風待月 -2-


小一時間ほどで仔犬は目を覚ました。
唐突に目を開けると、寝惚けた様子もなくぐるんと身体を捻って起き上がる。
仔犬を起こさないようにと、ずっと同じ姿勢でひたすら見入っていたサンジが「お」と弾んだ声を出した。
「起きたか風太、よしよしいい子だなあ」
サンジの手の中で目を細めしばらく大人しく撫でられていたが、後足でポンと蹴るようにして膝から飛び降り、台所へと駆けて行った。
廊下に爪が当たるのか、小さく「トテトテ」と音がする。
飽きずに仔犬の寝顔を眺め続けているサンジにさっさと見切りを付け、昼食の準備をしていたゾロの足元に纏わり付いた。
ゾロも「お」と声に出して、スリッパを履かない裸足の足を心持ち上げる。
「台所は危ねえぞ」
サンジに言ったのか風太に言ったのか、ゾロ自身が判然とせずフライパンと皿を両手に持って方向転換した。
「飯できたぞ、こいつなんとかしろ」
「あー、風太危ないぞ。熱い熱い、な」
台所はダメーと言いながら、縁側へと抱いて戻る。



「これが風太のごはん入れ。一緒にお昼食べような」
徳さんちで食べていたのと同じ種類のドッグフードを用意して、真新しい黄色い犬皿を取り出した。
ふんふんと匂いをかぐ風太の、小さな尻尾がピコピコ揺れるのがたまらない。
「えーと、お前どんだけ食ってたのかなあ」
ドッグフードの種類は聞いたが、量まできちんと聞かなかった。
仔犬ってどれくらい食べるんだろう。
「犬は、あんまり食わせると馬鹿になるって言うぞ」
「なんだとコラ、失礼な!」
憤慨して反論するサンジに、ゾロは首を捻りながら食卓の準備をしている。
「俺の近所で飼ってた犬は、日に2回しか食ってなかったけどなあ」
「え、そうなのか?」
言いながら、サンジは改めてドッグフードのパッケージに目を落とした。
「あ、成犬は1日2回だって。2ヶ月だと・・・こんくらいか」
封を開けて出しかけて、ふと手を止める。
窺うようにそっとゾロの方を向いた。
ゾロも、おかずをよそう手を止めてじっとサンジを見返している。
「風太の食事場所・・・ここでもいい、よ、な?」
「ダメだ」
きっぱり。

「えー」
「外で飼うって決めたよな。これから風太が過ごす場所は犬小屋なんだから、犬小屋の近くで食わせろ」
「だってよ、こんな小さいんだからまだいいじゃねえか。あんな遠いとこで、一人でなんて」
「遠くねえ」
犬小屋は、縁側から目と鼻の先だ。
それでもサンジは眉毛を情けなく下げて、恨みがましい目付きでゾロを見上げている。
「俺達だけここで食って、風太は地べたで一人寂しくドッグフードかよ」
「ずっと傍にいられる訳じゃねえんだから。今週だって金曜になりゃあ、風太は留守番で家を空けるだろうが」
そう言われると反論できない。
店には、犬を連れてはいけない。
「小さいからってなんでも許してっと、混乱するのは風太の方だ。最初からちゃんとしてやるのは風太のためだぞ」
ゾロのもっともな意見に、サンジはしおしおと項垂れた。
あんまりションボリとしているから、つい仏心が出そうになる。
ゾロのそれは風太が可愛いからではなく、萎れたサンジが可愛いからだが。

「わかった」
サンジは項垂れたまま、縁石のサンダルを履いた。
「風太、おいで」
まだ自分の名前が“風太”だと認識していないだろうに、サンジに呼ばれてその掌にすっぽり治まる。
「一緒にごはん食べような」
「おいおいおい」
まさか風太に合わせて、自分が犬小屋の隣で飯を食う気だろうか。
ゾロの心配を他所に、サンジは犬皿と風太を持って犬小屋の前にしゃがんだ。
「はい、お昼ごはんだぞ」
言いながらドッグフードを掌に乗せ、風太の口元に持っていってやる。
風太は餌の匂いよりもサンジの手の匂いに興味があるのか、手首や肘辺りにまで鼻先をくっつけてクンクンと嗅ぎまくり、小さく舌を出して舐めた。
「こら、餌はここだっての。くすぐってえ」
ゾロは黙々と昼食の支度をするも、内心は少々、面白くない。

「徳さんちで食べてたのと同じだろ?はい、ごはん」
とことんサンジの手の匂いを嗅ぎまわった後、風太は口を開けてそっと掌に乗せられた柔らかいドッグフードを食べた。
顔全体を振るようにして噛んで、掌をぺろりと舐める。
「よしよし、次な」
犬皿から少しずつ取っては、風太に食べさせる。
残っているドッグフードも手で掻き混ぜて、サンジの手の匂いをつけてから犬皿ごと風太に差し出した。
首を下げて旺盛な食欲を見せる風太の背中をそっと撫でてやる。
「よーしいい子だ。たくさん食べろよ」
皿の縁まで綺麗に舐めて、自分の鼻先もぺろりと舐めながら風太は顔を上げた。
「お腹一杯になったか?足らなかったら言えよ」
言わねえよ、と心中で突っ込みながらゾロは卓袱台に箸を揃えた。
「飯ができたぞ」
「おう、ありがとう」
食事を終えた風太を縁側に乗せて、サンジも家に上がり手を洗いに洗面所へと向かう。

トテトテと足音を立てながらサンジの後を付いて回る風太を足で構いながら、卓袱台の前に座った。
「美味そうだな、いただきます!」
「いただきます」
風太は胡坐を掻いたサンジの後ろでしばらくウロウロしていたが、畳や座布団の匂いを嗅ぎながら部屋の中を歩き出した。
興味が逸れている内にと、食事に専念する。
「これほうれん草か?」
「おう、豚肉とほうれん草を適当に炒めて、卵かけた」
「すっげ美味い」
ご飯を大盛りでお代わりしながら、サンジの元に戻ってきた風太に「め」と顔を近付けて見せる。
「これは俺らの飯、風太はご馳走様しただろ」
サンジの膝に前足を掛けて見上げる、ツンとした鼻先がなんとも可愛らしくいじましい。
小さな尻尾はずっと振りっぱなしだ。
「すっかり懐いたな」
「一目会った時から、相性よかったもんな」
いつからだったか、サンジがベルの元に顔を見せる度に一番に飛び付いて来たのが風太だった。
多分、風太だったと思う。

「耳の形とか顔付きとか、同じ毛色の兄妹でもちょっとずつ違うもんよ。俺が見間違う訳ねえっての」
風太の兄妹は茶色と白との2種類に別れていて、茶色でも3匹はいた。
それでも最初から懐いていたのは風太だったと、なぜかしらサンジは自信を持っている。
「嬉しいか風太、俺も嬉しいぞ。お前に会えて」
もぐもぐ食べながら、風太の顎に手を当ててやや乱暴に撫ぜてやる。
風太はまるで猫のように目を細め、サンジの膝の上でごろんと仰向きになった。

シャツの裾でしばらく遊ばせておいて、さっさと昼食を食べ終えたサンジは片付けは俺がするよと率先して立ち上がった。
「そん代わり、こいつのお守り頼む」
言いながら、風太をゾロの膝の上に移す。
ぴょこんと起き上がってサンジを追い掛けるべく膝から降りようとするから、ゾロは両手で風太の胴を掴んだ。
丸くて柔らかくて実に温かい。
呼吸に合わせてはっはと忙しなく揺れている。
持ち上げられて手足をバタ付かせていたが、その内ピンと尻尾を立てた。
「お」と気付いてまた縁側へと片手を差し伸べる。
危ういところで放出。
まったく油断のならない犬だ。

「いい加減、お前の便所はここだって決めねえといけねえな」
散歩が日常化したら、敷地内ではしなくなるだろう。
そう思いつつ、風太の身体や足を雑巾で拭いて、離すとどこに行くかわからないから取り敢えず腹の上に乗せた。
きょろきょろと首を巡らしてサンジの行方を捜す素振りをしながら、小さな口をくわあと開けて欠伸をする。
「お前、もう寝ろ」
ゾロの声を無視して、風太は苦労してゾロの腹の上から降り、サンジの元へと近付こうとする。
投げ出していた足を風太の前に置けば、風太は律儀にその障害物によじ登った。
ようやく降り立った時に、もう片方の足が置かれる。
それもまたよじ登っている間に、ゾロは身体を反転させて次の足の準備をした。
「遊んでくれてんのか」
正確には風太の邪魔をしているだけなのだが、それが遊びになるなら一石二鳥と言うものだ。
しばらく障害物競走?続けていたら、風太は観念したのかゾロの足の上にぺたんと腹這いになった。
はっはと忙しなく息を吐いている。
前足に手を掛けて引き上げ、腹巻の上に置いてやると、大人しく顎を乗せた。
暑くも寒くもないが、布団を掛けてやる代わりに腹巻の中に風太を入れて、頭まですっぽりと包んでやる。
狭い場所で安心するのか、風太はそのまま目を閉じてしまった。



「ありがとうなー」
片付けを終えて手を拭きながら振り向くと、縁側に大の字になって眠るゾロがいた。
あれ、風太は?と一瞬ヒヤッとして、それから緑の腹巻が不自然に盛り上がっていることに気付く。
「いくらゾロでも昼間っからそんな・・・」
不埒なことを考えつつそうっと忍び足で近付いて、ぷっと噴き出しそうになった。
安らかに昼寝するゾロと、その腹の上でクウクウ眠る風太。
腹巻の中だなんて、どんだけ寝心地いい場所見付けたんだ。
サンジは携帯を取り出して、起こさないように足音を忍ばせつつ微笑ましい光景を写メった。
後でナミさんに送ってやろう。

ニマニマしながら保存して、さてとばかりにサンジも畳に寝転がった。
今朝は早起きしたからなんだか眠い。
と言うか、昨夜はウキウキしてあまり眠れなかったから相当眠い。
ちらりと隣に眠るゾロと風太を見る。
ゾロは寝相が悪くはないから、風太を腹の中に入れたままごろんと転がったりなんかしないだろう。
そう思うのに、なんだか心配で全然眠れなかった。

ゾロも風太もピクリとも動かないでよく眠っているのに、サンジはその傍らに寝そべりながらなぜか目が冴えて、じっと眺めているしかできなかった。



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