風待月 -6-


「・・・てなことが今日、あったんだ」

二人で卓袱台を囲みながら、サンジは今朝の出来事を余すことなく伝えた。
風太は先に夕飯を食べ終え、傍らの座布団でグウグウ眠っている。
丸い腹が呼吸に合わせて膨らんだりへこんだりするのを横目で見て、ゾロはそりゃ大変だったなと大きく頷いた。
「携帯くれりゃ、俺もすぐ帰ったのに」
「んなことできる訳ねえだろ、てめえは仕事第一だ」
暑さに負けて食が減退したサンジは、鯛の刺身の胡麻和えをサラサラとお茶漬けで流し込んだ。
何をした訳でもないのに妙に疲れた一日だったし、二日ほど寝ていないからか、さすがに身体がだるい。
「ちと考えて、首輪の穴を一つきつくしたんだ。窮屈だと可哀想だと思うんだけど」
「そうだな。成長してきつそうになって来たら、その都度緩めてやればいい」
ゾロは無造作に寝ている風太の顎下に指を入れ、首輪のきつさを確認してみた。
何をされても寝ている風太はピクリともしない。
飼い主に似て図太いのか。
「・・・つか、こいつお前似だよな」
「は?」
冷えた発泡酒を呷りながら、ゾロは心外そうに片眉を上げてみせた。
「なんで俺だ」
「言うだろ、飼い主に似るって」
「飼い主はお前だろうが」
サンジは不満そうに、口先を尖らせた。
「俺に似てねえし。こいつはなんせ図太いし迷子だし人に心配かけてもケロっとしてるし、そのクセ無駄に可愛いから叱れやしねえ」
「・・・・・・」
ゾロは反論したかった。
ものすごく言いたかったが、うまく伝えられそうな言葉が見付からなくて、結局沈黙を通した。
無駄に可愛いってお前のことじゃねえの?とだけ、胸の中で呟いてみる。

「帰ってきたら、ゾロからも叱って貰おうと思ってたのに」
とっとと寝やがって、と風太の丸い頭をそっと指で撫でる。
「今頃俺が叱ったって意味ねえだろうが。むしろ、なんで叱られたのかわからなくて風太が混乱する」
「勝手に逃げちゃダメって、言えばいいんじゃね?」
「・・・多分、通じねえぞそれ」
真面目な顔で答えるサンジに、ゾロは喉の奥からこみ上げた笑いを飲み込んだ。
「悪いことしでかした時にその場で叱らないと、人間の子どもでも意味わかんねえからな。とは言え、今回みたいに逃げ出したとこを捕まえて叱ったとしても、風太には理解できないだろうなあ」
風太本人に悪気?はなく、暢気にお散歩(もしくは冒険)していただけなのだ。
捕まってむやみやたらと叱られたら、人間を怖いと思ってしまうかもしれない。
「・・・難しいな」
しょげてしまったサンジの髪を、掻き混ぜるようにして撫でた。
「けど、お前の必死さは伝わったと思うぜ。お前に見つけてもらって、風太も嬉しそうだっただろうが。これから、自分の名前が風太だと理解して、お前の後ばかりくっ付いて回るようになるんだ。今だってそうだが」
「・・・そうかな」
「その内、どっか行けっつっても離れないくらい懐くぜ」
「そうか、な」
ゾロの胸に頭突きするように乱暴に顔を伏せて、サンジは小さく呟いた。
耳元から手を伸ばして顎を掬い、顔を上げさせる。
「大丈夫だ、そうしょげるな」
「・・・しょげてなんか・・・」
言いながら、下がった眉毛をそのままに拗ねたように唇を尖らせる。
その先に触れようとして、目の端で茶色いものがパタパタはためいているのに気付いた。

「・・・・・」
「ばっ!」
目の前に迫ったゾロをほぼ条件反射的に蹴り飛ばし、サンジは座布団の上で跳ねてその場で正座した。
「ふ、風太!起きたのか」
いつの間にかサンジの足元にちょこんと座っていた風太は、「なにしてるの?」と問いたげに首を傾けて見つめている。
舌を出した様があどけない笑顔に見えて、千切れんばかりに振られる尻尾がサンジを後ろめたい気持ちにさせた。
「よしよし風太、おっきしたんだな。一緒に遊ぶか、タオルでさっぱりするか〜」
「・・・てめえ」
部屋の端まで蹴り飛ばされて壁にさかさま状態で止まったゾロが恨めしげな声を上げたが、サンジは知らん顔していた。





夕べも一昨日もろくに寝ていないサンジを気遣って、早めに夕食を済ませ早めに風呂にも入り、布団まで敷いてばっちり準備を整えたのに、当のサンジは相変わらず風太に夢中で縁側から離れようとしない。
これは一体どうしたものかとゾロは一計を案じ、風太と戯れるサンジの元に冷えた梅酒セットを運んだ。
「去年貰ったもんだが、軽く一杯やらねえか?」
「お、いいね」
梅酒のフルーティな味はサンジも気に入っていて、ようやくゾロの方へと振り返ってくれる。
夕方に少し寝たとはいえ、サンジとボール投げをして遊んで軽くシャワーを浴びた風太は、足元にうずくまってフヨフヨと首を振り始めていた。
「朝方、雨が降るかもしれんからちゃんと犬小屋に入れとけ」
「うん」
今夜はやけに素直に、力が抜けた風太を犬小屋へと運んでいく。
「・・・大人しいな」
「実は、秘密兵器があるんだ」
ふふふとどこか得意げな面持ちで戻ってくる。
風太は大人しく犬小屋の中に入り、中でモゾモゾと動いていた。
「風太を探しに徳さんちに行った時貰ったんだ。ベルちゃんの匂いが付いたタオル」
「ああ」
「それを犬小屋に入れておいたから、多分今日の風太はよく眠れるぞ」
なら、お前もよく眠れるだろうな。
ゾロは単純にそう思い、よかったなと相槌を打つ。

切子ガラスに氷を入れて、梅酒を注いだ。
まろやかな液体の中でカラリと音を立てる氷が、なんとも涼しげだ。
「今日は本当に、みんなに助けてもらったな」
しみじみと呟くサンジに、ゾロは大袈裟だなと笑い返す。
「さほど大事にならない内に見付かったじゃねえか。お前のことだから、携帯で連絡網張って総動員になるかと思ったんだが」
「いざとなったらそうしようと、実は思ってた」
冗談ではなく真顔で頷いている。
「けど本当に、肝が冷えたんだ。風太の姿が見えなくなった時、もうどうしようかと思った」
パニックだったと自嘲しながら、梅酒を口に含み目を細める。
「見付かって、よかったな」
ゾロにしてみれば、そうとしか言えない。
サンジの恐慌は容易に想像できるし、自分がその場にいたらなにかできたことがあったかもしれないが、すべて終わった後の報告でしかない。
結果的には一時の行方不明だけで事なきを得たが、もし見付からなかったら今こうしてゆっくり夕飯を食べたり晩酌したりなんてこともできなかっただろう。
目に入れても痛くないほど愛しい存在を得たことで、心配事が増えたのもまた事実だ。

「本当に、よかった・・・」
サンジはしみじみと呟いて、卓袱台に肘を着き調子よく梅酒を呷る。
疲れた身体に酔いが回ったか、早くもいい感じに身体が傾いてきた。
「この先もさ、こういうことってあると思うんだ。散歩してて暴走して車に跳ねられたりとか、足滑らせて川に落ちたりとか、可愛すぎて誰かにさらわれるとか」
「いや、多分それら全部ナイ」
「んなこと、わかんねえだろ」
ムッとして言い返され、ゾロは黙って頷いた。
基本、酔っ払いに逆らってはいけない。

「正直、俺ちょっと怖くなった」
酔いが回ったサンジは常にも増して饒舌で、ほんの少し素直になる。
本音が垣間見えるから、酔っ払いに付き合うのもゾロはそう嫌ではない。
「風太が可愛過ぎて大事過ぎて、どうしようとか本気で思う。だってこんなに小さいんだ。その気になれば片手でキュっと捻り殺せるくらい小さいんだ。こんなにか弱い生きもの、どうしたらいいかわからない」
サンジはグラスを握ったまま、もう片方の手を額に当てた。
酔いで潤んだだけとは思えないほど、瞳に涙が浮かんでいる。
「もし風太に何かあったら。知らない内にいなくなって、二度と見付からなかったら。車に跳ねられて死んでしまったら。こんなに可愛いのに冷たくなって動かなくなってしまったら・・・俺、どうしたらいい?」
ゾロは答えず、梅酒が入ったグラスを口に運ぶ。

犬を飼うとしてもいつまでも小さいままではないし、不慮の事故や病気で死んでしまうこともある。
それはもう何回も、飼う前にお互いに確認し合ったことだ。
可愛がって情が移れば、失った時に受けるショックの大きさは計り知れない。
前もって分かっていたことだからこそ、いつそうなっても大丈夫なように心積もりだけはしておくと、自分自身に言い聞かせるように何度も口にしていたのはサンジの方だった。
だからこそ、今更そんな弱音など吐けないとわかっているのに、言わずにいられないのだろう。
酔いが手助けしているとは言え、こうして素直に本音を吐露してくれるサンジを愛しいとゾロは思う。
だから「今更何言ってやがる」なんて、憎まれ口は叩かない。
ただ黙って聞いて頷いてやるのみだ。

「風太にもしものことがあったらって、思っただけでこの辺りがきゅ〜っとなる。気持ち悪い、すごく嫌な気分だ。考えないでおこうって思うのに、次から次へと色んなことが頭に浮かんできて消えてくれない」
語っている内に、サンジの顔は蒼白になってきた。
いつもは酔いで火照る筈の桜色の頬が、みるみるうちに血の気を失って行く。
「どうしよう、わかってるんだ。俺が馬鹿なこと言ってるってわかってる。心配したってどうにもならないって、どんなに可愛がっていても大切でも愛してても、失う時は一瞬だって。大好きだからいつまでも傍にいたいって望んだって無理だって、わかってるのに・・・」
ひゅっとサンジの喉が鳴った。
ゾロはサンジの背中に掌を当て、寄り添うように肩を近付けた。
「風太がまた脱走したら、探せばいい」
サンジの視線は中空に浮いたままだ。
ゾロは舌で唇を湿らせ、言葉を続けた。
「首輪を一つ、きつめにしただろ。これでもう首輪抜けはできねえ。もしなんらかのアクシデントで鎖から外れても、探せばいい。まだ小さいからそう遠くへはいかない。俺達より先に、お隣さんが見付けてくれる。大きくなったら、例え鎖が外れても無闇に逃げたりしない」
サンジの瞳が瞬きながらゆっくりと動いた。
目尻に溜まっていた涙が、青白い頬の上をすうと滑り落ちる。
「家の前は農道だし、国道までかなり距離がある。通行量はほとんどない。もし車が通りかかっても見通しはいいから小さい毛玉一匹くらい避けられる。散歩に出る時は、しっかり引き綱を持ってればいい。離さないで、遠くまでいかないように調節して、リードすればいい」
溢れ落ちる拭うこともせず、サンジはぎこちない動きで少しずつゾロの方へと首を傾けた。
「用水路に滑り落ちるなんてこともない。なぜなら風太は四ツ足だ。重心が下にあるし二本足より安定してる。バランスを崩して転がることなんてない」
サンジの瞳がゾロの顔へと向けられる。
至近距離で少しずつ、焦点が合ってきた。
「可愛いから連れ去られる心配ってんなら、風太よりてめえのが心配だ。んなツラしてウロチョロしてっとヤバいから、風太よりてめえに紐付けて括っときてえ」
言いながら、涙に濡れた目元にそっと唇を付けた。
反射的に目を閉じて首を竦め、真一文字に引き結んでいた口元に柔らかさが戻る。
「・・・バカか」
「おう、俺はてめえバカ」
お前は「風太バカ」なと言って、肩を抱き寄せた。
ゾロの肩にこてんと頭を預け、酒臭い息を吐く。
「違うよ、俺はゾロバカだ」
「バカばっかかよ」
そうそうと小さな声で囁き合い、お互いに忍び笑いを漏らした。

「俺な、一番心配だったのはゾロだったんだ」
「・・・は?」
ゾロは笑い顔のまま、固まった。
「風太がいなくなって、もしこのまま見付からなかったらゾロになんて言おうって、そればかり考えてた」
懺悔するように、思いつめた顔付きで告白する。
「ゾロは風太を可愛がってたのに、二人で育てて行こうって言ってくれてたのに、風太がいなくなっちまったらどんだけ悲しむだろうって、そう思ったらすごく辛くなった」
「・・・俺が、か?」
小さく頷くサンジに、ゾロは愕然とした。
まさか自分の落胆ぶりを心配されていたとは、思いもしなかった。
かと言って「そんなにガッカリしないぞ」とでも言おうものなら「風太が可愛くないのか」と取られかねないから、迂闊にはフォローできない。
こりゃ参ったなと頭を掻きつつ、少し納得もできるゾロだった。

例えばゾロが留守番のときに風太が逃げたら、やはり同じように思うだろう。
あれほど可愛がっていたサンジがどんなにショックを受けるかと、想像しただけで胸が締め付けられる。
同じことなのだ。

「風太がいなくなることも勿論辛いが、そのことで悲しむお前を見るのも辛い」
ゾロがそう口にすると、サンジはきょとんとした顔で首をめぐらした。
「それって、俺が・・・」
「俺もだ、お互いにだ」
サンジの頬に唇を付けながら、ゾロはそっと囁いた。
「風太以上にお前が愛しい。それは許せ」
「―――・・・」
何か言おうとして口を開きながら、声に出せずサンジはきゅっと唇を結んだ。
いつの間にか頬に赤みが戻っていて、濡れた睫毛は落ち着きなく瞬いている。
その横顔にキスを落としながら唇をずらす。
それに呼応するようにサンジはおずおずと首を傾け、唇でキスを受け止めた。
濡れた舌がしっとりと絡み、呼吸が混じり合う。
サンジの背中を片手で受け止めながら、ゾロはゆっくりと方向を変えて布団の上に横たわらせた。
反対側の腕で音がせぬよう窓ガラスを閉め、縁側から極力離れようとする。

―――と
突然がばりとサンジが身体を起こした。
「どうした」
思わぬ動きに僅かに仰け反ったゾロの胸を押し、じっと聞き耳を立てる。
「風太が鳴いてる」
「・・・は?」
一緒に耳を澄ますと、なるほどかすかにだが甘えるような鳴き声が外から聞こえてきた。

キュイ〜ン
クゥ〜ン
キュン・・・

「風太」
サンジは敷かれた布団の方向を変え、窓辺に頭が行くようにして閉めたばかりの窓をそっと開けた。
「風太、ここにいるぞ」
キュイン
「大丈夫、どこにも行かないからな」
・・・クゥン
「ゆっくりおやすみ」
キュウ〜ン

決して吠え立てないが鼻から抜けるような音で甘えた声を出し続ける風太に、サンジは根気よく相槌を打ち続けた。
結局その夜もゾロの方が根負けして、いつの間にか寝てしまった。




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