風邪注意報発令中 -1-


風が止んだのは、夜の間のことだったのだろうか。
晴れ渡った朝の空を見上げながら大きく伸びをして、ナミはぱちくりと目をしばたたかせた。
「やだ、風が止まってる」

海は凪いで穏やかだ。
見渡す限り空と海ばかりの景色だが、コンパスで位置を確認すると、昨日から殆ど移動していないことがわかった。
「もう、見張りは何をしてたのよ」
星空ばかり見上げていたら風が止んだことにも気付かないだろうが、そもそも不寝番がゾロだったのだから、起きていたかどうかも怪しいところだ。
ナミはラウンジに入る前に、見張り台へと登った。
屋根つき冷暖房完備の見張り台は、メリーの頃とは雲泥の差で快適な環境となっている。
故に、ゾロがまともに起きて見張りをしていたためしがない。

「ゾロー、おはよう」
高鼾で寝ていたらヒールで踏ん付けてやろうと勢い込んで扉を開けたら、案の定ゾロは床に寝転がっていた。
「ったくもう」
両手を腰に当てて、ミニスカートにも構わずゾロの横に仁王立ちする。
「見張りが寝てて、どうするの」
足を振り上げかけて、ふと動きを止めた。
様子がおかしい。
仰向けに転がったゾロの顔は苦しげに歪み、頬や額まで赤く染まってぜえぜえ荒い息をついている。
「ちょっと、ゾロ?どうしたの」
その場でしゃがんで、汗の浮いた額に手を当てた。
弾かれたように手を引っ込めて、ナミはオロオロと立ち上がる。
「どうしたのよ凄い熱。ちょっと・・・」
明らかに尋常でないゾロにナミらしくなくうろたえて、とりあえずラウンジへと降りた。




ラウンジの中は、朝食を待ちかねた仲間達で賑やかに騒いでいる・・・はずだった。
なのに扉を開けてもがらんとして、人の気配がない。
テーブルの上にはすでに用意された朝食が湯気を立てているのに、出迎えるサンジの笑顔も見当たらなかった。
「どういうこと?」
思い立って男部屋へときびすを返す。
案の定、扉の前で心配そうに中を覗きこんでいるロビンを見つけた。

「ロビン、どうしたの」
「ああ、おはようナミ」
ロビンらしくなく気遣わしげな様子で、ナミを部屋の中に誘うように手招いた。
「集団風邪かしら。みんな具合が悪いの」
「なんですって?」
覗き込めば、そうでなくともむさ苦しい男部屋は、熱気と喘鳴で溢れていた。

横たわっているのはフランキーとウソップ、それにルフィだ。
その間を元気そうなチョッパーとサンジ、それにブルックが走り回っている。
「あ、ナミさん!」
サンジが気付いて、慌てて飛んで来る。
「ダメだよロビンちゃんも、あっち行ってて。うつったら大変だ!」
慌てて閉めようとするから、ナミが手を振って制止する。
「大丈夫よ、それよりいつからこうなの?」
「今朝起きたらルフィの様子が変で、チョッパーを起こしたんだ。具合悪いのはフランキーとウソップの3人だ。一応朝食の準備はしてあるから、悪いけど二人で先に済ませておいてくれるかな」
「わかったわ」
「それはいいけどサンジ君、実はゾロもおかしいのよ」
「へ?」
サンジは足を止めて、振り返った。
「あ、そう言えばあいつ見張り番・・・」
「風が止んで船が動いてないから、私、先に見張り台に登ったの。そしたらゾロが倒れてて」
「なんだって?」
サンジは額に手を当てて天を仰ぐ仕種をした。
「ルフィだけでもビックリしてんのに、まさかマリモまで・・・」
「こっちに収容しましょうか?」
ロビンの提案にサンジは首を振って、チョッパーを呼んだ。
「とにかく、二人はうつったら大変だからラウンジに避難してて。ここをブルックに任せて俺とチョッパーが見張り台に上がるよ。幸い、チョッパーの診立てでは典型的な風邪の症状らしいから、緊急性はないようだ」
「そう」
「それじゃ、私たちはラウンジにいるわね。何かあったら言ってちょうだい」
「ありがとう」

ナミとロビンが立ち去るのを確認して、サンジは男部屋に引き返した。
「チョッパー、ゾロが見張り台で倒れているらしい。一緒に来てくれ」
「なんだって?」
「ゾロさんもですか、なんということでしょう」
ブルックは病人達の枕元に座り、甲斐甲斐しく額のタオルを交換している。
「ここは私が見ていますから、お二人は見張り台に行ってください」
うんとチョッパーが頷いて診察鞄を持った。
「頼むね、行くよサンジ」
「おう」
甲板に出れば、目の前には雲ひとつない青空が広がっていた。
こんなに天気がいいってのに、なんて日だ今日は。



チョッパーと共に見張り台に登れば、なるほどゾロが大の字に寝っ転がってゼエゼエ呻いていた。
時折渇いた咳をして、苦しそうに顔を歪める。
「ゾロ、大丈夫か?」
問い掛けに僅かに首を動かしたが、殆ど声は出ていない。
チョッパーは手早く熱を図り、心音を聞いた。
「かなり熱が高いな。喉も荒れてるし、脱水症状を起こしてるかもしれない」
サンジに鞄一式を預けると、ムクムクと大きくなってゾロを担ぎ上げた。
「一見したところ、ルフィとゾロの症状が重い。このまま医務室に運ぶよ」
「わかった」
サンジも固い面持ちで頷き、後に続いた。



「様子はどう?」
ラウンジに入ってきたブルックに気付いて、ナミが声をかける。
「はい、症状としては発熱と鼻水、それに咳ですね。普通の風邪のように見えます。今、チョッパーさんが血液検査されてますけど。医務室にはルフィさんとゾロさんがおられます、お二人が一番重傷ですので。男部屋のフランキーさんとウソップさんはサンジさんがついてられます。私、急いで食事してサンジさんと交替します」
そう説明しながら、ブルックは冷めた朝食をやっぱり美味しい〜vと叫びながら凄い勢いで食べ始めた。
「男部屋の方は私が交替するわよ、幸い今のところなんともないし。狭い船のことだから、うつるならもううつってると思うわ」
ブルックは口端にパンくずをつけながらも、恭しく首を振った。
「せめてなんの病原菌か判明するまでは、お嬢様方は近付かれない方がいいと思います。用心に越したことはありません」
「―――あら?」
ロビンが手にした新聞を広げて、動きを止めた。
「なに、どうしたの?」
「さっき届いた新聞の中にチラシが入っていたわ。この海域に配達される新聞には全部入れてくれているのね、なんて親切」
「なになに?」
ナミとブルックが揃ってロビンの手元を覗き込む。
「風来海域にてウィルス発生注意報。この海域は常時風が停滞しているため、ウィルスが蔓延している。症状としては“くしゃみ・鼻水・咳・発熱”等、感冒と同種。2〜3日の目安で自然回復。ただし、ウィルス性の罹患経験がない者は重症化するため、注意が必要・・・ですって」
「なに、ここ風邪区域だったの?」
思わず顔を見合わせたナミとブルックの背後で、ラウンジの扉が開いた。
タオルで手を拭きながら、入ってきたのはチョッパーだ。
「チョッパー、お疲れ様」
ロビンの労いの言葉に首を振って、ふうと息を吐きながらテーブルに着く。

「血液検査をしたら共通のウィルスが見つかったよ。見たこともない形だったけど、症状としては風邪に似てるみたいだ」
「そうなのよ、これ見て」
ナイスタイミングとばかりに、ナミがチョッパーの目の前にチラシを翳した。
手早く朝食を書き込みながら、チラシに書かれた文字を目で追っている。
「じゃあ、これは風土病なのかな」
「共通のウィルスならほぼ間違いないんでしょう。つまり、風邪だと判断してもいいのじゃないかしら」
「この、ウィルス性の罹患経験がない者は重症化ってどういうことかしら」
「裏を返せば、一般的に風邪とかに罹ったことのある人間にはうつらないんじゃないのか?」
チョッパーはそう言いながら、周囲を見渡した。
ピンピンしているのはナミとロビン、それにブルックにチョッパー。
「俺には人間性のウィルスは効かないし、ブルックはそもそもウィルスが侵入する経路も体内もない。ナミとロビンは一応人並みに風邪引いたりしたこと、あるよね?」
「あるわよ」
やや憤慨して応えるナミの隣で、ロビンも深く頷いている。
「それに比べて、ルフィはもとよりゾロもウソップも・・・フランキーも風邪引いたことないのかな?」
「ある意味丈夫そうよね。確か、私がケスチアで倒れた時もルフィ達は風邪一つ引いたことがないから対処法がわからないってうろたえてた気がするわ」
「風邪引いたことないって・・・どんだけー」
黙って聞いていたロビンが、ぷっと吹き出した。
「・・・なに?」
口元を手で押さえ、くっくと肩を震わせるロビンにナミが怪げんそうな視線を送る。
「ごめんなさい、ちょっと・・・不謹慎なことを思いついてしまって・・・」
「なんですか?」
ブルックが興味深そうに身を乗り出した。
「いえね。今回、風邪を引いたことない人たちばかりが、風邪引いたのよね。つまり・・・」
そこまで言って、言い難そうに言葉を止める。
その先を察して、ナミが人の悪い笑みを浮べた。
「つまり、馬鹿は風邪引かないって言うから、今回は馬鹿が引く風邪と・・・」
「そこまでは言ってないわ」
「言ったも同然じゃない!ひどいんだーロビンって」
からかいながら、ナミもつられたように笑い出した。
「そうか、それじゃしょうがないわよね。チョッパー安心して。私達には絶対うつらないわ」
「そんな根拠あるかよー」
わいわいと盛り上がっているラウンジに、サンジが顔を出した。

「ちょっと落ち着いたみたいーって・・・なに?なんか楽しそうだけど」
その場にいた全員がはたとサンジの顔に注目してから、なんとなくバツが悪そうに視線を逸らせる。
「・・・なんでサンジ君、大丈夫なのかしら」
ナミの呟きにチョッパーが噴いた。
ロビンも、ちいさく肩を震わせている。
「え、なにが?」
「いえあのう、サンジさんも過去に風邪くらい引いたことありますよね」
「え、風邪?ねえよ」
即答するサンジに、ナミ達が笑いを爆発させる。
「やっぱり!絶対、絶対ルフィとゾロが1.2を争うなら、僅差で次点はサンジ君だって思うのに・・・どうして?」
「どうしてって酷いなナミ・・・」
ぶはははと受けるチョッパーのピンクの帽子を、サンジはぱふんと叩いた。
「何言ってんだか説明しろ、オラ」
「いやいや、ごめんサンジ。サンジは生まれてこの方、病気で寝込んだことはないのかな?」
涙を拭き拭きそう聞いてくるから、サンジは火の点いていない煙草を指で挟んだままふと首を傾げた。
「確かに、物心ついてからは風邪引いたりとかしたことねえけど、遭難した時合併症引き起こして入院したことはあるぜ」
「「「「それだ!」」」」
いきなり声を合わせて指差す仲間達に驚いて、一瞬身体を引いた。
「なーんだ、じゃあやっぱりサンジ君にも免疫あるんじゃない」
「よかったなサンジ。おめでとう」
「だから何の話?」
訳がわからず焦れるサンジに、ロビンが懇切丁寧に説明した。

「―――と言うわけで、症状としては風邪とほぼ同じようだから心配はないわ」
サンジはほっとした顔で、遅れて朝食に手を付けた。
「そうか、だからルフィとゾロが重症なんだな」
「風が止む地帯でこのウィルスに感染するってのはいいことかもしれない。後々免疫ができてより強くなるみたいだし」
「航行できないってのも幸いしてるのかもしれないわね。フランキーが元気なら動力を使って脱出するところだけど、食糧も充分にあるし無理して先に進むことはないわ。ゆっくり看病に専念しましょう」
「それがよろしいかと。私も骨身を惜しまず看病させていただきます!」
原因が判れば安心とばかりに、皆一様に明るい表情で持ち場に離れた。






幸い天気は上々で、洗濯物もよく乾く。
大量の汗を掻きながら云々唸るウソップ達に点滴を施して、チョッパーはサンジに病院食の指導をした。
基本的に薬の投与はせず、自然治癒力に任せるだけだ。
熱よりも咳や喉の痛みが辛そうで、典型的な集団風邪の様相を呈していた。
「フランキーさん、お粥ができましたよ」
「・・・いつも、すまねえなあ」
ゲホゲホとむせながら、前髪の垂れたフランキーがのろのろと起き上がる。
「ああ・・・なーんも味がしねえ・・・」
とろとろのお粥を渇いた口に流し込みながら情けないため息をつく隣で、ウソップも目をショボショボさせた。
「匂いもしねエのが、こんなに味気ないなんて知らなかった・・・でもあったまるなあ」
「生姜が入ってるそうですから、きっと身体が温まりますよ。とにかく、お二人の仕事はよく寝て身体を休めることです、お大事に」
そう言って労わるブルックの顔面は、相変わらず剥き出しの骨にぽっかりと空いた眼窩。
昼日中に見ても怖気を感じさせる容貌なのに、何故だか今日は神々しくさえ映って、フランキーとウソップは自然と手を合わせ頭を垂れた。


「ああーうめえ、気がする。もっと食いてえ・・・」
「はいはい、がっつかない。ったくもう、熱がこんだけあるのに食欲だけは残ってるのね」
腕を上げる気力すらないルフィが嗄れた声でせっつくので、ナミは忙しなく大きめのスプーンでルフィの
口にお粥を運んでいた。
味も匂いもわからないと嘆きながら、その勢いは衰えを知らない。
とは言え相変わらず熱は高く、身体を起こすこともままならぬほどへろへろ状態だ。
「熱い〜だるい〜」
「ゴム、ゆっくり食え。寝たままなんだから気管にでも入ったらしんどいぞ」
サンジはその様子を呆れて眺めながら、同じように横たわるゾロに目を向けた。
こちらは対照的に物も言わず口も開かず、只管眠り続けている。
時折起きているようだが、その時も動きも喋りもしないので、傍目から見て判断がつかないのだ。
「こら万年腹巻、いい加減起きて飯を食え。食うもの食わねえと熱下がらねえぞ」
サンジの言葉に、片目だけぱちりと開けた。
なんだやっぱり、起きてやがったんじゃないか。

サンジは憮然としつつも、ゾロの背中に手を回してクッションをあてがった。
その動きを察したか、ゾロも背を撓らせるようにして自ら身体を起こそうと試みる。
だが思うように身体が動かせず、差し込まれたサンジの腕に凭れ掛かってしまった。
サンジは思わず舌打ちして、すぐさま腕を引っ込めた。
ゾロの背が、燃えるように熱かったからだ。
こんなにも熱が上がって、本当に大丈夫なのだろうか。
いくら脳みそまで筋肉と言えども、ほんとにゆで卵になってしまったら元には戻らない。
元から足らない脳みそでも、これ以上失われたらヤバいだろう人として!

内心の動揺を隠しつつ、サンジはお粥の入ったトレイを持って身を寄せた。
ゾロが難儀しながら腕を上げ、それを受け取ろうとする。
「無理すんな、食わせてやる」
「・・・いい」
一声発するのも苦しそうなのに、また舌打ちしてサンジは声を荒げた。
「いいじゃねえよ、トレイをひっくり返されでもしたら掃除すんのはこっちだぞ。余計な手間掛けさせねえで、おとなしく食ってろ」
サンジの言葉に僅かにむっとしたようだが、ゾロはそれ以上言い返さず腕を下げた。
「よし、とにかく口開けろ」
ずっと一文字に引き結ばれていた唇が、わずかに開く。
熱が高いせいで、唇は荒れて皮が剥けていた。
少し湿らそうと、先にコップの水をあてがう。

「零してもいいから、ゆっくり飲め」
タオルをあてて傾ければ、僅かずつ水が口の中に吸い込まれていく。
ほっとしたのもつかの間、ゾロは空咳をしてむせた。
口元にタオルをあて、背中を擦る。
「大丈夫か」
身体をくの字に曲げて咳き込むゾロに、サンジは背中を擦るしかできることがない。
ようやく咳が収まったのを見て、今度は粥を口に運ぶ。
むせないように慎重に、ひと匙ずつ口に運ぶ隣で、ナミがルフィに「もうおしまい」を宣言していた。

「とにかく大人しく寝てなさいよ。サンジ君、そっち代わろうか?」
「いや、いいよナミさん。こいつは任せて。熱に浮かされてナミさんの指まで食っちまったら大変だ」
「馬鹿ね、それ言うならルフィの方でしょ」
軽口を言い合ううちに、ルフィはもう寝息を立てながら眠ってしまった。
その額に浮いた汗を拭き取りながら、ナミは目を細める。
「・・・ほんとに、死ぬほどの怪我をして寝込んだ二人は見たことあるけど、こういうのは初めてね」
そう言って微笑んで、すっくと立ち上がった
「じゃあ、私ラウンジに戻るわ。何かあったらすぐに呼んでちょうだい」
「了解」

ナミが医務室から出てしまってから、サンジはゾロの口元にスプーンを運ぶのを再開させた。
顔を上気させて息をつくゾロは、飲み込むのも辛そうなのに一口一口根気よく咀嚼していく。
茶碗一杯のお粥をすべて平らげてから、ふうと息を吐いた。
「お疲れさん、よく食べたな」
空のトレイを傍らに置いて、また水の入ったコップを唇にあてがう。
先ほどより随分飲みやすそうだ。
喉が潤ったのを確認してから、背中のクッションを抜いて背中を支えながらゾロを横たえた。
汗ばんで湿ったシャツを替えようかとも思ったが、とりあえず乾いたタオルで首筋を拭ってシャツと肌の間に差し入れた。
ゾロはもう、目を閉じてぴくりとも動かない。
動脈やリンパ腺の近くに氷嚢を置いて、これ以上熱が上がらないように徐々に冷やしてやる。
相変わらず息は荒く胸も大きく上下しているが、食事をとってくれたことで少し安心した。
汗で張り付いた額を濡れタオルで拭い、髪を梳いてやる。
「・・・頑張れよ」
眠りに就いたであろうゾロにそう囁いて、サンジは暫くの間、その髪を撫でていた。




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