きつねの嫁入り
-3-


しとしとと降る雨が、山際に咲き誇る萩の花を濡らしている。
その花に埋もれるように、金色の狐が座っていた。
水滴で輝く耳は斜めに傾いで、濡れた前髪は濃い蜂蜜色だ。
くるりと巻いた眉に皺を寄せ、厳しい表情でこちらを見つめている。
眇められた瞳は冷徹に蒼褪め、引き結んだ唇も色を失って白い。

何をそんなに怒っているのかと、訝しく見ていると唇の端が戦慄いた。
白い頬を濡らすのは、降り続く雨ではなかった。
ぱたりと、軽い瞬きがその滴を振り落す。
「・・・すまない」
その口から漏れたのは、怒りではなく詫びの言葉。
「全部、全部、俺が悪いんだ」
ほとほとと、濡れた瞳から雨に混じって滴が零れ落ちる。
―――――お前のせいじゃねえ!
そう叫び返したはずだったが、声にはならなかった。



「んがっ!」
自分の声にびっくりして、目を覚ます。
そよそよと肌に風が当たっているが、寝転んだクッションと背中の間にはじっとりと汗が滲んでいた。
ブーン…と、扇風機のモーター音が間抜けに響く。
「あんだよ、居眠りくらい静かにできねえのかよ」
座卓を挟んで向かいに座っていたサンジが、鉛筆を握ったままを目を怒らせた。
そういや、一緒に勉強してたんだっけかと、遅まきながら思い出す。

ここはサンジの部屋。
七月中に宿題を生ませてしまおうぜと、自分から誘って押し掛けたのだ。
「・・・喉乾いた」
「ああもう!」
サンジはテーブルに手を着いて立ち上がり、ぷりぷりしながら出て行った。
薄いTシャツに、カーゴパンツから伸びる素足はスラリとして長い。
相変わらず痩せてはいるが、初対面の時のようなギスギスとした体つきではない。
膝裏まで日焼けして赤い後ろ姿を見送って、ゾロはそっと息を吐いた。

寝そべっていた体勢から、ゆっくりと上半身を起こす。
「あー痛・・・」
どういう訳か、股間が熱い。
サンジがさっさと部屋を出て行ってくれて、助かった。
深呼吸をして気を落ち着かせながら、腹を擦る。

一体なんの夢を見ていたのか、起きてしまった後では判然としない。
確か、あの黄金色の狐の夢だったような気がする。
しかも、夢の中でゾロはとても腹を立てていた。
あんまり腹が立ったから、怒鳴ろうとして目が覚めたのだ。
なのに、なんでこうも股間が痛いのか。
腹の底でマグマが湧いてるかのように熱く、鼓動だけが早い。

トトトトンと階段を駈け上がる音がして、サンジがドアを開けた。
冷えた麦茶が入ったピッチャーと、ゼリーが乗ったトレイを持っている。
「ほら、お茶おかわり」
「おう」
ゾロはぎこちない動きで座り直すと、グラスに麦茶を注いでゴクゴク喉を鳴らしながら飲んだ。
冷たさが喉から腹へと降りて行って、熱を冷ましてくれるようだ。
「あー、生き返った」
「大袈裟だな」
扇風機が動いているとは言え、昼下がりの部屋は暑い。
窓を開けていても通る風はむわっとして、熱気を孕んでいる。
サンジの部屋にクーラーは付けてあるが、使っているのを見たことがなかった。
ゾロも元々、暑さには強いしクーラーは苦手なのでそれでいいと思っている。
ただ今日は、暑さだけではない汗が滲んで不快だった。
「ほい、ゼリーも」
透明なグラスに形よく盛られたゼリーは、どうやらお手製のようだ。
オレンジやキウイ、パイナップルといった涼しげな果物がぎっしり詰まってよく冷えている。
「へえ、美味そう」
「美味そうじゃなく、美味えんだよ」
大きな口を叩くサンジからグラスを受け取って、スプーンで掬って口に運んだ。
思ったよりもさっぱりとして、口の中がシュワシュワする。
「サイダーか」
「お、わかった?」
サンジは、大きな目をさらに丸くしながら自分もスプーンを口に運んだ。
「ん、美味い。さすが俺」
「自分で言う」
「だったらお前も言えよ」
サンジの言葉に苦笑して、ゾロはもう一匙口に含んだ。
「うん、美味い」
「だろ?」
得意気なサンジの笑顔は、ゼリーよりキラキラして見えた。
そのせいか、さっきまで頭の片隅に残っていた狐の面影はすっかり消え去ってしまった。
ただ、怒ってたなーとぼんやりと思い、どっちが怒ってたっけかと首を捻る。
自分も腹を立てていたけれど、相手も怒っていたような気がする。
いや、狐は怒っていなかったか。
怒ったように見えて、本当は―――
「おい、零すぞ」
考え事をしている間に、手にした皿が傾いていたらしい。
サンジが指を伸ばして、ゾロの手の甲を支えた。
こんなに空気が蒸し暑いのに、サンジの指先は冷えていて気持ちがいい。
そう気付いたら、急に心臓がバクバクと鳴り出してまた股間が熱くなった。
「おう」
ゾロは半分麦茶が残ったグラスを、意識して股間に置いた。
浮いた露で濡れたって、すぐに乾く。
ただ、どうにかして早いとここのドキドキを沈めたかった。
内心で慌てている内に、夢で見た狐の面影は綺麗さっぱり消えてしまった。


約束通り、くいなとたしぎの誕生日はサンジの祖父が経営するレストランで行われた。
何度か家に遊びに行っているから、オーナー・ゼフとは顔見知りだ。
だがいつ行ってもサンジが一人か、もしくは祖父の話しかしないから二人暮らしなのかもしれない。
店は活気に満ちていて、やたらといかついスタッフが魚市場みたいに声を張り上げフレンチレストランらしからぬ賑わいがあった。
スタッフ達とは家族ぐるみの付き合いだと言っていたから、きっとサンジは寂しくないのだろう。
彩り豊かなフレンチに魅了された母・姉達はもとより、普段は和食一辺倒のゾロと父も舌を鳴らした。
たまには洋食もいいなと、笑顔になる。
ゾロは食事中も、チラチラとスタッフの動きや厨房の様子に視線を走らせた。
家には何度か押し掛けているが、店に入ったのは初めてだ。
ちょっとでもサンジの影がないか、無意識に探ってしまう。
するとタイミングを計ったように、カウンターの奥からサンジが姿を現した。
白いシャツにネクタイ、黒のベストという出で立ちは、子どもといえどいっぱしのものだ。
馬子にも衣装だなとからかいたくなったが、TPOを弁えて口を噤む。
「くいなちゃん、たしぎちゃん。お誕生日おめでとうございます」
綺麗に飾り付けられたデコレーションケーキを両手に掲げ、恭しくお辞儀をした。
くいなは赤、たしぎはオレンジをベースにした、どちらも美味そうなケーキだ。
「わあ、綺麗!」
「可愛い、それに美味しそう」
姉達は顔を見合わせて笑い、キャッ
キャとはしゃいだ声を上げた。
「サンジ君ね、いつもゾロと遊んでくれてありがとう」
母が挨拶すると、サンジは少しはにかんで会釈する。
「いえ、こちらこそいつもお世話になっております」
折り目正しい振る舞いに、母のみならず父も感心したようだ。
「よかったら、記念写真はいかがですか?」
サンジの提案に、母が嬉々としてスマホを取り出した。
ケーキを囲んで、主役の姉達を中心に画面に収まる。
照れ臭かったが、ゾロも我慢してじっとしていた。
「サンジ君も一緒に撮ろうよ」
「いえ、僕はいいです」
畏まって“僕”などと言い、すかさず取り皿を配った。
「お取り分けいたしましょうか?」
「あ、じゃあこちらで分けます」
「ではごゆっくり」
恭しくナイフとフォークを置いて、笑顔ですっと下がる。
あまりのそつのなさに、ゾロさえも呆れた。

「まあなんて、しっかりしたお子さんなんでしょう」
母は惚れ惚れしたように、うっとりと呟いた。
「まったく、とてもゾロと同い年とは思えんな」
「ほんとほんと」
「なんでだよ」
家族のあんまりな言葉に、ムッとして言い返す。
「あいつ、あんなにスカしてっけど学校では全然違うんだぜ」
「なにをいう。そのような口を利くお前の方が幼いのだ」
父に咎められ、眉間に皺を寄せた。
「女にはデレデレすっし、人のことすぐからかうしマリモだの緑だの呼ぶし」
「そうでなくちゃおかしいでしょ、まだ小学生なんだから」
母はコロコロと笑い、ナイフを手に取った。
「でも、ゾロにしては上等ね。気が利いてるわ」
一瞬なんのことかわからず、かすかに首を傾げた。
「ほんと、私のが赤でたしぎがオレンジってよくわかってる」
親でさえ時に間違うほどそっくりの姉達は、それぞれ好きな色が違っていた。
くいなは赤、たしぎはオレンジ色の物を好んで使う。
いつしかそれが、二人のテーマカラーになっていた。
「ゾロが教えたんでしょう?」
「――――いや…」
「私ここ、この苺の部分を大きく切って」
「私はこの、オレンジのとこ。あとそっちも頂戴」
「そっちもね」
「お父さんはチョコのプレートがいいなあ」
母が切り分けるケーキに夢中になって、誰もゾロの答えなど気にしていなかった。
取り残された形で、ゾロだけが首を捻る。
サンジに姉達の色の好みなど、話した覚えはなかった。







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