育花雨



春先に降る雨は、やさしく花を育てるという。
そんなことをふと思い出すような静かな雨の滴りを音に聞いて、サンジはゾロの言葉を待った。



「雪が深くなる前にと、俺は両親にお前のことを話した。」
唐突な語り出しに、サンジは目を剥いた。
「え、ちょっと待て…ご両親にって…」
「お前をあんな山中に一人で置いておけなくてな、うちに連れて帰っていいか尋ねたんだ。」

なんてことを。
サンジは思わず額に手を置いた。
もう十年も前のこととは言え、ゾロの無謀ぶりに呆れかえる。

「そんな、ご両親びっくりしただろ。叱られただろ。」
「いや、そういうことならと了承してもらった。」
無論ゾロは礼を弁えて、手をついて両親に頼んだのだ。
決して楽な暮らしではなかったが、情のない親ではない。
ゾロの真摯な願いは思ったよりもあっさりと許された。
「だから俺は、お前を迎えに山へ向かった。」


だが、朽ち果てた小屋にサンジの姿はなかった。
降り積もった雪の上に幾人かの足跡を見て、またよからぬ輩が訪れたかと血相変えて山道を分け入った。
その時、見知らぬ武士が行く手を遮ったという。
「武士、だと?」
サンジも心当たりがあるのか、わずかに顔が強張る。
「そいつは、お前はもういないと俺に向かってそう言った。人買いに連れて行かれたと。」
サンジは黙って頷く。
人買いにそう仕向けたのは、その武士だ。

「俺は、頭に血が昇ってな。その場で刀を抜いた。」
「な…」
サンジが危惧したことがすぐ現実となっていたとは、そのことに戦慄して顔色を失う。
「刀って、ゾロが持ってたの竹刀じゃないか。」
「丁度父上から帯刀を許されてな、初めて真剣を抜いた。」
その瞬間を思うと、サンジの身は凍りつきそうだった。
今ここに無事なゾロの姿があるとは言え、まだ年端も行かぬ子供が武士相手に斬りかかったなんて、無礼討ちにあうのが普通だ。

「なかなか強い奴でな、結局俺は負けた。」
なんでもないことのように、ゾロは言う。
子供ながらに命のやり取りをしただろうに、語る口調はあまりに軽い。
「気がついたら辺りはすっかり暗くなっていた。何時間か雪の中で倒れていたんだろう。」
冷たく凍えた手足を擦りながら身を起こした。
山を見上げれば吸い込まれるように暗く深い。
傍には与えられたばかりの雪走がそのまま落ちていた。
負けて見逃された屈辱よりもサンジを見失ったことがなにより悔しくて、震える手で刀を拾い水気を拭った。
息をついて立ち上がる。
風はいつの間にか吹雪と化し、見下ろす里を白く煙らせていた。
だがその中ほどから、一筋の黒煙が渦を巻いて風に散らされている。


どきりと胸が鳴った。

状況を判断するまもなく不吉なものを感じて、ゾロはそこから駆け出した。
雪に足を取られ何度も転びながら村を目指す。
近付く度に煙はどんどん大きくなり、ひしめくように立ち並ぶ長屋の瓦の向こうに薄赤い輝きが見え隠れした。

「火事だ――――っ!」
ゾロの叫びは吹きすさぶ吹雪の音に紛れて、固く閉ざされた家の中には届かない。
なにより火元と見られる屋敷の方向が我が家に近いと直感して、ひたすらに走った。

傾いた引き戸の隙間から黒煙が漏れている。
躊躇わず戸ごと叩き壊すと、むっとした熱気が顔面を撫でた。
濡れた袂で口元を覆い内部を窺えば、両親以外に複数の人間がいる。
「―――お前は!」
先ほどの武士が、一番奥に悠然と立っていた。
何故こいつがいるのか。
父は、母は?
急いで目線を巡らせば、見知らぬ男たちが武士を囲んで左右に六人。
一人の腕の中には、母が囚われている。

「母上!」
ゾロの叫びに応えるように、その男は煌く切っ先を母親の喉元に押し付けた。
「母を助けたくば父を斬れ。」
冷酷な響きにぎょっとして、視線を落とした。
どす黒く変色した畳の上に倒れ付す影が見える。

馬鹿な―――
父は浪人の身の上ではあったが、剣の腕は確かだった。
いくら多勢に無勢とは言えこのような輩に後れを取るとは思えない。
だが…
こいつはかなりの手練だ。
この男ならばあるいは、と正面から武士を睨む。

「ゾロ、なりませぬ。」
母は自ら刃に喉笛を擦り付けようともがいたが、男たちの手に阻まれた。
恐らく、このまま父に止めを刺したところで、母も生きてはいまい。
それがわかっていても尚、ゾロは迷った。
せめて、母上だけでも―――

内心の動揺を見透かしたかのように、男は急かす。
「早うせねば家ごと焼け落ちるぞ。その手を、父の血で染めてみよ。」
突っ伏した父の背中は、時折ぴくぴくと痙攣していた。
喉元から血の泡が沸き、ひゅ、ひゅっと苦しげな息が上がる。
器官を斬られたか・・・さぞ苦しいだろう。

障子の桟を舐め、天井にまで駆け上がった赤い火柱がゾロの背を炙る。
立ち込める熱気と異様な閉塞間の中で、ゾロは熱に浮かされたかのように刀を抜いた。
母の叫びが聞こえる。
だが父は、もはや助かるまい。



臥した身体を斬るのは容易ではないと判断し、そのまま背中に刃を突き立てた。
ずぶりと肉に減り込む感触を掌から冷静に受け止めて、父の息が止まるのを待つ。
一度大きく慄いて、その背は強張りを解いて崩れた。
正面で、男は満足そうに白い歯を見せる。
ゾロは勢いよく刀を引き抜くと、男を睨み付けた視線を外さず腕だけを真横に薙いだ。
母の白い首が飾り物のように足元に落ち、喉元に突きつけられていた刀を弾き返して、母を捕らえていた男の胸を裂いた。

一瞬の動きに誰もが居を突かれ、動きを止める。



ゾロと睨み合う男だけが目元を和ませ、「見事!」と叫んだ。








サンジは声を失い、ただただゾロの横顔を凝視していた。
取り落とした徳利から流れ出す酒が畳に染みを作っていく。
それすら現実のものでないように思えて、指先を動かすことすらできなかった。

「そして俺は、その男達とともに村を出たんだ。」
吹雪に煽られ巻き上がった炎は瞬く間に屋根から屋根へと燃え移り、村は火の海と化した。
逃げ惑う人々の間を縫うように、ゾロは炎に背を向けて悠然と歩いた。
手には両親の命を奪った雪走と、父の形見の和道一文字を携えて。

振り仰げば天をも焦がす勢いで、紅蓮の炎が舞い上がっている。
父の身体から染み出た黒き血も、母の首から滴り落ちた鮮やかな朱も、村を人を飲み込んで揺れる紅蓮の炎もすべてを目に焼き付けて生きていこう。
今踏み出した修羅の道を撰んだのは、確かに己なのだから。





「どうして…」
漸く絞り出した声は、震えていた。
淡々と語るゾロの口調にあまりにそぐわぬ、凄惨な過去。
父を母をその手にかけさせ故郷を焼いた男たちに、なぜ着いていったのかと、詰るでなく問いたかった。
「俺は朱に魅入られたのだ。」
穏やかに微笑みながら言葉を綴るゾロの表情に翳はない。
そのことが一層不可解でサンジは戸惑った。
「もはや助からぬと、苦しむ父上を楽にして差し上げたいと、自分自身に言い訳しながら刀を振り下ろした俺は確かに興奮していた。肉を貫く手応えに、噴き出す血潮に気が昂ぶった。このままでは母も死ぬと、それならばいっそこの手でと、やはりまた言い訳をしながら母上も斬った。たまらない気持ちだった。」
その時、血に塗れた手であったように、ゾロは今浅黒い掌を開いてじっと見ている。
「肉を斬り骨を断ち、血を迸らせて絶命する息吹が堪らなかった。それを己が与えたかと思うと余計興奮した。確かにあの時、俺は外れたのだ。」
人の道を。
剣の道を。
「友を失い、親を失い、家も村も失って、それでも俺の前に道はあった。朱に染まった修羅の道こそ、己の進むべき道しるべに思えた。」








ああ―――
遅すぎた絶望がサンジを支配した。

恐らくは本能で恐れていたことが、現実になっていた。
はるか昔に、もうすでに終わったこととして。

「なんで…そいつらは、なんのために…」
「なに、当時謀反を企てていた藩主の裏組織だ。腕の確かな子供を集めて暗殺要員を養成していた。俺もそこに編成され、それからはある意味修行の日々だったな。」
ゾロの声音はあくまで軽い。
わざとではなく、無意識にも過去に悲壮感を抱いてないということは、この男はまだどこか狂ったままなのだろうか。

サンジは頭を振ってゾロの腕に手を添えた。
暖かい、血の通ったぬくもりがある。
この男は自分が知っているゾロだ。
あの日、お日様よりも強く優しく笑ってくれた、高潔な武士の子だ。


「どうして、どうしてゾロだったんだ。道場で目をつけられたのか?ゾロは、誰よりも強かったから?」
だがあんな田舎の道場をわざわざ偵察に来るとは思えない。
ならばなぜ、いやその前に。
どうして自分の身売りにあの武士が関わったのか…

「ゾロ、まさか…」
あの日、自分を襲った男たちは見かけない武士だった。
それを打ち据えたのは子供のゾロで…
まさか、まさか―――




「ゾロ…」

蒼褪めて唇を震わせるサンジの頬に、ゾロはそっと手を添えた。
無言で首を振る。
だがサンジにはそれが肯定に見えた。

「ゾロ、俺のせいか?俺があの時…襲われたから…」
あの男たちは山越えの途中だった。
サンジと出会わなければあるいは、何事もなく通り過ぎて行っただけだろうに。

「ゾロ、俺の…」
「違う、結局は俺が撰んだ道だ。」
「ゾロっ…」
耐え切れず、サンジは畳に手をついた。
ゾロの、奥底に潜む魔性に気付いていながら、それが目覚めぬようにと祈り身を引いたつもりだった。
まさか自分がその元凶になっていただなんて―――

「サンジ、てめえのせいじゃねえ。」
かくりと項垂れた白い首筋を庇うようにゾロの腕が回された。
肩を抱いて胸に引き寄せる。
慰めるつもりの優しさが余計に辛くて、サンジは手でゾロの胸元を突っぱねた。
「畜生、俺…なにも知らなくて…」
「知らないでいい。お前に関係のないことだったんだ。それにもう、すべて終わった。」
サンジの掌の下で、ごつごつとした太刀筋が呼吸とともに押し付けられる。
サンジは震える指で傷跡をなぞり、顔を上げた。
金の睫毛に縁取られた双眸が蒼く滲んでいる。

「ゾロ…この傷は…」
「俺が暗殺者として実戦に出る前に、組織は崩された。」
隠密により計画は暴かれ、藩は取り潰しとなった。
あの武士と共に追っ手から逃れたゾロは、峠を越える道すがらその男とも対峙した。
まさに命を懸けた死闘だったが、最後に勝ったのはゾロだった。

「見てのとおり深手を負ったが、こうして俺は生きている。結局は生きた者の勝ちだ。」
自らの傷を撫で、薄く笑うゾロの顔は満ち足りた獣のようだ。
ゾロにとって痛みの記憶すら苦しみにはなりえないのだろう。




ぽつりと、白い手の甲に落ちた雫を、サンジは信じられない思いで見つめた。
間違いでなければ、これは自分の瞳から流れ落ちた涙だ。
村を出てより、涙など流したことがなかったのに。
今ここで止め処もなく溢れ出す涙は、自分のためのものではないのに…

「泣くな。」
困ったようにゾロが呟く。
「泣いてない。」
怒ったようにサンジは呟く。

それでもサンジの視界はぼやけて鼻の奥がつんと痛んだ。
傷を覆うように刻まれた紅蓮の彫物。
それらにゾロが蝕まれてしまうようで無意識に腕に爪を立てた。

「これは、俺への戒めだ。」
ゾロは襟から片手を差し入れると諸肌を脱いだ。
肩にも背にも、まさに燃え盛る炎のごとき朱が刻み付けられている。
「父を母を焼いた炎。そして俺を目覚めさせた消えない血潮。すべてを自分自身に刻み込んだ。
 決して忘れないように。俺の罪も業も全部。」
それならば、その咎を背負うのは本来自分であるべきだ。
そう思って、そう言おうと開いた唇は、そっと塞がれた。

思いもかけない行為に動きを止める。
軟らかく重ねられた唇はすぐに離され、ゾロはサンジを伺うように顔を傾けた。
「泣くな、泣かないでくれ。」
泣いてなどいないと、言い返す声が震える。
ほたりほたりと白い頤から滴り落ちる雫に、サンジ自身がなす術もなくただゾロの袂を握り締めるしかできなかった。

「お前の思い出だけが、唯一の俺のまともな記憶なんだ。」
ゾロの言葉に顔を上げる。
困ったように笑う、浅黒い顔が滲んでぼやけた。
「人斬りの修業ばかり繰り返し、裏切りや謀略しかなかった暮らしで、それでも空を見上げればお前と同じ
 青が見えた。金の輝きが見えた。それを思う度、俺はほんの少しの間、人として立ち返ることができたんだ。」
その面影が唯一の幸福な記憶として。
そう穏やかに語るゾロの髪を、サンジは手を伸ばして撫でた。
頭を抱えるように胸元に引き寄せる。
ゾロは素直に頭を垂れてサンジの腰を抱き返した。
サンジは溢れる涙を拭うこともせず、ただゾロを抱き締めた。





道を外れ、闇に生きるとしても―――
いつか、その胸に花が咲くように。
凍てついた大地を溶かし、芽生えを誘う雨のように。
いつか、花が咲くように。



泣きやまぬサンジに抱かれて、ゾロはそっと慈雨の下で目を閉じた。









蘖へ