺の身体を押し留めようとする。

「でもダメだ。サンジの背中はでっかい袈裟懸けの傷がついてんだから。」
「へえ、カッコいいじゃねえか。」
俺はそう嘯いて男部屋を出た。













外は月夜。
どうやら真夜中だったらしい。

この間みたいに足音を忍ばせて倉庫の前まで来た。
そっと開けようとしたが開かない。
下の部分をガンと蹴る。
衝撃で死ぬほど背中が痛かった。

なんとか壁に張り付いて痛みを堪え、息を整えて扉を開ける。




隅っこに亡霊みたいに蹲ってるのは、哀れなゾロだ。

ロープやバンダナで拘束したりはしてなかったけど、でかい身体をちぢこませて、膝を抱えたガキみたいな姿でそこにいる。


「・・・よお。」

俺の声に見上げた瞳は、いつかみたいな色のない眼だ。
またどっかイっちゃってるのかな。

俺はゆっくりと歩いて、上体を傾けないように膝を着いた。
ちょっとの動作でも傷に響く。
それでも顔に出さないで、ゾロの横に座ると煙草を取り出して一服吸った。
少し心を落ち着けてみる。

2,3度吹かして煙を吐いて、俺はゾロの顔を見た。
視線は俺の方にあるが、相変わらず「なんだこいつ?」ってな顔だ。


「やってくれたなクソ腹巻。生憎俺はピンピンしてっぜ。」
ゾロは何も言わない。
得意のオウム返しさえ出ないのか。

「それから、俺の前でレディに乱暴働いたりすんなよ。問答無用で俺がてめえを成敗すっぞ。それだけは覚えとけよな。」
ゾロの目は俺の輪郭を辿るように動いて、頭の辺りで止まった。
「聞いてっか?つうか、何見てる?」
子供を諭すみたいに優しく言ってやれば、ゾロはようやく口を開いた。

「きんいろ・・・」
「あ?」
「金色だ。そんな色が広がっている。」
・・・ああ、またなんか思い出してんだな。

ゾロの手が俺の髪に触れる。
好きなようにさせてやった。

このまままた発作が出て髪を引っこ抜かれようが、首絞めて殺されようがもうかまわねえや。



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