サンジは白み始めた夜明けの空を、ゾロに凭れてしみじみと眺めた。
こんな風に朝を迎える日が来るなんて思いもしなかった。
「夜明けってのは、気持ちのいいもんだな。」
まるでサンジが心の内で思っていたことを代弁するようにゾロが呟く。
逞しい肩にそっと首を傾けて、サンジも小さく頷いた。
「こんな風に柔らかな光に包まれた朝もあれば、禍々しいばかりに真っ赤に染まる朝焼けの日もある。
 でもそのどれもが、俺は好きだ。」
言外にゾロを好きだと匂わせてしまったようで、少し頬を染めた。
花魁の身でありながら何を青臭いことをと自嘲し、不意に大変なことを思い出す。

「ぞ、ゾロっ」
「どうした?」
やにわに起き上がり取り乱すサンジに、ゾロもまたつられたように身構える。
「ゾロ・・・」
もう一度呟いて困ったように眉を寄せた。
「なんてこった、夜が明けちまった・・・」
そりゃあ夜明けを一緒に見てたのだから、そうだろう。
何を今更と言い掛けてゾロも気付く。
「あ・・・」
「・・・」
サンジは真っ赤になって口元を袂で隠す。
恥じているのか、金の髪から覗く耳朶まで染まっている。

「悪い、せっかく馴染みになってくれたってのに・・・」
床にも入らずうっかり語り明かしてしまった。
花魁にあるまじき失態だ。
「今からってのは、駄目か。」
思いがけないゾロの言葉に息を詰めて、薄く笑みを返した。
「もう七ツ半過ぎてる。もうすぐ迎えが来るから・・・」
狼狽を隠してサンジは身支度を始めた。
ゾロも仕方なく腰を上げた。

さっきゾロの口から今からでもと言われて、どきりとした。
ゾロはやはり、そのつもりでここに来たのだ。
それなのに昔語りばかりしてしまって、なんてことをしてしまったんだろう。
それに―――
ゾロも、俺を抱きたいと思ってんだろうか。

ゾロは特別な思い入れのある唯一の幼馴染だ。
確かに恋情のようなものは感じているが、ゾロの方も自分をそんな目で見ていることが意外だった。
ゾロにはもっと綺麗で粋な女性が似合うと思う。
こんな男の身でありながら着飾った、中途半端な陰間崩れに心を動かされるとは思えない。
ゾロにとっても俺は特別な幼馴染らしいから、気を遣ってくれてるのかもしれねえな。
一応職業がこんなだから、ちゃんとしないと悪いとでも思ったのだろう。
やはり根は優しい男だと、サンジは益々申し訳なく思った。

部屋からゾロを送り出すために、改めて向き合ってゾロの襟元を直す。
その手を包み込むように掴まれて、静かに口付けられた。
身体の芯に火がついたように、かっと火照る。
夕べの優しく慰めるようなそれではない、劣情を伴った激しい口付け。
舌を絡め強く吸われて、サンジは膝の力が抜けそうになるのを辛うじて堪えた。
名残惜しげに離れた唇から、濡れた唾液が糸を引いて光る。

「・・・また、来る。」
後朝の別れの度聞かされる台詞なのに、ゾロの言葉は瞬時にサンジを捉えてしまった。
それを悟られたくなくて、返事もせずに背を向ける。

ゾロの静かな足跡が遠ざかり雀の囀りだけが残される頃、サンジは朱の布団にへなへなと座り込んだ。
しんと冷えた空気に指の先が凍えるほどに寂しいのに、身の内は燃え立つほどに熱かった。












また来るなんて言葉を聞くから、待ってしまうのだ。
所詮、自分は男の訪れを待つ籠の鳥でしかない。
それを充分承知していながら、今日は明日はと日を数える愚かな自分がいる。
大名や商家の出ではないゾロが、総籬の戎屋に足繁く通えるはずも無いことはわかっていた。
ましてや人斬りなどと、明日をも知れぬ危うい生業を持っていて再び逢える保証などどこにもない。
そのことが酷く不安でありながら、都合のいい言い訳にもしてしまう。

ゾロは、俺に会いたくてもそう容易くは来れないだろう。
会いに来たいと思ってくれているだろうか。
会いたいと、思ってくれるだろうか。

それともあれは、常套句で。
また来ると言うのはほんの社交辞令で―――
もうこれきりと、思っているかもしれない。
それとも、会えば―――
今度は抱いてくれるのだろうか。

あれこれと思ってみては、小さく息をつく。
こんなにも心が千々に乱れるなんて、花魁失格だと己を責めながらもため息は止まらなかった。






鼈甲に螺鈿をあしらった豪奢な簪が白い手に乗せられた。
「あれこれと取り寄せたんだがね、どれもこれも黒髪に映えるような金細工ばかりで困ったよ。お前のように黄金の髪に乗せてはどれだって色褪せちまう。」
確かに、殆ど黒に近い鼈甲と鈍く光る螺鈿は一見地味だが、自分のような派手な髪には似合うだろう。
恐らくは特注で作らせた名工の手によるものだ。
「嬉しゅう、ありんす。」
サンジは両手で抱くように簪を抱き、微笑んだ。
それだけで、安宅屋は脂下がったようにでれでれと相好を崩す。
「そうかいそうかい、喜んでくれるかい。どれ、わたしが刺してあげようかね。」
サンジの手から簪を抜き取ると、そっと肩に手をかけた。
サンジは心持ち身体を傾け素直に頭を差し出す。
随分と大柄なサンジに小柄な安宅屋が精一杯手を伸ばして髪に触れる様は、端から見ればさぞかし滑稽だろう。
肩にかけた指が小刻みに震えている。
それに自分の手を添えかけて、サンジはためらった。

安宅屋は、もう随分長く自分の元に通ってくれている。
茶屋への気配りも心得ているし、身代も羽振りはいいようだ。
毎回こうして高価な贈り物を携えて会いに来てくれる。
なのに、安宅屋には一度も肌を許していない。
それとなく話を向けられても、サンジは笑って誤魔化してきた。
安宅屋もそれで誤魔化されてくれていた。
随分非道な話だと思う。
自分が安宅屋だったなら、いい加減業を煮やして無理やりにでもコトを起こすだろう。
そうされれば、サンジとて抵抗はしない。
自分には勿体無い、過ぎるほどの上客なのだ。
それなのに、安宅屋はいつも黙って酒を飲みサンジと話を交わして夜を過ごす。
安宅屋の優しさに、甘えてしまっているとも思う。

「ああ、やはり思ったとおりよく映える。美しいよ。」
満足げに目を細め、安宅屋はしげしげとサンジを眺めた。
「大切に、いたしんす。」
「この貝の珠櫛もよく使ってくれているね。そうして私が来ている時にだけでも気をつけて身につけてくれるのは、とても嬉しいよ。」
穏やかにそう言って、安宅屋は肩から手を離した。
が、すぐにぎゅっと掌を握り、自分の膝の上で揉みしだくようにもじもじとさせる。

「・・・ところで、だね。もうそろそろ・・・」
来た。
どきどきとサンジの胸が鳴り出した。
生娘でもあるまいし、これを生業として生きていながらどうしても最初は身構えてしまう。
「私と懇ろになって、貰えないかね。」
野暮な安宅屋の物言いを好ましく思う。
本来ならばサンジとしても、もう充分気を引いた頃合だとわかっている。
なのに・・・
「そんな、安宅屋さん・・・」
サンジはいつものように袂を口元にあてて艶やかに笑っていた。
何を言い出すのかと、心底おかしそうな素振りで。
「そのお気持ちは嬉しゅうありんす。」
そう言って、それ以上続けず頭を下げた。
安宅屋の表情が目に見えて落胆する。
それでも、強張った笑みを浮かべてゆっくりと首を振った。

「そうかいそうかい。こう見えても私は気が長いんだ。なあに、こうしてお前と夜を過ごせるだけで充分だよ。」
安宅屋の優しさに、涙が出そうになった。

こうしたことは、駆け引きが難しい。
最初に馴染みになった時点で、よほど嫌いな相手でもない限り身体を繋げるのは普通なのに、サンジはどうしても中々その一歩を踏み出すことができない。
逆ギレしてこの陰間風情がとサンジを罵り去っていく客もいた。
こういった手合いは野暮の極みと、後に茶屋のみならず吉原中で袖にされる羽目になったが、そのことが原因で遣り手女に折檻された夜もあった。
けれど、花魁の身でありながらも太夫だからこそ、サンジの潔癖さは上客に受け入れられている。
サンジと身も心も一つになれる者は、金や地位だけではない限られたお大尽なのだ。
この安宅屋は、そうなっていい相手だとサンジは思っている。
ゾロのことがなければ或いは、もう今宵サンジは安宅屋に身を任せていただろう。
それなのに。
どうしたことか、ゾロのことが頭から離れず他の男に身を任せることができない。
このままでは上得意のお大名黒鰐が来ても、とても共に夜を過ごすことはできそうにない。
かと言って、意味も無く拒むことも出来る訳が無く――――

サンジは安宅屋の胡麻塩頭をそっと引き寄せて、自分の膝の上に乗せた。
まるでとって食われるように身をちぢ込ませた安宅屋は、それでもサンジの膝の温もりに目を細めて目を閉じる。
うとうととまどろみ始めた安宅屋の、目尻の皺を撫でながらサンジはそっと溜め息を吐いた。
いつまでもこうしてはいられない。
ゾロのことは、きちんとケリをつけなければ。
そう思いながらも迷わずにいられない、自分がいた。






それほど日を置かずゾロが顔を見せてくれたのは幸いだった。
たしぎが悪戯っぽそうに顔を輝かせて中継ぎをしてくれて、茅も自分のことのように喜んでくれている。
サンジはそれがどうにも気恥ずかしくて、わざとつっけんどんな態度でゾロを迎えてしまった。
「ようこそ、おいでやんした。」
「・・・なんで口が尖ってんだ。家鴨みてえだぞ。」
ゾロの言葉に慌てて茅が袂で口を押さえる。
サンジは仏頂面を隠そうともせず乱暴に裾を払ってゾロの横にひたりと座った。
「なんでありんすかね、それは。あちきは籠の鳥でありんすよ。」
「似合わねえな。」
ぼそりと呟いたゾロの言葉に、サンジより周りのものがぎょっとする。
ゾロは酒で口を湿らせると用意した花代を茅に手渡した。
「まあ、こいつとゆっくり飲ませてくれ。」
茅は黙って手をついて頭を下げる。
たしぎや他の新造たちもしずしずと席を立った。
二人きりの座敷で、サンジは改めてゾロの杯に酒を満たす。
それを飲み干して、ゾロはサンジにも杯を手渡した。

「なんだ、怒ったのか?」
「別に。」
紅に彩られた唇で、すいっと酒を吸い取るとまた杯をゾロに返した。
「俺はこういうナリで商売をしてるんだ。着飾って男と寝てなんぼの世界だよ。わかってんだろ。」
自棄気味にそう吐き捨てて、猪口ではなく空いた茶碗に酒を注ぐ。
ゾロは黙ってそれも飲み干した。
「まあな、金ぴかしたモンをちゃらちゃらつけて、色とりどり布団見てえなモン巻きつけてご苦労なこった。」
ゾロの言葉に、サンジは何故だか哀しくなった。
ゾロの言うとおりなのだ。
けれど、誰に言われても平気なはずのそんな言葉が、今はやけに胸に痛い。
「確かにてめえにはよく似合う。見ただけで観音さんか天女かと疑うくらい、目が眩みそうな出で立ちだ。
 だが、俺が知ってるほんとに綺麗なてめえは、こんなんじゃなくていい。」
一瞬間を置いて、サンジはゾロを振り返った。
「言っただろ。俺はてめえが綺麗なことを最初から知ってるんだって。さぞかし高い道具なんだろうが、そんなモン頭につけてなくたっててめえの髪はお日さん見てえに綺麗なんだ。どんだけ手の込んだ刺繍とやらがしてあろうと、着物なんか着てない方が、よっぽど綺麗なんだよてめえは。」
ゾロの言葉に、かあっと頬が熱くなった。
これではまるで、口説かれているようだ。
「ば、か言ってろ。俺は男だぞ。確かに花魁なんてやってっけど・・・」
徳利を置いて指の先で畳の目を辿る。
「綺麗っつわれて、嬉しかねえや。」
「・・・お前、そんなんでよく花魁なんてやってんな。」
心底呆れたと言う風なゾロの物言いに、サンジはきっと顔を上げた。
「てめえ相手だと調子狂うんだよ。俺だって、その気になりゃあ男を手玉に取る戎屋一の看板太夫だぞ。」
「いやその言い方がすでに、可愛い過ぎるぞてめえ。」
くしゃりと皺が寄るように笑って、ゾロはサンジの背中に手を当てた。
ぐいと力を入れて強引に抱き寄せる。
「・・・いや、あのな・・・」
「嫌か?」
「・・・そう言うんじゃなくてだな」
何か言いかけたサンジの唇をゾロはそっと塞いだ。
軽く食むように唇で誘って舌を差し入れる。
サンジは目を開いたまま視線を彷徨わせて、ゾロの襟元を縋るように掴んだ。
「んふ・・・」
つい鼻から漏れた息が艶めいた響きを残す。

本来ならばこれも花魁の技であるべきなのに、なんとも気恥ずかしく居たたまれない。
ゾロはねっとりと舌を絡めたまま口を開けた。
まだ見開いたままのサンジに見せ付けるように笑って見せる。
恥ずかしいのを通り越して腹立たしくなって、サンジは目を瞑ってゾロの舌に噛み付いた。
「・・・ほんとに、そんなんでよく太夫なんてやれてるな。」
音を立てて唇を離して、ゾロがからかう。
「いつもの俺は、違うんだっての。」
自分でもおかしいのはわかるから、サンジは開き直って言い放った。
もういいや。ゾロの前でかっこつけても長続きなんて、しやしない。
サンジは襟元を掻き合わせるように胸に手を当てて、ゾロの肩に凭れかかった。

「なあてめえ、俺と・・・してえ?」
おずおずと、それでも真っ直ぐな問いに苦笑する。
「ああ、してえ。」
そのために来てるんだと、付け足す。
サンジは悔やむように目を伏せた。
「ごめんな。高い金出して来てくれてんのに、こないだはあんなことで・・・」
「いや、あれはあれで楽しかった。」
ゾロは思い出したように目を細めて、それから不意に真顔になった。
「お前が嫌だってんなら、今夜も語り合うだけでいい。けど、俺は本当はやりてえんだ。」
台詞に似合わぬ真剣な面持ちに気圧される。
「てめえがやらせてくれるまで、何度だって通うぞ。焦らすのもてめえの仕事なんだろ。」
あまりにあけすけで率直過ぎて、また胸が痛んだ。
ゾロの言うとおりなのが、哀しい。
「そうだ、俺は客に気を持たせて、金使わせんのが商売だ。けど、てめえにだけは・・・」
そんなことをしたくないと、口に出してしまっていいのだろうか。
黙って哀しげに俯くサンジに、ゾロはそっと手を添えた。
「悪い、そういう意味じゃなかったんだ。てめえの仕事のことはわかってる。俺がただの客だってのも承知してんだ。だけどよ。」
ゾロらしくも無く言いよどみ、サンジの白い指に手を絡めて握り締めた。
「太夫と客って割り切るんじゃなくて、てめえを抱きてえ。」
つくんと胸の奥が疼く。
これは痛みに似た甘い痺れ。

「幼馴染ってえのとも違うんだ。確かにてめえのことは友達だと思ってたけどよ。なんつーんだ?その・・・あの雨の日にてめえと逢って・・・」
ガシガシと空いた手で頭を乱暴に掻く。
「一目見ててめえだとわかったがよ。それでも、なんつうか・・・逢いてえと、思ったよ。」
思い出の幼い日々に恋情などない。
けれど、サンジもあの雨の夜、まるで雷に打たれたかのようにゾロに見入った。

「こうして座敷で着飾ったてめえを見て、綺麗だと目を瞠ったよ。けどほんとに綺麗なのはとっくの昔から知ってる。だからって、裸のてめえが一番綺麗だとか、そう言って剥きたい訳じゃないんだぞ。・・・なんつうか・・・」
上手く言えない唐変木の手を引いて、サンジは自分からその首に腕を回した。
「俺もだよ。大事な幼馴染で美味しい鴨である前に、俺はてめえに惹かれてた。」
自分からその唇に口付ける。
「花魁でも幼馴染でもねえ、俺はてめえに抱かれてえよ。」
ゾロはそれ以上何も言わず、サンジを緋色の布団の上に横たえた。





花明へ