此処より彼方へ 3



いつものごとくまるで舐めたように綺麗に平らげられた皿を手早く洗いながら、俺はさりげなく後ろの気配を窺った。
夕食後の後片付け。
チョッパーは見張り台へ、女性陣は早めの就寝、ルフィとウソップは風呂へ部屋へとそれぞれに行った。
ゾロ一人を置いて。

さっきから不躾な視線が背中に痛い。
酒をかっ食らいながらぼうっと俺を見てるらしいゾロが気になって、うざくて腹が立つ。
だがここで声を荒げて奴を刺激するのも避けたいところだ。
俺は極力静かな声音になるように気をつけて、奴を見ないで顔だけ向けた。

「お前も、もう休んだらどうだ。いくら昼間惰眠ばっか貪ってたとは言え、夜は寝るもんだ。もう俺も大体片付けたから、とっとと寝てくれ。でねえとそっちが片付けかねえ。」
結局最後の台詞は刺々しくなったが仕方ない。
俺の苛々する気持ちを知ってか知らずか、ゾロは殊更ゆっくりグラスを傾けている。
「てめーと違って俺は昼間も働いてっから、夜くらいゆっくり休みてえんだ。邪魔すんなっつうか、人のケツジロジロ見てんじゃねえよ!」
気の長い方じゃない俺は、終いにはぶち切れてイスを蹴りながら怒鳴っていた。
が、ゾロは衝撃で身体が揺れても平然としている。

「・・・お前のケツを見ていたわけじゃねえぞ。」
「じゃあ何見てんだ、鬱陶しいっ!」
お玉を握ったまま腕を組んで仁王立ちする俺の前で、ゾロはついと指を指した。
「手・・・かな。」
「は?」
少し考えるように首を傾ける。
「お前の手・・・すげー面白いな。よく動く。器用だ。それにいい匂いがする。」
「はあ?」
――――なんだ、新手の口説きか。

「匂いって・・・」
ルフィ並みかよ。
食いモンの匂いに釣られるタイプか?
「そういやお前、みそ汁の匂いで起きて来たな。」
「ああ、みそ汁ってんだな。美味かった。」
お、俺のアンテナが反応しちまったぜ。
俺って『美味かった』って単語に無条件で反応しちまう。

「ああ、ありゃあこないだの、お前が乗ってきた島で仕入れた味噌で作ったんだ。あと醤油とかもあったぞ。大豆も買い込んだから、豆腐とか作ってやろうか?」
「豆腐?」
「味噌汁に入ってたろ。白いの。俺も作れるんだぜ。」
ゾロの目が俺の手と顔を行ったり来たりしている。
あの茫洋とした瞳ではない、目的を持って辿る生きた目線。
「納豆にもチャレンジすっかな。お前好きそうだしなあ。イーストブルーの北の料理がいいんだろうな。」
こいつは、俺と違って生まれ故郷って奴を持っている。
やっぱ郷土料理が恋しいなんて、人斬りも人の子だったってことか。
いかなる相手でもついサービス精神を発揮してしまうのは俺の長所であり、短所でもあるかもしれない。

バラティエでも飢えた海賊に飯を食わせて、元気になった途端居直られたことは何度もあった。
それでも他のコックどもに言わせれば学習能力のない俺は、与えることを止められない。
自分が出来うる限りの施しをせずにはいられないんだ。

明日にでも大豆を炊いて・・・
いやまず水に浸しておかなきゃな。
豆腐を作ったらおからができるな。
ルフィたちにはそれでドーナツを作ってやろう。
ざる豆腐もいいが、残ったら揚げにして・・・
いやその前に揚げ出し豆腐で・・・



すっかり料理に思考が行っていた俺は、近付いて来たゾロに気がつくのが遅れた。
不意を付かれて、振り向いた時には、すでに両手で背中と腰を抱えられていた。
ご丁寧に足を踏んづけてくれている。
「な!お・・・まっ」
いくら俺の蹴りがジジイ直伝とは言え、至近距離では威力を発揮できない。
正直ここまで接近されると俺にはなす術がない。
辛うじて武器になりそうなお玉を振り上げようとしたら手首を掴まれた。
痛みに思わず身を竦める。
「手、手はよせっ」
ゾロが不思議そうな顔で俺を見つめる。
「乱暴にすんな、筋でも違えたらどうしてくれんだ。俺の手はコックの手だぞ。」
「コック・・・」
またオウム返しだ。
だがこういう時のゾロは扱いやすい。
「ああそうだ。俺の大事な手だ。だから俺は戦いの時、手を使わない。」
納得したようにゾロは手首を掴む力を緩めた。
けど相変わらず体全体を使ってがっちり動きを止められている。
背中に回された手が肩甲骨の下辺りから背筋を辿るように何度も上下する。
反対側の手は俺の腕を抱えたまま腰に廻っているからなんだか抱きすくめられてるみたいだ。

「・・・あ、あのよ。おま・・・いつもこうか?」
「いつも?」
「その・・・なんだ、男とやる時…」
ゾロがまた不可解な目の色で見る。
「んなことねえな。いつも適当に買って突っ込むだけだ。」
「買ってって、男娼・・・とか?」
「ああ。」
うわあ、本物なんだなあ。
ってことは、俺は男娼の代わりかよ。
また沸々と怒りが湧いてくるのに、ゾロはお構いなしに俺の頬に触れてきた。
がさついた指の腹で何度か撫でる。
「・・・なんだ、男相手にんなことすな。気色悪い。」
「・・・こんなこと、しねえ。」
俺を触ってるのはゾロなのに、なぜだかゾロは不思議そうだ。
「やる相手にこんなこた、しねえぞ。突っ込めりゃそれでいいんだ。なんでだか、てめえに触りてえ。」
そう呟いて、俺の手をゆっくりと自分の口元に持って行く。
匂いを嗅がれているだけなのに、まるで口付けされているようで顔が熱くなった。

この手を振り払えないのは、こいつが馬鹿力のせいだ。
抵抗できないのも、仕方ない。
俺は必死でそう思い込もうとした。

目を閉じて、少し眉間に皺を寄せて俺の手に顔を寄せるゾロは、男の俺からみても整った顔立ちをしている。
細い眉も意志の強そうな口元も精悍な印象を与えて、多分レディなら誰でも放っておかないだろう。
「・・・お前って、ほんとにレディがだめなのか?」
なんだか俺は哀れに思えてきた。
人の性癖をとやかく言うつもりはないが、なんか勿体無い。
「てめえみたいなマッチョ野郎に多そうだけど、レディのこと馬鹿にしてんだろ。あんなに柔らかくて優しくて綺麗な生き物はいねえのによ。」
俺の言葉にゾロは静かに薄目をあけた。
「馬鹿になんざ、してねえぜ。俺は――――女が強いことを知ってる。」
眇めた瞼から覗く瞳はどこを見てるのかわからない。
まるで独り言みたいにゾロは続けた。
「俺の幼馴染は女だったがえらく強かった。一度も勝てなかった。」
「なんだ・・・なら、その子のことが忘れられねえ、とか?」
ゾロがずっと俺の手を口元に当てたまま目を閉じた。
「くいなを斬ったのは俺だ。それから女は抱けねえ。」

「―――・・・」
俺は言葉を失ってしまった。
下手な慰めなんて、言うべきじゃないだろうしそんな台詞も持ち合わせちゃいないけど、ただゾロがは真性って訳じゃなくて何か事情があってそうなったってのは、なんとなくわかった。
けどそれとこれとは話が別だ。
「・・・だからって、俺のケツを弄るんじゃねえ。」
いつの間にか背中を抱いていた手が腰の下まで下りてきている。
「人の身体を、気安く触るんな。」
あんまり密着されるとさっきからバクバク鳴ってる鼓動が気付かれそうで困る。
別にこいつに迫られてどきどきしてる訳じゃねえぞ。
息が上がってんのも、腹を立ててるせいだ。

焦る俺にお構いなしに、ゾロはまた俺の手を鼻先に当てた。
「・・・お前の匂いを嗅いでると・・・思い出す。」
「な、なにを・・・」
「わからねえ。けど思い出す。」
ゾロの眉が切なげに顰められた。
言ってる言葉とは裏腹に、顔に表れたのは苦悶の表情だ。

「・・・辛えのか。」
思わず問うた言葉に、ゾロが至近距離から見つめ返す。
俺の目の前にあるのに、何も見てないような虚ろな瞳。
壁に押し付けるように密着して、手を握って、身体ごと抱きこんでいるのに、ゾロの意識はどこか遠くを彷徨っている。

「ゾロ、思い出すのは辛えのか?」
俺はもう一度問うた。
どうしてもゾロの意識をこっちに引き戻したかった。
俺を見て欲しかった。
だがその声に答えず、ゾロは振り払うようにきつく目を閉じると、唐突に俺から身体を離した。

よく見れば額に汗が浮いている。
肩だって呼吸に合わせて大きく上下してる。
「ゾロ?」
「・・・寝る。」
そう言い残すと、呆気に取られるほどあっさりゾロはキッチンから出て行ってしまった。
残されたのは、壁に沿って馬鹿みたいに突っ立っている俺と、踏みつけられてた足の痛みだけだ。

「・・・なんだってんだよ。」
その先に進まなくて残念だと思っている訳じゃねえ。
それは決してない。
訳じゃねえが、あの、どこ見てんだかわかんねえ瞳を捉えてみたいと思った。




「最近、少しメニューが変わったわね。」
ロビンちゃんにさらりと指摘されて、心臓がオーバーに跳ねてしまった。
なるだけ平静を装って返事する。
「こないだの島で結構買い込んじゃって・・・ほら今ヘルシーブームだし。」
「そうよね、私こんな献立も好きよ。誰かさんはもっと気に入ってるみたいだけど。」
ナミさんの口撃に危うく撃沈されそうになった。
渇いた笑いで応えて俺は料理に専念する。

まだかまだかと欠食児童達が囲むテーブルには、頻繁に米の飯が乗るようになっていた。
パスタの時だって、ちょっと醤油を隠し味に垂らしたりしてやるとゾロが黙々と食っている。
食いながら首を傾げどっか分からないところを見てることが多いのは、何か思い出している時だ。
それがいいことか悪いことか俺にはわからないが、なんとなくゾロが喜んでるみたいに思えるからついつい俺も腕を奮っちまう。
身に染み付いちまったサービス精神ってのは仕方がねえと自分に言い訳してみたり。


ゾロがこの船に乗ったその日に海賊が襲って来て以来、ロクに襲撃を受けていない。
だから、ゾロはまともに俺の足技を見たことがないからか、俺の力を計りかねてる感じだ。
あれから何度か不埒な行動に出ようとする度俺は、絶妙のタイミングで奴を床に沈めてやった。
一度なんで俺に手出そうとしやがるんだと聞いてやったら「締まりがよさそうだから。」と真顔で答えやがったから、視界で捉えられないくらい遠くまで蹴り飛ばしてやったっけ。
必死こいて泳いで帰ってくる奴を見るのも結構面白かったなあ。

ウソップ達の間では、いつ俺が奴に処女を奪われるか賭けをしてるみてえだが、生憎そう簡単にやられる俺じゃねえっての。
こんなじゃれ合いみたいな攻防も、今度の島に着く時までだ。
上陸して発散したら、もう俺なんて見向きもしなくなるだろうし。











いつものごとく手早く後片付けを済ませて、仕込みも終える。
一息ついて振り返ったが、いつもイスに腰掛けて一人で酒を煽っているうざったいクソ野郎の姿がない。
居たら居たで鬱陶しいが、居ないとなんだか物足りなくて、俺は手持ち無沙汰なまま煙草を吹かした。

――――小麦粉、補充しとくか。


寝静まった廊下に明るい月明かりが差し込んで、俺の長い影が伸びている。
足音を忍ばせて俺は倉庫の扉を軽く押した。
が、開かない。

「?」
もう一度押してみるが何かに当たってるのかどうにも開きにくい。
俺は扉の下部分を強めに蹴ってみた。
向こうでからんと音がする。
何かつっかい棒でもしてたのか?
重い扉をぎいと押しやれば、足元からかすかな光が差し込んでいく。
暗い倉庫の隅、ジャガイモの袋やら木箱やらが詰まれた影に、誰かが蹲っていた。





一瞬、マスかいてるとこに乱入したかと思ったが、差し込んだ月明かりでそれがゾロだと知れた。

「・・・閉めろ。」
くぐもった声に、反射的に扉を閉めた。
ついうっかり俺が中に入った形で。

「・・・光を、入れるな。」
きっちり閉ざされた倉庫の暗闇で、俺は自分の迂闊さに舌打ちした。
なんで出てって閉めなかったんだ。
これじゃ出て行くために扉を開けたら光が入ってちまうじゃねえか。
・・・って、なんで光が、ダメなんだ。

闇の中で耳を澄ませば、まるで獣の息遣いみたいに忙しなく荒い呼吸音が響いている。
ゾロだ。

「――――おい?」
俺は無意識に声を潜めてゾロがいた辺りにそっと近づいた。
尋常じゃない雰囲気だが、なぜだかゾロが苦しんでるのが分かる。
息遣いを頼りに膝をついて身を屈めた。
ゾロの固い髪が掌に触れる。
そっと辿れば額の辺りがべっとりと汗で濡れていた。
首筋まで汗まみれで熱い。

「・・・熱があんのか?」
なぜだか俺はこのときゾロを怖いとは思わなかった。
いつも無表情で、感情どころか痛みすらも顔に出さないゾロが苦しんでいる。
そのことが酷く不安で、ガラにもなく動揺していた。

「おい?」
闇に目が慣れてきて、うっすらと輪郭が見えてくる。
肩を上下させて忙しなく続く呼吸は鼻から出ていた。
ゾロの口元はいつも腕に嵌めている黒いバンダナをがっちりと噛み締めている。
そして両手と両足はそれぞれ手首足首のところで縄を巻いて、外れないように自ら握り締めていた。
誰かに縛られたものじゃない。
自分で仕掛けた戒め。

「・・・ホモの上に、こっちの趣味かよ。」
場違いな冗談は闇の中に沈んでしまった。
俺はどうしていいかわからなくて、ただゾロの正面に跪いた。
「・・・チョッパーを、呼んでくるぞ。」
初めて、ゾロが頭を振って俺に反応を示した。
本当はそうすることすら、耐えられないほど苦しいのだろう。
「呼んじゃ、ダメなのか。」
時折痙攣するように身体を震わせ、ゾロが声を絞り出す。

「…すぐに、治まる。」
そう言いながら段々体が前のめりになったから慌てて支えた。
口に布を噛んでいるから余計呼吸しづらいんじゃないか。
玉のように浮いて出る汗を拭おうとバンダナを引っ張った。
俺の手の動きに誘われるように、ゾロが顔を擦り付けてくる。
――――匂いか。
気付いてその頬に手を添えた。
ゾロは目を閉じて、俺の掌に鼻をくっつけるように寄りかかってきた。
丸まった拾い背中に手を添えて、身体ごと支える。
気休めかもしれないけど、それで少しでも楽になるんなら何でもしてやりたいと思った。

だらだら滲み出る脂汗と押し殺した呼吸から、ゾロが相当辛い状況なのはわかった。
それでも、僅かに顔を顰めただけで、じっとそれに耐えている。
すぐに治まるとゾロは言った。
こんなことは、しょっちゅうなのか?
薄く目を開いたゾロは、俺の肩越しに視線を彷徨わせた。
どこを見てるかわからない、あの目だ。
叫ぶ形に開いた口が、俺の手を咥えて歯を噛み締めた。
痛みに思わず声をあげて、もう片方の手でゾロの顎を掴む。
迂闊に手を引くと噛み裂かれそうだ。
なんとか口を開けて欲しいのに、ゾロは細かく震えながら硬直している。

「・・・い、痛っ、ぞ・・・クソ」
なんとか抉じ開けようともがく俺の指に触れて、ゾロの視線が下に下がる。
ガクガク痙攣しながらも、ゾロは口を開けた。
暗くてよく見えないが、くっきり歯形がついちまったようだ。
俺の手を唇の端に引っ掛けたまま、ぜいぜい肩を揺らしている。
辛くて苦しくて、仕方ねえんだろう。

「…大丈夫か。」
だけど俺は、今更な声掛けしかできない。
ゾロは俺の手を見て、それから俺の顔を見た。
ひどくひどく苦しそうなのに、我慢している。
緩く首を振って目を瞑った。

「・・・手は、だめだな。」
独り言みたいに小さな声。
「手は・・・ダメだ。てめえのコックの、手だ・・・」
覚えてたのか。
俺の手は大事なコックの手だと、覚えてくれていた。


歯を噛み締めてゾロが耐えている。
さっき俺が取っ払っちまったバンダナは暗くてどこにあるかわからねえ。
何か噛んでた方が楽なら、俺の手でかまわねえのに。
そう言うと、やっぱり苦しそうにそれでも首を振る。

こんな風に苦しむ人間を目の前にするのは初めてじゃねえ。
それこそ瀕死の状態で呻く者や、飢えで死にかけた奴を看取ったことだってある。
だけど、苦しいのにこんなに耐えてる奴ははじめてだ。
きっと叫んで暴れ出したい位なのにゾロは耐えてる。
自分の手首に縄を食い込ませて、唇を噛み切ってでも耐えている。
それがわかったから俺は余計どうしようもない気持ちになった。

スーツの襟元とシャツを引っ張って涎まみれのゾロの口元に宛がった。
咥えやすいように押し付けて、両手で肩から頭をかき抱くように抱きしめる。
ゾロは鼻で息をしながらじっと俺の服を噛み締めていた。
時折痙攣しながらも、ずっとずっとそのままでいる。
それがゾロの助けになってるかどうかなんてさっぱりわからなかったけど、俺は身動き一つしないでゾロを抱きしめ続けていた。


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