Insect panic 1


抜けるような青空の下、GM号は小さな港に着いた。
この辺では比較的大きな島にも関わらず、人口の少ない街は小さいながらも活気に満ちていて、陽気な人々が行き交っている。
別名花の島・ヌヴォイ島。

面積の5分の4を森が占めたこの島には、ここでしか咲かない花の種類が豊富にあって、その蜜は特産となっている。
希少価値から高値を呼び、のんびりとした田舎でありながら、人々は比較的裕福に暮らしている。

ログが溜まるまでわずか6時間。
サンジはあらかじめメモっておいた買出し分を大急ぎで注文して、この時ばかりは扱き使える力仕事
専門の男に運搬を任せた。
ヌヴォイ島と聞いて、いても立ってもいられないのだ。
ここには昔、バラティエで聞いたことのある、幻の最高級蜂蜜「クイーン・オブ・ヌヴォイ」の生産地でもあるから。

今日ばかりは路行くレディも眼に入らず、サンジは市場を駆け抜けた。
路地1筋分、丸ごと蜂蜜屋が軒を連ねて、目移りしてしまう。
あっちで味見、こっちで薀蓄を聞きながら、甘い香に包まれた店先をそれこそ蝶のように飛び回わる。
通りは行き止まりになっていて、一番奥の店はなんとなく人の寄り付かなさそうな古びた佇まいの店で終わっている。
サンジの料理人としてのアンテナは、その店に引っかかった。

薄暗い店内を冷やかしを装って覗き込む。
枯れかけた老婆が一人、店番のつもりなのか砕けそうな木のイスにちんまりと腰掛けて、ぼうっと表を眺めていた。
その傍らになんでもないように置かれている壺の張り紙に、サンジの目は釘付けになる。
読みにくい手書きのラベルには、バラティエで聞いた、幻の蜂蜜の名。
―――まさか、よもや、もしや・・・
ふらふらと引き寄せられるように店の中に入る。
こんな小汚い店の中に置いてあるにはあまりにあんまりな高値が、やはり手書きの文字で書いてある。
サンジの顔つきを察して、老婆が黙って壺の蓋を開けた。
途端に鼻腔をくすぐるえも言われぬ芳香に、サンジは眩暈すら感じた。
なんてこった。
本物の「クイーン・オブ・ヌヴォイ」がここにある!!!
感動で言葉も出ない。
味見をしたいところだが、g単位でも目が飛び出そうな価格だ。
サンジはちらりと、まだ前を向いたままの老婆の横顔を盗み見た。
「マダム、これは本物のクイーン・オブ・ヌヴォイですね。」
声が震えてしまう。
「そうだよ、匂いだけで、わかるさね。」
相変わらず前を向いたまま、しわがれ声が帰ってきた。
「いや、俺あ実物見んの初めてなんだ。でも確かに香りでわかる。こんなに濃厚な香りは初めてだ。香りだけでこれなんて、とんでもねえ。」
そうさねえと、老婆が歯のない口で笑った。
「それは扱いが難しいよ。どう使っても素材本来の味を食ってしまう。ただ甘いものがほしけりゃ、表の店のを選ぶんだね。」
それにはサンジも同感だった。
いつかこの蜂蜜を使って、最高の料理を作ってみたいと思っているが、今はとても手の出せる値段ではないし、何よりロビンやナミはともかく、底なしの胃袋を持つ船長や、何を食わせても同じのクソ野郎に食べさせるのは、あまりに勿体無い。
「これが原価でもこんだけの値がつくってのは、やっぱり品質もそうだろうけど、希少価値ってのもあるんだろうな。」
そうさねえと老婆が続ける。
「その蜜を採る蜂の巣が、なんせ見つかりにくいんだよ。ハニーハンターは特別な手段をもって、蜂の巣探しをするんだよ。その苦労代も、あるかねえ。」
言いながら、枯れ木のような腕をひょいと伸ばした。
小さな棚の中に詰まれた煙草を1箱手にとる。
「これがハンターが使う特別な煙草だ。その蜜が仕込んであって、なかなか美味いよ。」
サンジは興味を覚えてその箱を手に取った。
何の変哲もないただの煙草に見えるが、パッケージに蜂の絵が書いてある。
値段も、普通の煙草に比べられば5倍以上だが、それほど高いとは思わない。
「んじゃ、これを1箱貰おうかな。」
そこで始めて老婆がサンジを振り向いた。
「この匂いはまあ、1本吸えば、2日は持つよ。くれぐれも気をお付け。船で来たのなら、東に進むんだろう。くれぐれも、南の島へ寄るんじゃないよ。」
「はあ・・・」
何に気をつけるのかいまいちわからなかったが、訪ねる前に別の客が来たようだ。
常連なのか、身なりのいい紳士がためらいもなく例の壷を手にとっている。
サンジは軽く会釈して店を出た。

予定どおりの買出しもできたし、天気はいいし、珍しい煙草も手に入った。
早速パッケージを開けて、匂いを嗅いでみる。
かすかに、さっきの壷から立ち上った芳香が蘇った。
煙草なのに、なんか上品で甘い感じがすんなあ。
1本取り出して火をつけた。
想像よりも普通の煙草の味がするが、どこか花の香が纏わりつくようで、頭の芯がぽわぽわする。
こりゃ下手なクスリよりいけるかも。
すっかり頭の中にお花畑が展開して、サンジは踊るような足取りで港に向かった。






程なく船は出航し海原を東へ進む。
鼻歌交じりで夕食の準備をするサンジの横で、チョッパーがちょこまかと手伝っている。
「サンジ、なんかいい匂いするなあ。」
「お、わかるか。」
さすがトナカイだ。
よく鼻が利く。
「さっきの島で変わった煙草買ったんだ。なんせ最高級の蜂蜜を採るハンター専用の煙草つって。」
「えー、煙草なのにそんな甘い匂いすんのか。」
もっと匂いを嗅ごうと伸び上がったチョッパーの足元を黒い影が過ぎる。

―――!

「ぎゃー――――!!!」

とてつもない悲鳴に、チョッパーはびっくりして机に飛び乗った。
叫び声を上げたまま硬直しているサンジの足元には、触覚をぴくぴく揺らしたゴキブリが1匹。
「何事だ!」
飛び込んで来たルフィたちの手前、チョッパーは恥ずかしくなった。
サンジはともかく、自分までゴキブリに怯えて机に飛び乗ったとは思われたくない。
「違うんだ、サンジがすんごい声出したから、俺驚いて・・・」
指差す先を、何故そんなに早く?と常に疑問に思う程早いスピードでゴキブリが駆け抜けて行く。
「ルフィ、殺せ!スリッパ!誰か・・・スリッパ!!」
完全にパニクったサンジが喚きまくる。
とりあえずルフィが足を伸ばして踏みつけようとするが、敵もなかなかすばしっこい。
ウソップのミニ火薬星が命中したかと思ったら2匹に分裂した。
いや、2匹目も現れた。
別々の方向にちょこまか逃げ惑って、サンジを追い詰める。
「わ〜〜〜来るな!逃がすな!しとめろぉ!!」
尋常でない騒ぎを聞きつけて、さすがのゾロも目を覚ました。
派手な音を立ててキッチンの扉が開く。
「ゾロ、そっち行った!」
見れば黒い、小さな虫が必死こいてこっちに走ってくる。
「うっせえなあ。」
まだ寝ぼけ眼でだんと床を叩いた。
ゾロの拳の下で、見事に叩き潰されたゴキブリを見て、走って出てきたサンジは腰を抜かした。
「ゴ・・・ゴキブリを・・・素手、で――――」
「コックさん、大丈夫」
「わー!サンジしっかりしろお」
アホかい。
大騒ぎを他所にゾロは一つ欠伸をして再び眠りについた。





「大丈夫?」
冷たいタオルを額に当てて、サンジは何とか顔を上げた。
「すんません、面目ない・・・」
あれから結局5匹もゴキブリが出現して右往左往したのだ。
とりあえずすべて退治することはできたが、サンジが受けたショックは計り知れない。
「キ・・・キッチンにゴキブリなんて・・・なんてこと―――」
だん、と机を叩いて歯噛みしている。
「しょうがねえよ。船ん中のどっかに絶対いるって。たまたまここに出てきただけで、船底やら格納庫やら、棲んでても仕方ねえし。」
ウソップの慰めの言葉も打ちひしがれたサンジには届かないのか、いつも以上に情けない眉毛をくるりと巻いて、激しく落ち込んでいる。
「ほんとにゴキブリダメなんだな、サンジは。」
チョッパーの言葉に、ナミが代わりに答えた。
「ゴキブリだけじゃないわよねサンジ君。気味悪い系の虫は全部ダメでしょ。」
そうなのだ。
日頃悟られないように隠してはいるが、キャベツの芋虫だって、見ただけで悪寒が走るほど苦手なのだ。

「まあ、蟻は大丈夫?」
「え・・・蟻ぐらいなら大丈夫だけど・・・」
きょとんとしたサンジの顔をじっと見て、ロビンは意味ありげに視線を落とした。
「ならいいけど、先刻から行列が続いているのよ。」
「へ・・・」
その場にいた全員が視線を落とせば、キッチンの床に黒々と蟻の行列が連なっていた。

んぎゃ―――――――!!!!

「今度はなんだ!」
再びゾロが目を覚ます。
やれやれと身を起すと、いつの間に日が暮れたのか真っ暗な空の彼方で、稲光が見えた。
「まずいぞ、嵐が来る。」
無駄に混乱しているキッチンに駆け込んでナミを呼んだ。





唐突に現れた雷雲は瞬く間に近づき、台風のような雨風とともにGM号を翻弄した。
ゴキブリも蟻の行列もどこかに飛んで、嵐をやり過ごす。
一晩中荒れ狂った海は、夜明けとともに嘘のように過ぎ去った。

「つ・・・疲れた・・・」
甲板でびしょ濡れになりながら、各々の持ち場でぐったりと倒れ込む。
「お疲れ・・・握り飯だけど、食えよ。」
自らもふらつきながら、サンジはトレイに山のようにお握りを積んで出てきた。
「うわあ、サンジサンキューv」
「さっすが、サンジ君。」
文字通りたくさんの手が飛んできて、あっという間にトレイが空になる。
ナミは海図とにらめっこして難しい顔をしていた。

「随分南に来てしまったみたいね。」
「ええ、かなり流されたわ。」
「ナミ、島が見えるぞ。」
見張り台の上からルフィが叫ぶ。
「小っちぇー島だ。緑の木がこんもりしてるぞ。」
「とりあえず、そこへ着けましょう。」
「おう!」
お握りで元気が出たのか、景気のいい返事が響く。
――――南の島?
サンジはちょっと、嫌な予感がした。




切り立った崖の上に木が生えているだけのような、シンプルな無人島だ。
わずかな砂浜に流木がたくさん流れ着いていて、ウソップが船の修理を始める。
「探検しようぜv」
早くもルフィが飛び出していく。
「長居をする気はないわよ!夜には帰ってきなさい。また嵐が来ると思うから。」
ナミの声に、聞こえたとばかりに大きくジャンプして、森に消えてしまった。

ナミとロビンは船に残り、チョッパーはウソップを手伝っている。
「俺も、なんかあるか見てきます。」
「お願いね。あ、ゾロの姿が見えないからどこかで迷子になってたら連れて帰って。」
「・・・見つけても声かけませんよ。」
何度迷っても方向音痴の自覚がない緑腹巻は、一度置いてけぼりを食らわしてもいいと、サンジはマジで思っていた。




熱帯のように気温が高く、空気はじめっとしている。
昨夜の嵐で濡れたスーツも歩いているうちに粗方乾いてきた。
あまり船から離れないように獣道を歩くが、実の付いた木の一つも見つけられない。
「なんか、ねーかなあ。」
耳を済ませると鳥の羽ばたく音と、どこからかぶーんとかすかな羽音が聞こえてきた。
その音はどんどん近づいてくる。
なんだ?
鬱蒼とした木々の間から、突然黒い煙がちらりと見えた。
その煙は立ち昇るでなく、右へ左へ形を変える。
なんだ?
耳に煩いほど音が響いた。
黒い煙と思ったのは、どうやら羽虫の大群らしく――――――
こっちに向かってくる!

「うぎゃ―――――――!!!!」

昨日から何度目かの金切り声を上げて、サンジは一目散に逃げ出した。
だが、小さいながらもとんでもないスピードで追いかけてくる。
「なんでこっち来んだよ!あっち行け、クソ・・・」
どこかに水がないか目で探すが見つからない。
黒いスーツがいけないのか、走りながら脱いで振り回した。
虫たちはサンジに向かって押し寄せる。
「うわああああああ!!!」
鋭い蹴りが空を切る。
風圧で一瞬散るが、すぐに集まって向かって来た。

「たーすけてー――――!」
情けない声を出してサンジが転げそうに走る。
この際熊でもトラでもいい、なんか出てきてくれ!
前方の繁みががさがさと動いたかと思うと、トラならぬマリモが顔を出した。
「ゾロ!!!」
ほとんど体当たりに近い格好で抱きつく。
「な、なんだ!」
「虫――――!!」
見れば後ろから黒い霧が物凄い勢いで向かって来た。
咄嗟に刀を抜いて一太刀に切る。
一瞬霧散したが直ぐに集まって襲い掛かる。
「竜巻!!!」
勢いで蹴散らして、まだしがみ付くサンジごと崖から飛び降りた。






「ひ、ひでえ目に遭った・・・」
何とか虫を撒いて、サンジは気を落ち着けるように煙草に火をつけた。
特別な煙草は船に置いてきてしまった。
まあ、あれは大事に吸えばいい。

「ったく、何やってやがんだ。」
突然巻き込まれて、ゾロも憮然としている。
本来なら礼を言うべきだろうが、醜態を見せた手前、サンジも素直になれない。
「てめえこそ何やってやがった。大方迷って不貞寝してたんだろ。」
わざわざ探しに来てやったんだぜと、心にもないことを言う。
「ったく、てめえこそ一人じゃ船にも帰れねえ、お子ちゃまのくせして・・・」
「ムカデの行列作ってる奴に、言われたかねえよ。」

ぴたりと、煙草を持つ手が止まった。
なんですと?
「な・・・に―――?」
促されて、恐る恐る足元を見る。
いつの間にか、サンジの周りにはムカデやらヤスデや足の多いのがわさわさと集まっていて、とんでもないスピードでゲジゲジ駆け抜けた。

ぎえええええええええ!!!

超人的な跳躍とともに、ゾロの背中に飛び乗る。
いきなり乗っかられたゾロもびっくりしたが、サンジが消えた地面から、一斉に虫たちがゾロ目掛けて動き出した。
流石にこれは気持ち悪い。
「なんなんだよ。」
「走れ!ゾロ!!!早く逃げろ!!」
勝手に肩車状態になって、サンジがゾロの頭を叩く。
「うっせえ、俺はてめえの馬じゃねえぞ!」
振り落としてやろうと腕を掴んだら、どこからかぶーんと羽音が響いた。
「き・・・」
来たー―――――――!!!

ゾロはサンジを担いだまま全速力で山を駆け上がる。
「阿呆、船は下だ!海は下だ!!」
「下から追ってくるんだから仕方ねえだろうが!!」
「お前が上に逃げるからだろうが!!」

朝はわずかに青空の覗いていた空がにわかに曇り始め、ぽつぽつと頬に雫が当たる。
「まずい、嵐が来るぞ。」
頭上にサンジの声を聞いて、ゾロは森の中に入った。
巨大な気の根元にサンジを投げ落として飛んでくる羽虫に身構える。
例え小さな虫でも、刀で何とかしてくれるだろう。
サンジは祈るように縮こまっていた。

ぽたりと、肩に何かが当たる。
雨かと目をやれば、鮮やかなオレンジ色の毛虫が1匹。
ぽたり、
ぽたり・・・
頭に、
背に、
何かが落ちる。

ぎぎぎ・・・と錆付いたような首を巡らして、サンジは勇気を振り絞って上を見上げた。
巨大な木の枝から、小さなオレンジ色が大量に降って来る。


その後どうなったのか、サンジはよく覚えていない。

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