閑中忙あり
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空が乾いていた。

すこーんと晴れ渡りどこまでも続く青は一点の曇りもなく、そのまま水平線へと続いている。
日差しはそれほど強くはないが、なんせまったく雨が降らない。
「妙な海域よねえ」
ナミは海図を描く手を止めて、誰とはなしに話しかけた。
「まったくだ」
「ほんとだよ」
「そうだよねえ、困るよねえ」
「いいえ、別に困ることはないけどね」
「そうだねえ」
ばっさり切られても傷付いた風でもなく、サンジは虚ろな視線のままかしゃかしゃと
生クリームを掻き混ぜている。
「サニー号になってから飲み水の心配だけはなくなって助かるわ」
「いたって平和だよな。雨が降らないだけで」
この海域に入ってから、適度な風が吹き天候の荒れない、まさに順風満帆な毎日が続いている。
不気味なほどに、アクシデントが起こらない。
最初の内は洗濯物がよく渇くとか、晴れ渡った空が気持ちいいねなんて暢気に喜んでいたが、
あまりに平穏な日々が続きだすと、みな暇を持て余すようになってきた。
暇に任せて釣り糸を垂れればよく釣れるし、水槽は満杯でサンジにとっては腕の揮いどころだ。
平和で長閑で退屈で、食糧は充分余裕がある。サンジにとって言うことない恵まれた日々なのに、
何故か表情は憂鬱だった。
人間、考える暇がありすぎるのは罪だ。

「・・・ねーって、聞いてる?サンジ君」
ナミの声がようやく鼓膜に響いて、サンジはああと顔を上げた。
「うわあ、ぼんやりして愛しいナミさんの天使の声を聞きそびれたよ。なんだって?」
ボールを抱えたままくるーりと振り返る。
ナミは頬杖をついたまま、半眼で呆れたようにこっちを見ていた。
「でね、サンジ君がさっきから一生懸命掻き混ぜてるそれは、なんなのかなーって」
「いやあこれは勿論・・・」
だらしなく顔をふやけさせて視線を落としたサンジは、そのまま「げ」と固まってしまった。
抱きしめられ、ひたすら攪拌され続けた生クリームは分離し、なんだかよくわからないゲル状と化していた。

「最近サンジ君、やたらと物思いに耽ってるわよねー」
なんてストレートに問い掛けられて、冷や汗を掻いた昼間の失態を思い出して、
サンジは一人ブンブンと首を振った。
深夜のラウンジ、後片付けも仕込みも済ませ、一番ほっとできるプライベートな時間帯だ。
航海が平穏になってから、クルー達には規則正しい生活リズムがついてしまった。
太陽とともに目覚め、夜の帳が下りる頃眠りに就く。
各々がきちっと見張りの役目だけ果たして、後は安らかな眠りへと旅立つ。
元々ワーカーホリック気味だったサンジとしては、どこか持て余す毎日だ。
暇だとろくなことを考えない。それから、ろくなことをしでかさない。
サンジはふーっと長く息を吐いて、紫煙をくゆらせた。
今夜の見張りは奴だ。
ろくでもないことしか、しでかさない穀潰し。
奴だけは、暇だろうが多忙だろうが独自の生活リズムを崩さす、人を勝手に自分のペースに
巻き込んだりする厄介者。
ああ、まさしく災厄だ―――
サンジは今更ながら己の迂闊さを悔やみ呪った。


汗臭い筋肉ダルマと罵りつつ、そんな親父腹巻きとうっかり寝てしまったのは、
ほぼひと月ほど前のこと。
酒に酔った勢いで犯した過ちだと信じたいが、その辺の経緯は当事者であるはずの
サンジの記憶の中であやふやになってしまっている。
ともかく、モノの弾みで男と寝てしまった。
それだけは潔く認めよう。
人恋しかったのか世を儚んだのか・・・きっかけはさておいて、問題はその後だ。
ゾロが、こともあろうに味をしめた。
以来、なんのかんのと理由をつけて、もしくは力尽くでコトに及んで来る。
一度許しちまったものは、出し惜しみしても値打ちないかななんて、打算が
あった訳では決してない。
そもそも始まりはサンジが「許した」ような状態じゃなくて、行き当たりばったりの
事故、もしくはスポーツの延長みたいなものだった。
勿論、初めての行為は普通使用しえない器官を酷使して、身体にも心にも少々の
痛みを残したが、その時後悔はなかった。
それどころか、悪くないな、とも思った。
何より、あの朴念仁で唐変木のダサダサ苔マリモが、ガチガチになっている自分を
なんとか解そうと、必死になって奉仕するサマはよかったと思う。
そう、あれはまさしく「奉仕」だ。
そうでなければ、誰が好きこのんで固い野郎の身体を弄くり回したり、キスしたり
撫でたり噛んだりするだろうか。
自分がもし逆の立場なら、いくら大金を積まれようともお断りだ。
それなのに、ゾロはどういうわけかえらくしつこくサンジの身体を弄り倒して、
自分でも触れるのを憚られるような場所まで執拗に嬲っていた。
それはもう、じっくりと丹念に。

すごい奉仕精神だと、少なからず感服してしまったサンジは、その熱心さに
絆されて結局ゾロを受け入れてしまった。
まあ、そのことに後悔は無い。
それほど悪くなかった、と言うより、相当・・・いや、かなり・・・
自分が今までの経験上知り得た快感のはるか上を行く衝撃的な快楽だったし、長い人生
こんな経験も貴重かもしれないと己を納得させることはできた。
我に返った時、なぜかちらりと養い親の顔が脳裡にチラついてほんの少し胸が痛んだが、
それを凌ぐほどの実質的気持ち良さと、何故かゾロに対する優越感があった。
あのゾロが、魔獣が、大剣豪を目指す孤高の剣士が。
自分の身体にむしゃぶりついて、鼻息も荒くあれこれ仕掛けては嬉しそうに顔を歪めて
汗を滴らせているサマは、実によかった。なんとなく、ザマアミロだ。
俺みたいな野郎の身体に溺れやがって、この変態め。

よほど溜まっていたのか、それとも元々そういう性癖があったのか。
自分の固い身体に一生懸命愛撫を施す仕種が、いっそ哀れに思えた。
ああ、こいつはもしかしたら、ホモだったのかもしれねえなあ。
こんな立派なモノ持ってて、レディの役に立てねえんだろう。
かと言って、こんな化け物を受け容れる度量のでかい野郎ってのもそうそういねえだろうし・・・
やっぱ俺が相手してやるしか、ねえかなあ。
なんて同情まで沸いてしまって、ゾロに対して甘くなったのは事実だ。
だから、一度寝て味をしめた後、ほぼ毎日のようにゾロが伸ばしてくる手を邪険に
払うことは殆どなかった。
ちょっとでも拒む気配をみせると、まるで捨てられた子犬のように目を萎ませる。
なぜかサンジにはそう見えてしまうから不思議だ。
いつもは敵を射殺しそうなほどに剣呑な光を放つ三白眼がつぶらな瞳に見えてしまうの
だから、そんな自分の方が実は危険区域に入っていたとなぜ気付かなかったのだろう。

そうしてなし崩しにズルズルとゾロの戯れに付き合う内に、サンジの方が変わってしまった。
仕込まれるとは、こういうことか。
殆ど毎日、他人の手で快楽を与えられる行為を続けている内に、なんというか・・・「溶ける」の
が早くなってしまった。
例えて言うなら、ゾロにキスされるだけでくたんと身体の力が抜けてしまう。
口付けられながら髪を梳かれるとうっとり目を閉じてしまうし、触れられもしない内から
足の間がムズムズしてしまう。
ゾロの、前戯に掛ける時間が短くなるほど、いわゆる本番時間が長引くのも気恥ずかしかった。
最初は指一本でぎゃあぎゃあと喚いていた筈なのに、今じゃ信じ難いほどのあのデカブツを
難なく咥え込んで、しかもキュウキュウ締め付けているらしい。
らしいと言うのは、ゾロが行為の真っ最中に実況中継するからだ。
半ば意識を失って殆ど記憶がないのだが、それでも断片的に耳に残る台詞がふとした拍子に甦って
、まったく無関係の場面でもって、サンジをあたふたさせるのだ。
「畜生、美味そうに咥え込みやがって」
とか
「んなエロい面すんじゃねえ、メチャクチャにすんぞ」
とか
そんなエロい面を曝しているわけでも、悦んで受け入れてる訳でもまったくないはずなのに、
ゾロに指摘されても反論できない程度にぶっ飛んでいる。
反論どころか、言われたことを思い出すのがワンテンポ・・・いや数時間遅れてのことだから、
まったくタイミングが合わない。
それでいつも悔しい思いをするのだ。
ゾロの声を聞いたり、なんてことない鍛錬の合間にふと見せる表情だったり、通り過ぎた後に残る
汗の匂いだったり、それこそなんでもない、ただ運動を繰り返す背中の筋肉の単純な盛り上がりだったり、
そんな日常に溢れかえっている「普通」の場面で唐突に思い出したりするから、厄介なのだ。
その時の自分はきっと、頬を上気させているだろう。
目が潤んでいるかも知れない。
息が上がっているかもしれない。
身体のどこか奥深くがじゅんと痺れて、喉が渇いてしまうのだ。

連鎖的に夜の情交を思い出したりなんかしたら、もう駄目だ。
その場で蹲りたいのを必死に耐えて、トイレに駆け込むことになる。
なんでこうなったのか。
ゾロの存在そのものと、蕩けるような快楽が直結してしまっている。
まるでパブロフの犬のように、ゾロを見れば身体が溶ける。
その手が触れたら力が抜けて、その内真っ昼間でも、自分から足を広げて誘ってしまう
ようになるかもしれない。そんなの嫌だ。
っつうか、すでにこの状態が嫌だ。
だから、サンジはやばいと自覚してすぐ、ゾロに絶交を宣言した。

「もうてめえとは寝ないから、必要以上に話しかけるな。それから触るな」
その瞬間、ゾロはまさしく鳩が豆鉄砲くらったような顔をした。
目が丸くなって口が半開きのまま止まっている。

―――間抜けだ
その間抜け面がかーいいんだ、なんて一瞬でも思いそうになって、慌てて訂正する。
可愛いってなんだ。
そもそも、そういう趣味が俺にはないんだから、やっぱりおかしな方向に染められてしまっている。
何か言いたそうなゾロを制して、サンジは一方的に捲くし立てた。
「最初にお前と寝たことが過ちだった」
「金輪際、俺に手を出すな」
「今までのこともなかったことにする」
「もし無理矢理にでも手を出そうとしやがったら、てめえを軽蔑して二度と許さねえ」
ゾロは黙って聞いていたが、その表情が段々険しくなって行く。
それでも口を挟むことなく黙って聞いているのは、自分が「何も言うな」と命じたからだと思うと
また情が沸きそうになって、慌てて己を叱咤した。
サンジの言い分を根気よく聞いた後、ゾロは一言「勝手にしろ」と呟いてその場を立ち去った。

え?そんだけ?
あまりにあっさりしたゾロの態度に一瞬ぽかんとして、それからサンジは我に返った。
もう、ゾロの姿は見えない。
一人ラウンジに取り残されて、何故か非常に居心地の悪い思いがする。
ゾロに一方的に別れを告げたのは自分なのに、捨てられた感が残るのは何故だろう。

ゾロがあまりにも潔く自分の提案を受け入れたからだ。
正直、もうすこし粘るかと思ったのに。
勝手なこと言うんじゃねえとか怒って、てめえの言うことなんざ聞かねえとか反論したりして、
せめて後一回やらせろとか言って押し倒したりしてくるかと思ったのに―――
終わりですか、ああそうですか。
自分で別れを切り出しておいてなぜか非常に傷付いたサンジは、逆ギレて一人夜中の
ラウンジで自棄酒を飲んだ。
それがつい、三日程前のこと。



ゾロに別れを宣言して、まだたった三日だと言うのに、サンジは絶不調だった。
ちょっとはゾロとの関係も微妙なものになるのかな、なんて心配も杞憂に終わった。
ゾロの態度はなんら変わりない。
そういえば寝るようになってからも、昼間のサンジに対する態度に変化は無かった。
すぐに人をからかうし逆らうし、何かと言うと喧嘩に雪崩れ込む犬猿の仲そのままの
スタンスで接して来た。
その視線に夜の行為を催させるような情欲はまったく含まれなくて、その態度の完璧さに
サンジは内心舌を巻いたのだ。
野暮な馬鹿だと思っていたが、中々の演技力。

だが、今ならわかる。
あれは演技でもなんでもない、素のゾロだった。
自分の欲望が解消されれば、それ以外サンジはどうでもよかったのだ。
自分がしたい時にだけ手を伸ばせる都合の良い入れ物。
いや、それなりに反応はあったから、玩具だろうか。

だが、ただそれだけのモノだったのだ。余計な執着なんてなにもない。
だからこそ、昼間は普通に接して来たし、態度にも変化なんてなかったのだろう。
ゾロの姿を見る度に頬を染めて、身体を熱くしていたサンジとはまったく違う。
逆上せ上がっていたのは、俺の方か。
性欲処理のためだけに行われたゾロの行為を、執心と取り違えた自分が馬鹿だったのだ。
やけに丁寧に施された愛撫だって、サンジの反応があまりに顕著だから純粋に面白がっていた
だけに違いない。
溜まったら抜くのと同じ感覚で、手を伸ばしていただけのことだ。
それを面倒とか思わない気質だっただけなのだろう。
ゾロにとっては、それだけのこと。

ならば早い段階で切った自分の選択は正しかった。
このままでは、後戻りできないほどに自分の方からゾロに溺れていっただろう。
今だって、元通りに戻ったとは言い難い。
ゾロの姿を見ただけで、どうしたって胸の奥が騒ぐ。
腹の底も疼く。
忙しさに感けて無駄なことなど考える暇もないほど過酷な航海だったらよかったのに。
幸か不幸か、ここのところ平和すぎるほどに順調な毎日だ。
だからつい、余計なことを考えてしまう。
昼間から、生クリームが分離するほどぼうっとしてみたり、ナミさんに勘付かれるほど
挙動不審になってるようじゃ、オシマイだ。
しっかりしなきゃ―――

灰皿から立ち上る紫煙をぼんやり目で追っていると、不意にがちゃりと後方で戸の開く音がした。
人の気配や足音にさえ、鈍感になってしまっている。
現れたのは、今最も会いたくない男だ。
そういえばこいつが見張りだったと、今更ながら思い出し血の気が引く。
毎夜不寝番に夜食を差し入れるのが常だったのに、今夜は何も用意していない。
動転して固まったサンジの横をすり抜けて、ゾロはぐるりとラウンジを見渡した。
少し首を傾げて、声を掛ける。
「クソコック、食いモンねえのか?」
「ねえっ!」
速攻言い返した。あんまり早すぎる反応だったろうが、もはや取り繕う余裕すらない。
ゾロは少々面食らったようだが、気にした風でもなくワインラックに向かった。
一本に抜いて「いいか?」と再び問う。
夜食も無い上に酒もなしとまでは言えなくて、サンジは曖昧に頷いた。
とにかく早く、立ち去って欲しい。

酒瓶を一本だけ持って見張りに戻るゾロの後ろ姿を目の端で見送って、サンジははあと肩の力を抜いた。
なんかもう、色々駄目だ俺。
なのになんであいつはああも変わらず平気なんだ。
なんで俺だけオタオタしてんだよ。
畜生、口惜しい、ムカつく、腹立つ!
心の中で言い聞かせるほど、頭の中は熱くならなかった。
ただ、胸の中が鉛でも飲み込んだように重く冷たい。
サンジは項垂れて立ち上がり、吸殻を山と積んだ灰皿をシンクに置いた。
ああ、今夜も身体が夜啼きする。


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