きつねの嫁入り
-7-


テレビカード買い足し用にと持たされていた現金を握り締め、ゾロはとりあえずタクシーに乗った。
さすがにこの状況で、バラティエを目指して徒歩で移動するのは無謀だと自覚がある。
運転手に行き先を告げ後部座席に深く凭れると、自分の身体からツンと消毒液の匂いが立ち昇るのが分かった。
病衣から普段着に着替えたが、運転手はバックミラーで気遣わしげに自分の顔を見ている。
顔色が悪いのかもしれないが、出掛けに痛み止めを飲んで来たから、大丈夫だ。

三十分弱で、バラティエに着いた。
手持ちの金で精算できてホッとしつつ、タクシーから降りる。
まだ開店前だが、店舗と住宅は隣接しているから、誰かがいれば家の鍵を開けて貰えるだろう。
そう踏んで勝手口へ回ると、ちょうど出て来たゼフと鉢合わせした。
「坊主!?」
さすがにゼフも驚いたようで、顔色を変えて立ち止まる。
「一体どうした、病院を抜けて来たのか?」
クワッと目を剥いて怒鳴り付けられると、身体の芯がビリリと震える。
だがゾロは何とか踏み堪え、挑むように睨み上げた。
「話を聞いて、居ても立ってもいられなかった。家に入れてもらえるか」
「――――この・・・」
ゼフは苦虫でも噛み潰したような顔をし、フンッと鼻息を一つ吐く。
「いらねえ心配を掛けちまった。俺の失態だ」
「や、俺が勝手に気にしてるだけで…」
話している間にも、息が上がってきた。
ゾロは顎を上げ、誤魔化すように咳払いをする。
肋骨が、ミシリと痛んだ。

「とにかく、家に入れてください。あいつと話がしたい」
「わかった、任せる」
病院を抜け出すという無鉄砲さを、それなりに評価してくれたのだろう。
ゼフはすぐに勝手口を開け、招き入れてくれた。
「俺は、いない方がいいかもしれんな」
「なんかあったら、店に連絡します」
ゾロはそう言って、靴を脱いだ。
ちょっとした動作が、いちいち骨に響く。
痛み止め、仕事しろ。

階段をのぼり、行き慣れたサンジの部屋に立った。
この扉はずっと閉ざされているという。
篭りっきりなのか、留守の間に出入りしているのかは知らないが、サンジがゼフの目を盗んでコソコソと行動するのは似合わない気がした。
一体、なにをしているのだろう。

「グル眉」
扉に向かって声を掛けたら、中で気配がいた。
ゾロが来たことに、気付いたらしい。
「おい、開けろ」
「ゾロ?なんで?」
明らかに動揺した口ぶりで、サンジが近寄って来るのが分かった。
「てめえに、会いに来たんだ。開けろ」
何をやってんだと怒鳴り付けたかったが、どうにも上手く声が出ない
下手に声を張り上げると裏返りそうで、極力勢いを抑えた。

ガツゴツと、扉に何かが当たる音がした。
どうやら、家具を積み上げて籠城していたらしい。
ゾロが来たから、慌てて退かしているようだ。
しばらくしてドアノブが回り、扉が開いた。

天岩戸ととやらは、こんな感じだったのかもしれない。
開いた扉の隙間から差し込む光は、昼間の廊下よりも強く明るい。
「ゾロっ!」
光を放ちながら飛び出してきた人影は、ゾロより頭一つ分高かった。
「ゾロ、このクソ野郎!なんだってこんな、無茶をっ・・・」
両肩を掴まれ、見下ろされる。
乱れた前髪が、目元を覆うように艶やかな渦を巻いて流れ落ちた。
白い貌は唇まで蒼褪めていたけれど、その分冴え冴えとして恐ろしいほど美しい。
ゾロが知っているサンジではない、あの日の幻の狐そのものだ。
サンジの迫力に気圧されないよう、ぐっと足を踏ん張って耐えた。
「お前が、心配だったから」
「馬鹿野郎!人の心配してる場合かっ」
サンジは泣きそうに顔を歪め、ゾロの肩を掴む手に力を込める。
指の先まで、氷のように冷たい。
いや、自分の体が熱いのか。
「てめえ、熱があるじゃねえか?!」
サンジは慌てて、ゾロの額に掌を当てた。
ヒヤリとした冷たさが心地よく、つい目を閉じそうになる。
が、サンジに見下ろされるのは正直気分が悪い。

「うっせえ、てめえこそ、なにしてやがる」
サンジの手首を掴んで、強引に引きはがした。
「なんで、俺に会いに来ねえ」
「――――!」
サンジの目が、一瞬怒りに燃える。
「なんでだと?行ける訳ねえじゃねえか、てめえが、てめえがまた死にそうになるから、お前がいつもそんなんだから、だから俺は―――」
途中で喉が詰まり、声が上擦る。
瞬きする度に、潤んだ瞳からパタパタと透明な滴がいくつも零れ落ちた。
夢で見た通りの、いやそれ以上に美しく悲壮な表情だ。
唐突にゾロの胸に愛しさが込み上げて、息をすることさえ苦しくなった。

「悪かった」
ゾロはきっぱりとそう言って、サンジの背中に手を回した。
自分より上背はあるが、痩せた肩は痛々しい。
「心配かけて、悪かった」
釣り上がっていた眦が、情けなくへにょりと下がる。
「・・・そうだ、てめえが悪い」
サンジは俯いてゾロの首元に顔を埋め、嗚咽を漏らす。
「てめえが全部悪い。いつもいつも、俺を置いて先に逝って―――」
「わかったから、もう泣くな」

身体が熱い。
頭の中がグルグルと回ってまっすぐ立っていることもできず、ゾロを支えるサンジの手に身体を委ねた。
そうして首を傾け、小刻みに震える横顔に顔を寄せた。
「泣くな」
陶器のようにつるりと滑らかな頬に、唇を押し当てる。
僅かに身じろぎしたサンジの、涙に濡れた頬、口端、鼻梁とずらして、戦慄く唇にも押し当てた。
しょっぱくて、少し甘い。

「――――ゾロ」
顔を離して、至近距離で見つめ合う。
いつの間にか、ゾロの目線が心持ち低くなった。
もう見上げなくてよい。
向かい合うサンジの顔は、少年らしいあどけなさが残るつるりとした丸みを帯びていた。
「もう俺は、大丈夫だから」
「・・・そうか」
いつもの、サンジだ。
ゾロと背丈がそう変わらない、細く伸びやかな手足を持った中学生。

サンジはゾロに肩を貸すと、そっと支えながら階段を降りた。
意識が朦朧として、階段を踏み締める足の感覚もかなり怪しい。
目の前で変化したサンジの姿も、幻惑のようで現実感はなかった。

段の途中で、玄関に立ち気遣わしげに見上げるゼフとパティに気付いた。
ああ、心配かけたなあと思うのに、詫びの言葉すら出てこない。
「親御さんに連絡した、もうすぐ迎えが来る」
「無茶しやがって、イカ野郎」
「ジジイ、ごめん」
サンジと一緒に頭を下げようとして叶わず、ゾロはそのままパティの腕の中に倒れ込んだ。
「――――ちゃんと俺、行くから」
サンジの声だけが、耳に届いた。






病室で点滴を受けながら、医師と看護師と家族にそれぞれ滾々と説教された。
何を言われても自業自得なので、目を瞑って大人しく小言を聞き続ける。
所々で記憶が途切れたから、どうやら転寝していたらしい。
「お客さんよ」の声ではっと目を覚ますと、もう夕方だった。

「今日は、すみませんでした」
戸口に立ち、ぺこりと頭を下げたのはサンジだった。
パーカーにジーンズ姿で、両手に紙袋を抱えている。
「いいえ、こちらこそごめんなさいね。勝手に押しかけて」
「もう、この馬鹿が考えなしに行動するから」
母と姉達が、ささどうぞとサンジを手招いて椅子を空ける。
「あの、これ皆さんで良かったら…」
不出来ですがと言葉を濁すので、姉達は驚いて紙袋の中を覗き込んだ。
「これ、もしかしてサンジ君の手作り?」
「すごーい、まるでお店で売ってるお菓子みたい!」
サンジは、照れたようにエヘヘと笑った。
「うちのパティシェのパティにちゃんと指導してもらって、作ったんです」
どうぞと頭を下げられ、姉達はホクホクだ。
「じゃあ有り難く、いただきまーす」
「ゾロは、しばらく食事抜きだからね。仕方ないね」
「いったん帰って、お洗濯もの持ってくるわね。サンジさん、どうぞごゆっくり」
いそいそと病室を出て行く母達を見送って、ゾロはやれやれとベッドに座り直す。

途中、傷に響いたが、片眉を顰めただけでサンジが気付いて腰を浮かした。
「大丈夫か?」
「ったく、気を遣うんじゃねえよ」
「怪我人だろ」
サンジは甲斐甲斐しく布団を掛け直し、浮いた部分をぽんぽんと叩いて平らにした。
そうして改めて、パイプ椅子に腰かける。

「なあ」
「ん?」
「全部、話す」
「おう」

サンジが不思議な存在であることを、ゾロは最初からわかっていた。
でも、口に出して問いかけたことは一度もない。
サンジがいつか、自分から話してくれたら…などと待っていた訳ではない。
不思議なこともひっくるめてそれがサンジだと思っていたから、最初から疑問に感じていなかっただけだ。
だが、きちんと向かい合わなければ、サンジが辛いのだろうと悟った。
だから、腹を括って見つめ返す。
窓から、夕間暮れの涼しい風がそよいできた。








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