きつねの嫁入り
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道場からの帰り道、家にたどり着くまでの景色は日によって変わる。
見渡す限り田圃ばかりだったり、交通量が多い街中だったり、川べりの土手を歩いたり遠くに海が見える小高い丘だったり。
どこを歩いてもいつかは家に帰り着くので、ゾロにとって道中の景色が定まらないことなどなんの問題でもなかった。
だから、今日は途中から険しい山道に差し掛かっても気に留めなかった。
舗装されていない獣道を、臆することなくズンズン歩く。
自分の背丈より高い草を掻き分けると、途中できちんと砂利が敷かれた遊歩道に交わった。
なんだ、やっぱり道はあるんだと、一人で納得して道なりに登っていく。

空は晴れているが日は傾き、生い茂った樹木は足元に薄墨色の影を落とした。
どこかで鳥が、寂しげに鳴いている。
鬱蒼とした森を抜け、開けた場所に出た。
一面ススキの原で、風にそよいで波打っている。
あちこち草が生え放題で、進む先は次第に細くなっていく道の端に小さな祠があった。
随分と古いようで、屋根は傾き土塀は剥がれ落ちている。
花瓶らしき陶器が倒れて割れていて、ゾロは何の気なしに近付いた。

ぽつりと、足元に雫が落ちる。
ゾロの肩に頬に、頭にと次々と冷たい飛沫が掛かって顔を上げた。
空は晴れている。
なのに、風に乗ってどこからか雨が降ってきた。

「これは、あれだ。えーと・・・」
姉は『お天気雨』だと言っていたが、母は別の読み方も教えてくれたっけ。
そうそう――――
「キツネの、嫁入りだ」
ゾロはそう言って、ぽんと手を叩く。
その拍子に、すっかり日が暮れて黄金色に染まった景色がほんの少し揺れた。
「――――・・・」
なんとなく、気配を感じて視線を転じる。
傍らには、古ぼけた祠。
好き放題に伸びたススキと、生い茂る樹木。
砂利道にはあちこちから草が生え、ただ静かに風にそよいでいる。

斜めに降る雨が、次第に何がしかの輪郭を浮かび上がらせた。
祠の後ろに、人のような影がある。
黄金色に染まり、景色に馴染んでよくわからない。
見づらくて、ゾロはすっと目を眇めた。
ゾロよりも大きい大人のようだけれど、“人”ではないのかもしれない。
人の形をしてはいるが、頭の両側に大きな耳みたいなものがある。
そうしている間にも、徐々に姿が見えてきた。

するりと伸びた前髪が顔の半分を覆い隠し、見えている方の目は閉じられている。
眠っているかのような、安らかな表情だ。
つるりとした頬と、襟足までの艶やかな髪。
夕暮れよりも色鮮やかで、金色に輝いている。
白地の着物に茜色の半襟。
とてもこの世の物とは思えない人影だったけれど、不思議と怖いとは思わなかった。
ただただ、綺麗だと感嘆した。
綺麗なのに、よく見ると眉尻がくるりと円を描いて巻いている。
その顔をもっとよく見たくて、さらに足を踏み出した。

さっと一陣の風が吹いて、雨の雫を吹き飛ばした。
「―――あ」
どこかで鳥が鳴き、風に呷られた樹々が枝を撓らせる。
さきほどまでの静けさが嘘のように、山がざわめいていた。
いつの間にか、雨は止んでいる。
空は相変わらず晴れていて、山の端から立ち昇る雲は黄金色から赤紫へと変わっていた。
傍らにある祠は相変わらず古ぼけて、その後ろにはススキが風に揺れている。
「あ、あれ?」
ゾロは辺りを見渡したが、先ほど見た影はどこにもなかった。
まるで夕暮れが一瞬だけ見せた、幻のように。

「おっかしいな」
怖いとも不気味だとも思わず、ゾロは首を捻りながら道を歩く。
その先は草だらけで道などないのに、そのまま進んで土手から飛び降り、また道なき道を歩いていたら見覚えのある風景が見えてきた。
道場の、裏だ。
門の向こうにお師匠さんが立っていて、その隣に母がいた。
ゾロを見つけたのか、苦笑いをしながら手を振っている。
まるで迎えに来てもらったようで、ゾロは少々バツが悪い思いをしながら山を下りて行った。





「今日は一体、どこをどう歩いたの」
双子の姉たちに呆れられるのはいつものことだ。
泥だらけであちこちに引っ付き虫をくっ付けた服を脱ぎ、ゾロはむすっとして答える。
「別に、家に帰ろうと歩いてただけだ」
「道場の門から出て裏山から戻るとか、ファンタジスタにもほどがあるよね」
「だから私達と一緒に帰ろうって言ったのに」
「ちゃんと帰ったから、いいだろ」
よくないわよーと、そっくりな顔をした姉たちが口を揃える。
「いままで以上にありえない軌道を歩いてたからって、お母さん心配して迎えに行ったのよ」
どうやら、ゾロの行動は無理やり持たされた携帯で常時探索されているらしい。
姉たちの小言を聞き流しつつ、ゾロは洗面所で手と顔を洗って帰ってきた。
テーブルにはおやつが用意されている。
今日は帰宅が遅れたからすぐに夕食だが、食べ盛りのゾロはいくらだって入るから問題ない。

「裏山に上がる道とか、ないと思うんだけど」
姉のくいなが、温めたミルクをレンジから出してくれた。
口うるさいが、面倒見も良い。
「上がるとしたら、公園の裏からうんと遠回りしないとだもんね」
たしぎはそう言って、温まったカップに手を添えて「熱い!」と手を引っ込める。
「なんか、祠があったぞ」
ゾロはおやつの蒸しパンを頬張りながら、湯気の立つミルクを啜った。
「小さくて古くて、壊れてた」
「裏山って狐森の?」
「あの、恋稲荷さんかな」
双子は顔を見合わせて、どこどこ?とゾロに迫った。
「その祠、どこにあったの?」
「祠のこと、知ってんのか?」
「いま、授業で習ってるのよ。郷土の昔話に、恋稲荷さんのお話があるの」
「でも、今はどこにそのお稲荷さんがあるのかわからないんだって。郷土史の研究家も見つけられないって」
ゾロはもぐもぐと口を動かし、視線を上に上げた。
「お稲荷さんって、あれか。キツネか?」
「そうよ。お稲荷さんは狐の神様よ」
なるほど、キツネか。と合点がいった。
神様とかなんとかはゾロはあまり信じないが、いかにも神様っぽい綺麗さではあった。

「それ、どんな話なんだ」
「えーとね」
「班で、発表用にまとめたんだよね」
たしぎが、部屋まで戻ってノートを持ってきた。
「縁結びの神様でね」
「このお稲荷さんにお願いすると、好きな人と両想いになれるんですって」
いかにも女子が好みそうな話に、すぐに興味を失う。
「ふーん」
「ああ、あったこれこれ」
ゾロの様子などお構いなしに、姉たちは顔を寄せ合ってノートを見た。
「恋稲荷の神様にお願いすると、良縁に恵まれるってあるね」
「お参りした村娘は、みんな幸せになったんですって」
「でもね、この効力は女性にしか効かないって。おもしろい神様ね」
「そこまで話しが残ってんのに、なんで見つからないんだ?」
ゾロなんて、帰り道に行き会ったというのに。

「それがね、なんでも昔、とっても嫉妬深い神様に封印されたからですって」
「封印」
「だから、今の人がどんなに探してもその場所が見つからないって言われてる」
「俺、そこに行ったぞ」
「でしょ?だからだから、そこに行ってみようよ」
「いまからか?」
「そんな訳ないでしょ、もう暗いのに。今度の休みによ」
「ふうん、まあ気を付けて行って来いよ」
蒸しパンを統べて食べてしまって、パンと手を合わせたゾロの耳をくいなが引っ張る。
「なに他人事みたいに言ってんのよ、ゾロも来るの」
「えー、なんで俺が」
「ゾロしかその場所見てないんだから、当然でしょ」
かといって、ゾロが道案内をできるなどと、到底考えてはいなかった。
「ゾロが行った場所はGPSを辿ればわかるから、みんなで探検ね」
「楽しみ〜」
盛り上がる姉たちをよそに、ゾロは面倒臭いなあと溜め息を吐いた。



何となく、もう二度とあの場所には行けないんじゃないかと思っていた。
だが、科学の進歩がすごいのか携帯の性能がよかったのか。
姉たちはGPSを頼りに、あの日見た小さな祠の場所に無事辿り着いた。
「すっごい、ここだ」
「わー、ほんとに祠があった!」
興奮する姉たちをよそに、ゾロは少々がっかりした気分で山道に立っていた。

なんとなく、見つからないんじゃないかと思っていたのだ。
あの場所は自分だけが行ける場所で、もう二度と立ち寄れないところだと感じていたのに。
こうも簡単に姉たちと一緒に見つけられては、拍子抜けだ。
ただ、どこをどう眺めてもあの狐の神様らしき影は見つからない。
ホッとしたような残念なような、複雑な気持ちになる。

「ね、ここがお稲荷さんだよ。先生に知らせなきゃ」
「あの、郷土史のおじさんにもね」
はしゃぐ姉たちの後ろを着いて歩きながら、ゾロは山を下りる間際にもう一度振り返った。
いくら目を凝らしても、あの日見た不思議なキツネの姿は、どこにもなかった。




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