風待月 -5-


地面にポツンと残された、まだ真新しい赤い首輪。
それを目にした瞬間、サンジから血の気が引いた。
「ふう、た?」
風太、風太・・・風太がいない。

「風太、風太!」
踵を返して駆け出しかけ、足を止める。
どこに行ったらいいのかわからない。
もしかしたら近くにいるのかもしれないし、随分前から離れていてかなり遠くへ行ってしまったのかもしれない。
遠くへ―――
一体、どこへ?

「風太、どこだ?」
手始めに家の周りを探した。
生垣の中、縁の下、普段は開かずの間になっていてサンジが決して立ち入らない納屋の奥。
犬走りをぐるりと回り、すぐ横を流れる川を目にしてぞっとした。
もし、流されていたら―――
「風太!」
気になったら確かめずにはいられなくて、草丈が伸びた土手を滑りながら駆け下りた。
夜の内に雨が降ったのか、ぬかるんで足が取られる。
尻餅をついて泥が着くのも構わず、サンジは川の流れに添って風太の名を呼びながら下流へと向かった。
「風太、風太、どこだ!」
お隣さんとの境の橋げたにまで辿り着き、これ以上は無理と土手を上がった。
今度は家の前の川戸が気になり出す。
狭くて小さな用水路だが、水の流れは結構きつい。
風太のような仔犬がもし落ちてしまったら、容易く流されてしまうだろう。
あんな狭い用水路の中を流されたら途中で詰まって溺れてしまうか、大川に流れ出てもそのまま飲み込まれてやっぱり溺れてしまう。
苦しむ風太の姿が頭に浮かんで、サンジはもういてもたってもいられなくなってしまった。
「風太!」
側溝の上を叫びながら走る。
少しの音でも聞き漏らすまいと耳を欹てながら、気はあちこちと急いて定まらなかった。
もし道に出て、車に跳ねられていたら。
山に迷い込んで帰ってこられなくなったら。
線路まで出て電車に跳ねられでもしたら。
悪い予感が次から次へと沸いて出て、気ばかりが焦る。

闇雲に周囲を見渡し、はっとして動きを止めた。
「徳さん、ち?」
あり得ると、思い出したらまたしてもじっとしていられない。
サンジは玄関まで帰って自転車に飛び乗ると、徳さんちに目掛けて一目散に漕ぎ出した。



きっとそうだ、そうに違いない。
風太はお母さんが恋しくて、会いに帰ったんだ。
きっとベルちゃんの犬小屋の中で、暢気に寝てるに違いない。
背後で誰かが自分の名前を呼んだ気がしたが、それどころではないサンジはひたすらに自転車を漕いで徳さんちに向かった。

途中、風太らしき仔犬の姿を見かけないかと、キョロキョロしながら農道を走った。
車が来たら止めて聞いてみようと思うのに、こういう時に限って一台も擦れ違わない。
まだ朝10時。
中途半端な時間が災いしてか、目撃証言は得られそうになかった。
「ふーたー!」
そんなつもりじゃなかったのに「風太」の名前は呼びやすい。
思い切り口を大きく開けて、声の限りに叫んでみる。
いつもは誰か彼かが田んぼや畑で作業しているのに、なぜか今日は人っ子一人見当たらない。
吹き抜ける風だけが、サンジを慰めるみたいに耳元で渦巻いて通り過ぎるだけだ。
「風太・・・」
農道の端に生い茂った緑や乾いたアスファルトの色に、風太の茶色の毛並みは馴染んであまり目立たないように思った。
白い色だったらもしかしたら、もっと簡単に見つけることができたかもしれないのに。
どこを向いても風太はいない。
キャンとも声が聞こえない。
胸を張り、どこか誇らしげにトテトテと歩く姿が見えない。
「・・・風太」
視界が滲んで来た頃、徳さんちに着いた。

「風太、来てませんか?」
いつもなら門で草むしりをしている筈のおばあちゃんも姿がなくて、誰にともなく叫びながらベルの犬小屋へと走った。
熱いのか日陰にだらりと横になっているベルが、ひょいと頭だけ擡げる。
その背中にもお腹にもお尻にもどこにも、風太の姿はない。
「ベルちゃん、風太は?」
勢い込んでそう聞いたら、ベルは迷惑そうに眉?を顰めながらそっぽを向いた。
「風太、風太?」
犬小屋の中を覗き、徳さんちの家の周りをグルグル回るも、風太は見付からなかった。
―――ここに居なかったら、どこにいるってんだ。
もはや絶望的な気分になって、サンジはその場で崩れ落ちそうになる。

悲愴な声を聞きつけたか、徳さんが不自由な方の手を縮込ませたままサッシを開けて顔を出した。
「どうした?」
「あ、徳さん!」
サンジは駆け寄ろうとして、申し訳なさに足を止める。
「徳さんすみません!風太が、いなくなっちゃって・・・」
「ああ、家出か?」
徳さんは暢気に笑いながら、よっこいしょと縁側から外に出ようとする。
「こっちには、来てねえよ」
「そうですか」
すみません、と項垂れながら踵を返す。
「こっちで見かけたら、連絡すっから」
「はい、よろしくお願いします」
もうちょっと探してみますと言い置いて、サンジは駆けながら自転車に飛び乗りダッシュで走らせる。

徳さんちにもいないとなると、もうどこを探していいかわからない。
仔犬の足だからそう遠くへは行っていないと思うのに、いつからいなかったのかわからないから、逃げて10分なのか30分なのか、実は近くにいるのか―――
「・・・どうしよう」
キコキコと自転車を漕ぎながら、サンジの脳内はぐるぐると回っていた。
一体どこを探せばいい。
風太はどこにいる。
誰に聞けば。

―――ゾロ
一瞬、ゾロに電話しようかとの考えが頭を過ぎったが、すぐに思い直した。
ゾロは仕事中だ。
携帯を鳴らしたって気付かないだろうし、仕事の邪魔をしたくはない。
なにより、ゾロに「風太がいなくなった」って言いたくない。
どうしよう、言いたくない。
ゾロは、風太が可愛いって言っていたのに。
二人で育てて行こうって言ってくれたのに。
なのに風太を逃がしてしまった。
俺の、せいだ―――

汗が流れ落ちて目に沁みる。
じわりと視界が滲んで、瞬きと一緒にポタポタと頬を雫が流れ落ちた。
べたべたになった腕で目元を拭っても、濡れた感じはなくならない。
髪が額に張り付いて、気持ちが悪い。
「ふーた・・・」
奥歯を噛み締め、上がる息を殺しながらサンジは自転車を漕ぎ続けた。

お隣さんの家の前を通りかかると、表で待っていたらしいおばちゃんがその場でピョンピョン跳ねながら手を振っているのが見えた。
「サンちゃぁん」
「あ、こんにちは」
大汗を掻きながら必死の形相で頭を下げるサンジに、おばちゃんはいつもと代わらぬ朗らかな笑みを返した。
「さっき呼んだのよぉ。探し物はこれじゃぁない?」
そう言っておばちゃんがヒョイと掲げた片手には、茶色い塊が・・・
「ふーたぁーっ!!」
サンジは絶叫しながら自転車ごとお隣の生垣に突っ込んだ。





「風太・・・くうう風太―もおおおぉふうたー!」
汗だかなんだかわからないもので顔中グシャグシャにして、サンジは風太を抱きしめて頬ずりした。
意味がまったくわかっていないのか、風太はハッハと息をしながら小さな尻尾をピコピコ振っている。
「いえねえ、お洗濯干してたら足元に茶色い毛玉みたいなのがぁ寄ってくるから、あら?と思って。首輪してないし、けどこんな小さな野良犬もいないだろうしぃね」
おばちゃんはタオルと冷たい麦茶を持ってきてくれ、まずは落ち着いてと縁側に座を勧める。
「そう言えば昨夜は犬の鳴き声がしてたぁねと思い出して、サンちゃんちでねえのって」
「あ、昨夜はお騒がせしてすみませんでした」
タオルで顔を拭うと格段にさっぱりした。
気が付けば喉がカラカラで、冷たい麦茶が身体全体に染み通る。
一息吐いてから、改めてお詫びとお礼を言った。
「いいのぉよ。鳴き声は風向きでほとんど聞こえなかったしぃ。それより、こんな可愛いワンちゃん、飼うことにしたのぉ」
「はい、風太と言います」
散々聞こえていただろうに、おばちゃんは「いい名前だね」と風太を撫でてくれた。
「なかなか肝が据わってて、いい子だぁわ。大物になるよ」
「はあ・・・」
サンジの手の上でごろんとひっくり返り、風太は大欠伸だ。
こっちが血相変えて探していたと言うのになんて暢気モノだろう。
「こら風太、もう黙っていなくなったりしたら、ダメだぞ」
目線まで抱え上げて、めっと叱る。
勿論風太は意味などわからず、きょとんとした目で見つめ首を傾げて見せた。
なんとも言えない可愛い仕種に、サンジの表情はとろんと緩んでしまう。
「ああもう、風太。本当に、本当に心配したんだから!」
「わかる、わかるよぉ」
おばちゃんだけが情け深く頷いて、冷たい麦茶をずずっと啜った。



「どうもありがとうございました」
深々と礼をして家に戻るサンジに、おばちゃんはまたねと可愛らしく手を振った。
「またどこかウロウロしてるの見つけたら、ちゃんと保護してあげるからぁ」
「すみません、よろしくお願いします」
お隣のおばちゃんにお願いすると、なんだか安心感が違う。
サンジはほっと肩の力が抜けて、風太を前カゴに積んだままトボトボと家に戻ろうとした。
はっと気付いて足を止める。
―――徳さんに、見付かりましたって連絡していない。
「そうだ、徳さんち」
自転車の前カゴごとぐるんと方向を変え、再びお隣の前を通って徳さんちを目指す。
風を切って農道を進む自転車の前カゴの中で、風太は前足をカゴに乗せて気持ちよさそうに前を向いていた。


「すみませんー」
今度は軒先におばあさんがいて、あれあれと声を出しながら立ち上がった。
「見付かったの」
「はい、お陰様で」
暑い中を何度も往復して息が切れる。
それでも嬉しさが勝っていて、サンジは全快の笑顔で風太を抱き上げて見せた。
「ご心配お掛けしました、ありがとうございました」
「ああ、よかったねえ」
遠くで吠え声がして、ベルが立ち上がり尻尾を振っているのが見えた。
「お母さんに、挨拶して来るか?」
風太に問い掛けると言葉がわかりでもしたかのように、サンジの手の甲に小さな尻尾がピシパシ当たる。
ベルの前に置いてやれば、久しぶりの再会を喜ぶようにお互いの匂いを嗅ぎ逢っていた。

「おう、見付かったか」
窓越しに徳さんを見付け、そのまま駆け寄る。
「すみませんでした」
深々と頭を下げれば、よかったなあと徳さんは片足を引き摺りながら窓から顔を出した。
「首輪が緩かったんか?」
「そうみたいです、鎖に首輪だけ付いたまま残ってて」
「小さいからきつくするのは可哀想だけんど、なんせ小さいからすぐ抜けるわな』
そう言いながら、徳さんは窓の下においてあった汚いボロ布をサンジに差し出した。
「これ、チビがベルと一緒に寝てた時のタオルだ。匂いが付いてっから臭いだろうけど、チビにやるといい」
「あ、ありがとうございます」
いかにも臭そうなので、サンジは心持ち息を止めて受け取った。
「犬小屋にでも敷いてやれ、落ち着くだろ」
「ありがとうございます」
前カゴに入れて、風太を迎えにベルの犬小屋まで戻った。
ベルはなにごとか察したらしく、警戒するようにサンジを見て後ずさる。
その足元に纏わり着いている風太を抱き上げると、サンジに向かって吼え始めた。
「ごめんなベルちゃん。また遊びに来るから」
昨日と同じように、風太は母犬から引き離されると言うのに知らん顔だ。
これで風太まで後を追うように鳴かれたら、サンジは到底この家から連れ出せないだろうからありがたい。
「よし、風太帰るぞ」
前カゴに乗せてやると、風太は先に置かれたタオルの匂いをフンフンと嗅いで、その上に腰を下ろした。

来た時と同じように風を切りながら、農道を疾走する。
さて、今日のできごとをゾロにどう話そうか。
一瞬黙っていようかとも思ったが、お隣のおばちゃんにも世話になっているし徳さんも知っている。
いずれバレると思い直し、一瞬でもゾロに内緒にしようかと思った自分を恥じた。

「ゾロからうんと、叱ってもらうからな」
そう話し掛けても、風太はシャンと背筋を伸ばして前を向いたきりだった。




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