愛する覚悟 -2-


浴衣と呼ばれた四角い布を持って、部屋付の露天風呂に足を運ぶ。
扉を開ければ、少し肌寒いくらいの海風が頬を撫でた。
丸い湯桶を植木が囲み、岩場の向こう側から海を見下ろせる。
温泉宿自体はさほど大きな建物ではなかったが、どうやら裏側が切り立った崖になっているらしい。
他にも部屋があるだろうに、うまく間仕切りされて他の客の声も気配も感じられなかった。
ただ、眼下に広がる海から聞こえる波音だけが何度も繰り返し響くだけだ。

サンジは洗い場で軽く身体を洗った後、湯船に浸かった。
湯温は少し熱いくらいだが、風が冷たくて心地よい。
湯気に顔を炙られながら海風で頭を冷やされ、サンジは仰向いて暮れなずむ夕空に目を細め、ほうと息を吐いた。
「・・・気持ち、いいー」
他の仲間達には申し訳ないが、実にゆったりとできて気持ちがいい宿だ。
温泉で生き返るとか、年寄り臭いと笑われるだろうに心底和んでいる自分がいる。

たぷたぷと、波打つまろやかな水音に耳を傾け、湯船に両腕を掛けてぼうっと空を眺めた。
水平線は濃い紅とオレンジの光に揺れ、空を覆う雲は黄金色に輝いている
黄色から薄い緑へと変化している空は真上で青から紺に変わり、東の空は紫色の闇に包まれようとしていた。
壮大な空のグラデーションの下で、温かい湯に包まれて小さな風呂桶の中でぽっかりと浮かぶ。
寄る辺なく彷徨う迷子になったような、誰にも囚われぬ真の自由を得たような。
少し寂しく、けれどどこか清々しい気分だ。

いつまでもくよくよと、悩んでいるのが馬鹿らしくなってくる。
サンジの身の上に起こったことは決して小さなことではないけれど、取り返すこともやり直す事も忘れ去ることも、しようと思えばできないことではないかもしれない。
けれど、そうしようとは思わない。
自分で選んだ結果を、後悔するつもりもない。
傷付いた己を軟弱だと叱咤する気はないし、他に手立てはなかったのかと責める気持ちももう捨てた。
悔やんでも苦しんでも羞恥に身悶えても相手を呪っても、結局はこれでよかったんだと素直にそう思える。
今のままでいい。
過去に遡ってやり直しができるとしても、きっと自分は再び同じ手段を選んだだろう。

ちゃぽんと水音を立てて、サンジは湯で顔を洗った。
どこまでも透き通った、濁りのない湯だ。
それでいてしっとりと肌に馴染み、肘を伝い落ちる雫もどこかまろやかさを感じる。
サンジは顎まで湯に浸かってふーと長い息を吐き、そのまま立ち上がった。
タオルで軽く水気を拭えば、それだけで肌が乾く。
日が暮れて随分と冷たくなった風に煽れても、身体がどこかポカポカとして気持ちがよいくらいだ。
浴衣を適当に身体に巻き付け、部屋に続く籐の扉をそっと開けた。
灯りを点けない部屋の中は薄暗くなっていたが、そこに先ほどまで寝そべっていたゾロの姿がない。
「あれ?」
電気を点けて、部屋付きのトイレや内風呂も覗いたがいなかった。
サンジが露天に入っている間に、どうやら部屋の外に出てしまったらしい。
部屋の鍵は開けたままだ。
「無用心だな」
なんとなく面白くなくて、煙草を咥えながら座椅子に腰を下ろした。
冷めた茶を啜っていると、部屋の扉が開いてスリッパを脱ぐ気配がする。
「おう」
「おう」
ゾロは、肩からタオルを掛けて部屋に入ってきた。
心なしか、頬が上気している。
「風呂入ってたのか?」
少し、詰るような口調になってしまった。
ゾロは飄々として、湿ったタオルをテーブルに置きサンジの向かいに胡坐を掻いた。
「ああ、地下の大浴場」
「部屋にも露天、付いてるだろが」
「お前、入ってただろ」
タオルでがしがし顔を拭くゾロの頭を、発作的に蹴り付けたくなった。
「別に、2人で入ったって狭いもんじゃねえぜ」
ちっと舌打ちしながら、乱暴に煙草を灰皿に押し付けた。
いま吸い付けたところなのに、勿体ないことをしてしまう。
ゾロはタオルで口元を覆ったまま、目だけで笑った。
「後で一緒に入る」
「はあ?」
なに言ってんの、こいつ。

ギリっと睨み付けるサンジに、ゾロはさっと両手を差し伸べてその腰を掴んだ。
「・・・はあっ?」
「立て」
帯を掴んでそのまま引き上げられた。
膝を曲げているのに身体が浮いたのは屈辱だが、すぐさま畳を踏んですっくと立つと、ゾロは手を離し今度は帯を解き始める。
「なんだ」
少し焦ったが悟られたくなくて、浴衣の袖を握り両手を軽く掲げた。
「着方がおかしい」
確かに、サンジは袖に手を通して適当に巻き付け、上から帯で締めただけだ。
目の前に立つゾロとでは同じ着物と思えないほど格好が違って見える。
「こっちが手前だ」
襟元を持って左右の合わせを変え、腰の当たりに引き上げてしっかりと帯を締め直す。
自力で着た時と感触が違って、自然と背筋がしゃんとした。
「こうか」
「そうだ、似合うぞ」
きっちりと結ばれた帯の上をぽんと叩いて、ゾロはその場で腰を下ろした。
突っ立ったままあちこち点検しているサンジを目の前にして、急須に湯を注ぎ足している。
「そろそろ飯だろ」
「食堂だっけか?」
「いや、部屋に運んでくる」
そのタイミングで、戸口から声が掛かった。



部屋に案内してくれたおばちゃんが、お膳を持ってきてくれた。
少量ずつ器に盛られ、見た目に綺麗だが量的はさほど多くない。
もしルフィがこの宿に来ていたなら、きっととても足りなかっただろう。
「お風呂、入られましたか?」
「ええ、とてもいいお湯ですね」
サンジが答えれば、そうでしょうとおばちゃんはどこか誇らしげに頷く。
「昔、イーストの商人がこの島に立ち寄った時、傷付いた大きな鳥を見つけましてね」
「はあ」
「真っ白な鳥の、こうお腹の辺りが血で染まってて。ああ、ケガをしているんだなと目で追っていたら、山間に湧く湯の中に鳥が舞い降りたんですよ。そこで湯に浸かり傷を治しているのを見て、ここに宿を作ろうって」
「それが、この宿の始まりですか」
「そうです、別名『朱白の湯』とも申すんですよ」
浜の湯よりよほどいいネーミングではないか。
そう思ったが、口には出さないでいた。

おばちゃんはテキパキとお膳の支度を整えると、膝立ちで2人を振り返った。
「お酒の追加注文などは、こちらに電伝虫がおりますので」
「どうも」
「お膳を下げに来た時に、お布団敷きましょうか」
「いや、こっちでやる。膳は廊下に出しておいていいか」
「はい、それで結構でございます」
勝手にゾロが答え、おばちゃんも心得たとばかりに頷き返す。
「ではどうぞ、ごゆっくり」

ご飯はお櫃ごと置いて行ってくれたので、サンジはそれを手元に置き直した。
蓋を取れば、ふっくらと炊き上がったご飯が山盛り入っている。
「お前の好み、どんぴしゃだな」
「ああ」
宿の造りといい食事といい、イーストの風習そのものなのだろう。
サンジには勝手のわからないこともゾロは知っているから、優位に立たれているようで少し癪だ。
だが、こんな場所に来てまで突っかかるのも大人気ないと、サンジは素直にゾロのすることに任せた。
「まずは、一杯」
小さなお猪口を差し出すと、ゾロが徳利で注いでくれる。
こんなもの、ゾロが徳利ごとカパカパとひっくり返せば、2口で終わってしまうだろう。
けれどそうしないで、ゾロは唇を湿らせるように杯を傾けている。
「香りがいいな」
ほどよく温められた熱燗は舌をぴりっと刺激し、喉を通る時はまろやかで、腹の底辺りでじんわりと熱くなる。
「美味い」
「ああ」
こんな美味い酒は、一気に飲んでは勿体ない。
ゾロもそう思っているからだろう。
たった5合しかない徳利を、ちびりちびりと傾けてお互いに酌をし合った。

お膳の上の料理は素朴な食材を用い、丁寧に調理してあった。
いずれも味はいい。
名だたる料理人が腕を振るったものではないが、この宿と湯に相応しい、落ち着いて深みのある味だ。
「くじに、ルフィが当たらなくてよかったな」
サンジがそう呟くと、ゾロはふっと小さく笑った。
「そういや、そうだな」
「絶対、こんくらいじゃ足りないんだぜ」
宿もなにもかも、きっと大騒ぎだ。
そう呟くサンジに、ゾロが徳利を差し出す。
まだ温かい熱燗を口元に運び、サンジは心地よい酔いに浸った。

こうして日常から離れてゾロと2人だけで過ごすと、不思議なことに喧嘩にはならない。
仲間達の目がないからだろうか。
船の中では寄ると触ると喧嘩になって、相性は最悪だと思われているからか、お互いに友好的な振る舞いは避けていたような気がする。
けれど、島に降りて二人きりなら、仲間の目は意識しなくていい。
寧ろいつもより素直になる分、お互い相手のよさがよく見えるようだ。

前の島でもこうだったなと思い出し、少し苦い気持ちになる。
あの時も、2人だけの時間が存外に心地よくて。
ゾロからの思いがけない申し出に戸惑いながらも、そこから逃げようとは思わなかった。
だが今はどうだ。
いま、本当はいま、すぐにでも。
この場から逃げ出したいと、思う気持ちがまったくないと言えるか?

サンジは、ごくりと喉を鳴らして酒を飲み干した。
食道から胃に掛けて、かーっと熱い塊が降りて行くのがわかる。
あの時と同じではない。
あの時には戻れない。
ほんの数週間前の、一月も立たないついこの間のことであっても。
決して、元には戻れないとわかっているのに。

徳利を持ち上げたら、空だった。
追加を注文するかと電伝虫に伸ばした手を、ゾロに止められる。
ゾロの掌は、宵で熱くなったサンジの肌よりなお熱かった。
「飯喰ったら膳を外に出すから、とっとと喰え」
「あ?」
命令口調にむっとしならも、酔いが回った頭では状況が掴めない。
「喰ったら、風呂に入るぞ。だからもう飲むな」
そういうゾロは、酒を飲むのと平行してお櫃のご飯もすべて平らげてしまっていた。







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