風待月 -1-


入梅宣言した途端、晴れの日が続いている。
天気ってのは天邪鬼なものなのか、一度ナミさんに聞いてみたいなと笑いながら、サンジはスキップでもしそうな足取りでゾロの先を歩いた。

今日はレストランも和々も定休日の月曜日。
本来ならゆっくりと朝寝坊でもしてダラダラ過ごせる貴重な休日だが、今日は違う。
朝から、正確には昨夜からいそいそと慌ただしく動き回っていたサンジは夜が明ける前に起き出して、何をするでもないのに部屋と庭先の間を往復していた。
実に落ち着きがない。
あんまりバタバタと気忙しいから、結局ゾロもいつもより早起きしてしまった休日だった。

「まだちいと時間早えかな、朝から悪いかな」
自分で朝早く起き出していて、今更携帯で時間を確認しながらそんなことを言う。
「徳さんちも普通に朝は早いから大丈夫だ。つか、世間では平日の月曜日なんだから、どうってことねえ」
「ああそうか、そうだな」
歩きながらも携帯を仕舞ったり取り出したり、煙草を咥え直したりやたらと髪を掻き上げたりと、落ち着かないことこの上ない。
まあ仕方ないかと、ゾロは一人苦笑を漏らした。
今日は、徳さんちに犬を引き取りに行く日だから。



徳さんちの飼い犬ベルが孕んだと聞いたのは3月。
無事生まれたのは4月に入ってからだったか。
そろそろ2ヶ月を過ぎる頃で、たくさんいた仔犬達も順当に貰われて行ったらしい。
早くから仔犬の元に通い詰めて母犬にもすっかり懐かれていたサンジは、見に行く度に真っ先に駆けつけて飛び込んでくる仔犬を貰うと決めていた。
茶色い毛色で口の周りと手足の先が黒い、温泉饅頭みたいな仔犬だ。
成長すれば毛色は少し変わってきて今ほど可愛くなくなるぞとは言ってあるが、聞く耳など持たない。

「おはようございます!」
ほぼ毎日顔を見合わせている徳さんちのばあさんが、曲がった腰を屈めながら「おはようさん」と答えた。
「もう、サンちゃんの犬だけだあね、待ってるの」
「え、もうみんな貰われちゃったんですか?」
「昨日ね、土日の間に全部ぅ」
そっかーと小屋に急ぐサンジの背後で、玄関が開いた。
「おう、おはよう」
「おはようございます!」
顔を覗かせたのは徳さんだ。
還暦を迎える頃に脳卒中で倒れて以来、左半身が不自由で、左手を腹の前で屈め左足を引き摺っている。
田んぼはすべてゾロに委託していて、天気がいい日はよく散歩している元気なじいさんだ。
少しぎこちない動きで玄関から出て、砂利道に足を下ろした。
「朝早うから、迎えに来たんか」
「はい、長い間お世話になりました」
「嫁に貰う気か」
少し身体を傾けて、ふははと笑う。
サンジは「そりゃあもう」と何故か照れたような声を出した。

サンジの声を聞き付けたか、仔犬が犬小屋からタタタッと走り出てきた。
丸いボールみたいにぽーんと跳ねて、屈んだサンジの膝の上に転がるように着地する。
「よしよし、迎えに来たぞう」
サンジに抱かれたのが嬉し過ぎるのか、大きく口を開けて身体を撫でる手を追い掛けた。
歯が当たると「痛えよ」と言い聞かせているが、サンジの顔が笑っているから仔犬は悪いと思っていないのだろう。
これは最初からきちんと躾けないとなと、ゾロの方があれこれと気を回してしまっている。

「もう名前考えたんか?」
「ええ」
サンジは仔犬を顔の前まで持ち上げて、目線を合わせた。
「この子は“ふうかちゃん”です。風の花と書いて、風花ちゃん」
可愛いでしょ、と得意気に言うのに、徳さんは妙な顔をした。
「そりゃあいい名前だけんど、そいつオスだで」
「えっ?オス?」
慌ててひっくり返している。
「オスなんですか?これ、ヘソじゃねえの?」
「そりゃあヘソだが、オスじゃねえのかなあ」
実は、徳さんもよくわかっていない。
ゾロも同じように覗き込んだが、正直よくわからなかった。
「オスっぽいな」
「オスかな」
「オスだろ」
オスか〜〜〜〜と、サンジは目に見えて落胆した。
犬といえどもやはりメス好きなのか?と、ゾロはやや心配になる。
仔犬を抱えたままがっくりと膝を着いたサンジを気の毒そうに見やりながら、どうするよと聞いてみた。
「えーあー・・・オスでも可愛いことに変わりはないし」
「いやそうじゃなくて、名前」
オスでも“風花”はありだろうか。
サンジはしかめっ面でう〜んと考えた後、そうだと振り返った。
「この子、4月1日生まれですよね」
「ああ?あ〜そうだったかのう」
飼い主よりよほどよく覚えている。
「じゃあ、ウソップにするか」
「おいおいおい」
いくらなんでも、そこまで捨て鉢になることはあるまい。

「冗談だって、ん〜じゃあ、似た感じで“風太”にしよう」
「・・・風太」
ふむ、“ふうた”か。
それならそれで、呼びやすそうだ。
「風太、お前は今日から風太だぞ」
再び目線まで持ち上げて、軽く揺する。
「風の子みたいに、元気な風太」
名付けられたとわかっているのかいないのか、風太は小さな口を目いっぱい開けて欠伸をした。





「じゃあ、いただいていきます」
「大事に育てますので」
徳さんに最敬礼してから、家の前の畑で草むしりしているばあさんにも挨拶して行く。
「寂しくなるねえ」
「そうですね、ベルちゃんごめんな」
あれだけコロコロいた仔犬が次々と貰われて行ってしまって、今日から母犬ベルは一人(一匹)になってしまうのだ。
それが申し訳ないと、神妙な顔付きでベルに向かって頭を下げるサンジに、ばあさんはいやいやと手を振った。
「寂しなるのはアタシだあね、毎日サンちゃん来てたのに」
「ああ!」
これはしたりと、仔犬を抱きながらもう片方の手でぺちんと己の額を叩いた。
「毎日通わせていただいて、ありがとうございました。これからは休みの日とか、風太を連れて遊びに来ます」
「そうしてね、今度お店に食べに行くわ」
「お待ちしてます!」
ゾロとサンジが遠ざかると、ベルは何かを察したか突然声高く吠え出した。
気がかりそうに何度も振り返りながら、サンジは風太を抱えて早足で歩き出す。
「ベルちゃん、ごめんな」
救いなのは、サンジに抱かれた風太が知らん顔して欠伸を繰り返していることだろう。
母親と引き離されているとまだ気付かないのか、大好きなサンジの腕に抱かれているのが嬉しいのか、元々そういう細かいことは気にしない性質なのか。
もしかしたら後者かなと、ゾロはサンジの手から風太を奪い取って、掌の上でコロコロ転がしてみる。
「なかなか、堂々としたもんだな」
「うん、そうだな。慌てないなあ」
ベルの吠え声がどんどん遠ざかり、やがて諦めたのか聞こえなくなった。
風太はわれ関せずと言った風に、ゾロの掌の中でごろんと腹を見せている。
丸めた尻尾の先がちょんと突き出した出ベソにくっ付きそうだ。

「風太、ちょっと散歩すっか?」
ゾロの掌に顔を突っ込むようして話し掛け、そっと持ち上げて地面に下ろす。
風太は初めて歩くアスファルトの上で立ち止まり、途方にくれたようにサンジを見上げた。
それから地面に鼻先を付けて、あちこちの匂いを嗅ぎながら当てもなく歩き出す。
そうしている内にゾロとサンジの存在を忘れたらしく、好き放題ウロウロし始めた。
とは言え所詮仔犬の足だから、動く範囲は狭いものだ。
「か〜わい〜な〜」
サンジは煙草を咥えて火を付け、道端にしゃがみこんで飽きることなく風太の動きを見守っている。
―――こりゃあ、家に帰り着くまでに日が暮れるな。
ゾロはしばらく好きにさせていたが、頃合いを見て風太を抱き上げた。
「え、散歩させてやんないと」
「あんまり歩かせ過ぎると足を痛める」
まだ足ができてねえから。
そう言うと、それもそうかと納得した。
「ったく、ゾロって案外過保護だよな」
お前がだよ、と思ったが口には出さなかった。





「ただいまー!今日からここがお前んちだぞ」
それでも、オス犬と判明してから扱いは若干ザツになったような気がする。
風太を片手に掲げて、サンジは咥え煙草のまま玄関の戸を開けた。
そのまま上がりかまちに下ろすと、風太はあちこち匂いを嗅ぎながら頓着せずにトコトコと歩いていく。
「家に上げるのか?」
「え、いや今だけ・・・」
「仔犬ん時からでもちゃんとしねえと、混乱すっぞ」
風太は雑種だし、母犬を見る限り中型犬くらいのサイズにまで育つだろうから基本、外で犬小屋に飼うことに決めていた。
けれどここは仔犬の可愛さからか、サンジはすぐに犬小屋に入れようとはしない。
「だってよー、折角うちに来たのに家素通りで直行犬小屋って冷たくね?」
「冷たいか素っ気無いか、犬はわからんだろう」
とは言え、サンジの気持ちもわからないでもないから、それ以上は言わないでおく。
ちょっとだけ、とゾロに言い訳しながら、サンジはいつの間にか縁側にまで進んで行った風太の後をついて回った。


「こらーどこまで行くんだー」
ところ構わずトコトコ歩いて、短い足が座布団に毛躓いたりしている。
サンジでなくとも目を細めたくなるような愛らしい光景だが、クンクン匂いを嗅ぎまわった後、ふと動きを止めてしゃがむ仕種を見せたから、ゾロはすかさず横抱きに掻っ攫った。
「お」
間一髪で、縁側に放出する。
「やっぱり女の子じゃねえのか?足上げねえじゃん」
「仔犬は上げねえよ」
つか、やばかったろうがと縁先で雫を落とし、サンジが取ってきた雑巾で改めて足先から拭いた。
「まずはトイレトレーニングだな」
「あと、注射とかしなきゃなんねんだろ」
「ワクチンか、半年くらい置いてフィラリアもだったか」
「狂犬病もだろ。あー風太、忙しいなあ」
サンジはゾロから風太を奪い取り、頭を撫で繰り回した。
「ちょっと痛いことだらけかもしんねえけど、お前のためだから勘弁な」
はっはと短く息をしながらサンジに腹を見せている風太に、腹は減ってないかと真顔で聞いている。
「まずは水飲ませてやれ」
風太のためにかった真新しい水入れに川戸の水を汲んできてやると、縁先の地面に置いた。
「うう、風太そんなとこで水飲むのか」
地べたに下ろされ、這い蹲るようにして水の匂いを嗅いでいる風太が不憫に思えたのか、サンジは縁側に腹這いになって切なげに眉を寄せた。
「外で飼うって言ったよな」
「う・・・言った」
言ったけど、なんか可愛そうだー
早くも弱音を吐き始めたサンジの頭を風太にするのと同じように掻き混ぜて、ゾロは二人分の麦茶を取るべく冷蔵庫に向かった。

風太の様子に目を細めながらゆったりと茶を飲んでいると、あちこちちょこちょこ歩き回っていた風太の動きが、徐々に緩慢になってきた。
それでも落ち着く場所がないのか、同じ所でクルクル回るようにして、縁側に座るサンジを見上げる。
「いいだろ?」
ゾロに遠慮して尋ねて来るサンジの可愛さに絆され、しかめっ面のまま「ああ」と了解した。
「よしよし風太、おいでー」
両手で抱き上げて、膝の上に乗せる。
風太はサンジの腕の辺りに鼻を突っ込んで、しばらくクンクンと匂いを嗅ぎまわっていたが、その内横座りのようなだらしない格好で落ち着いた。
鼻先をサンジの膝と肘の間に突っ込み、目を細めている。
「・・・眠くなったのかな」
「寝る時間だろ」
初めての場所に来て、すっかり疲れてしまったのだろう。
「風太、熱いな。まるで熱の塊みてえ」
「眠いんだ」
ぽっこりと膨れた腹が、呼吸に合わせて忙しなく上下している。
目を閉じて本格的に眠り込んだ風太を、涎でも垂らしそうなほど陶然と眺めるサンジの横で、ゾロは静かに新聞を広げた。



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