■ほろ酔い横丁牧野酒店二階角(株)霜月組 -5-



夜の帳が下りた頃、マキノ酒店は店舗のシャッターを下ろし、隣にある間口の狭い扉に暖簾を掛ける。
そこここに赤提灯が点り、ほろよい横丁はしっとりとした賑わいを見せてきた。

「こんばんは」
「あらサンジさん、いらっしゃい」
マキノさんは、昼間はバンダナを頭に巻いたエプロン姿でチャキチャキ働く看板娘だが、夜は小紋の着物を粋に着こなす小料理屋の女将さんに変身する。
若く見えるが、実は一児の母だ。
「ロロノアさん、もう見えてますよ」
「え、ゾロもいるの?」
サンジが目を丸くすると、マキノはあらまあと言う風に袂で口元を覆った。
「お待ち合わせじゃなかったのね」
「うん、たまたま・・・」
うっすらと頬を染めたサンジに、悪戯っぽく微笑む。
「相変わらず、仲の良いこと」
「そ、そうでもないよ」
嘯きつつ、いそいそと奥の間に向かう。
戸口に控えていたヤスは、それではと姿を消した。
あくまでサンジのボディガードなので、傍にゾロがいるならもう用はない。

「うっす」
てっきり雅も一緒かと思ったが、ゾロは奥まったボックス席で一人、チビチビと杯を傾けていた。
サンジを認め、片方だけの目を軽く開いて見せる。
「まーた酒ばっか飲んでる」
「飯は、帰ったら食うつもりだった」
「だったらここで食ってこうぜ。俺はなんだか、今日は飯作る気力がねえ」
サンジはそう言って、カウンター越しにマキノに「いつもの」と声を掛けた。
まだ宵の口で、客は少ない。
ボックス席は客側からは死角になるし、店内の音が聞こえる割にこちらで話す声が外に漏れないというお得席だ。

ゾロの冷酒を拝借して、軽くグラスを掲げた。
「どうした?」
「なにが」
サンジは杯をそっと唇に寄せて、すいっと冷酒を吸った。
冷たさが喉に沁み入り、体内からじんわりと熱が湧き出てくる。
「日本酒も、たまにゃいいな」
「だろ?」
しばらく黙って冷酒を舐めていると、マキノがお通しとサンジが好むカクテルを持ってきた。
「どうぞごゆっくり」
マキノが行ってしまってから、お通しに箸を付ける。
「で、どうした」
「なに」
ほぼ同時に声に出して、チラリと目を合わせる。
サンジの方が先に、ふて腐れたように下唇を突き出した。
「なに、俺がどうかして見える?」
「凹んで見える」
「へっ」
お見通しかよと、冷えたカクテルに手を付けた。
サンジが好きなカクテル、アマゾン・リリーは情熱の赤だ。
「じゃあさ、単刀直入に聞くけど。うちの事務所ってもしかして、追い出され掛けてる?」
ゾロはその問いに答えず、サンジから返されたグラスに酒を注ぎ足した。
しばらくすると、マキノが料理を運んできた。
テーブルいっぱいに手際よく皿を並べ、最後に一升瓶をどんと置く。
「それでは、ごゆっくり」
先に料理と酒を出してしまって、後はこちらから呼ばない限り誰もやってこないので楽だ。

大皿料理を取り分けながら、サンジは「それで?」と促した。
「はっきり答えやがれ、事務所はどうなってんだ?」
「追い出されるな、このままなら」
ゾロは素直に肯定して、料理に箸を付けた。
「えー、どうすんだよ」
「どうしようもない」
海獣肉の唐揚げに齧り付き、水のようにすいすいと酒を飲み干す。
普段はすかしているくせに、サンジの前ではゾロは旺盛な食欲を見せる。
頬袋を膨らませまるで子どもみたいにがっつくのに、食べ方自体は綺麗で見ていて気持ちがいい。
「そんな、みんなもどうすんだよ」
大問題のはずなのに、ゾロはあくまで素っ気ない。
自分一人が慌てたって何もできることはないとわかっていながら、心配せずにはいられなかった。
「俺はここの事務所しか知らねえけど、ほんとはもっと別に本社?的なとことか、あんの?」
「ねえ、霜月組はあの事務所と親父だけだ」
「じゃあ、めっちゃ小規模じゃん。ってか、アットホーム過ぎじゃん」
ほぼ『家族』と言ってもいいような人数と構成だ。
ただ、ゾロや雅を通じて手駒になって動く組織は他に複数存在している。
それを“傘下”だと形容しないのが、親父さん達のやり方なのだろう。
霜月組を本気で動かしたら、きっとどこのだれも敵わない。

「もしこの事務所から追い出されたら、どっか行く当てあんのか?」
「さあなあ」
緊急事態だというのに、ゾロはどこか他人事のようだ。
そりゃあ、ゾロならどこへ行ったってなんとでも上手くこなすだろう。
外見は強面で片目でちょっとアレだけれど、頭の回転は速いし腕っぷしも強い。
きっとどうにでもして生計を立てられる。
けど、組のみんなはどうだろうか。
気のいい奴らばかりだけれど、それはあくまで身内に対してのみだ。
力による上下関係の中で暮らしてきた彼らは、一般社会には溶け込めない。
カタギの暮らしなんて、想像しただけでも絶対無理だと言い切れるくらい不適合だ。
「なんかさあ、凹むわけよ」
サンジは煙草に火を点けて、ふうと切ないため息を吐いた。
「こう、酒屋のおっさん達とかと話してるとほっとする。ちょっと離れた、俺のこと知らない三丁目辺りとか行くと、妙に盛り上がってんだよ暴力反対で。俺、今日なんか署名求められたんだぜ?霜月組退去要請の署名」
「へえ」
ゾロはおかしそうに、片頬を歪めて笑った。
「それでどうした、署名したのか」
「する訳ねえだろ!」
呑気な態度に腹を立て、サンジは乱暴にカクテルを呷った。
「ただ、ムカついたけど、俺もムカついたけどなにも言わないで、一応その場は濁して立ち去るしかできなかったよ。そこで、なんか言ったら、ややこしいことになるだろ?」
「賢明だ」
ゾロが頭を撫でようと手を差し伸べたので、顔を背けて避ける。
「ったく、なんでこうなっちまったかなあ。この辺の店の人達は、みんな友好的じゃん?時計屋の跡取りとかは違うらしいけど」
そこまで言って、はっと気づいたようにゾロを振り返る。
「やっぱ知らないから?ほら、横丁の人達とかは昔から知ってるじゃん、組のこと。だからいいけど、やっぱ世代交代で知らない人たちが警戒すんだよね」
ゾロは「なにをいまさら」と言いたげに、目を眇めた。
「で、俺が関係者だって知ってる人は友好的なんだけど、知らない人は・・・ってか、なんで知らないんだろう」
今さらなことに気付いて、サンジは首を捻った。
「二丁目とか三丁目辺りは距離こそちょっとあるけど、商店連盟とか一緒じゃん。だったら、俺が組の関係者だってのももっと知られててもいいんじゃねえの」
「――――・・・」
ゾロは何も言わないで、サンジの煙草から1本抜き取った。
口に咥えて首を傾けるから、ライターで火を点けてやる。

「俺のこと、知ってる人と知らない人がきっぱり別れてる気がする、不自然だ」
静かに煙を吹かすゾロの顔を、正面からじっと見つめた。
「もしかして、俺のことを内緒にしてんのか?商店街の人も」
「俺からなにか、言ったことはねえ」
そこで初めてゾロは口を開いた。
「口止めなんざしなくても、馴染みの人らなら考えてくれてるだろ」
そういうことかと、サンジは腑に落ちた。
組のみんなだけでなく、商店街の人達にも守られていたのだ。
やたらと組関係者だと広められることもなく、ただの大学生として扱ってくれている。
裏の世界に巻き込みたくないゾロの気持ちを慮ってというより、大人としての常識でそう振る舞ってくれているのだろう。
だから世代交代した店主や、少し離れた地域の組に馴染みのない商店主たちはサンジのことを知らないのだ。

「なんか、ありがたいような切ないような」
「お前がアレコレ考えることじゃねえよ」
頬杖を付いて煙を吐くサンジに、ゾロは素っ気なく答えてグラスを空けた。
手を伸ばし一升瓶を片手に持って、注いでやる。
「でも、まだもう一つ腑に落ちないことがある」
「なんだ?」
サンジは胸に引っ掻っているモヤモヤを、言葉にしてみた。
「時計屋さんの跡取りとか、今日知った店の店主とか署名してた人達とかが、アクティブ過ぎる」
そうなのだ。
いくら身近に組事務所があるのが怖いとはいえ、そうやすやすと追放運動を展開したり警察に通報したり、街頭で署名運動を始めたりなんて、普通ならすぐ行動に移せない。
そこに至るまでにはなんらかの逡巡や躊躇いがあるはずで、行動するならそれなりの準備期間だって必要なはずだ。
「なんか手際が良すぎるってえか、ほんとに一般人?とか思えて――――」
ふと顔を上げると、ゾロは小鉢が並んだ辺りに視線を定めて笑みを浮かべていた。
煙草を揉み消し、なんとも悪そうな笑顔でチロリとサンジに視線を合わせる。
「お前・・・」
「・・・なに」
ゾロの全開の笑顔は逆に不気味で、サンジの方が引いてしまった。
それ以上は何も言わず、手を伸ばしてポンポンとサンジの頭を叩く。
「だからそれ止めろって、子ども扱いかよ!」
抗議をすると、ゾロはすぐ手を引っ込めて代わりに一升瓶を突き出した。
「なに、俺も飲めって?」
チャンポンはすぐ酔いが回るから苦手なのだが、ゾロに薦められるとつい嬉しくて断れない。
結局、そのままずるずると深酒をして意識を失くし、ゾロにお持ち帰りしてもらった。





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