春の夜の夢2    -1-



ピン、ポー…ン――――


聞き慣れない音がする。
ブルックが奏でる楽器でも、警笛でも電伝虫の呼び出し音でもない。
どこか遠慮がちに間延びして響き、一拍置いてまた音がした。
しばらく静かになった後、カチャカチャと金属音がする。

――――なんだ?
目が覚めるより耳から情報を得て、ゾロはぱちりと目を見開いた。
自分が寝そべっている場所に、違和感を覚える。
柔らかなベッド、カーテンの間から漏れる穏やかな光。
肌に触れるのは見張台の硬い床でも、毛羽立った毛布でもない。
――――ここは、どこだ。
気配を殺し音を立てずに、素早く起き上がった。

「…おはよー、ございます」
部屋の外から、声が聞こえる。
起こそうとする意図のない、静かに低めた声だ。
「ロロノアさん、寝てますかー」
問いかける形だが、本気で聞いてはいない。
むしろ独り言のように、言葉に出すのが義務みたいにぼそぼそと喋っている。
ゾロは不審げに眉を潜め、それから改めて周囲を見渡した。
シンプルな作りで、ホテルの一室のような部屋だ。
どこか島に逗留して宿にでも泊まったかと記憶を辿るが、何も思い出せない。

昨夜は見張りで、明け方まで起きて海を眺めていたはずだ。
いつ寝たか覚えてはいないが、敵襲があったなら嫌でも目が覚める。
第一、今の自分の服装からして信じがたかった。
こともあろうに、パジャマを着ていた。
戦闘員たるものいついかなる時でも有事に対応できるべく、ゾロは眠る時も着替えないし靴も脱がない。
そのせいで5割増し臭いと一部には不評だが、海賊稼業だから当たり前だろうと開き直っている。
そんな生活をしていたはずなのに、まさかのパジャマ姿に我ながら震撼した。
―――― 一体俺は、なにしてんだ?

ドアの外の気配は、相変わらずそこにある。
耳を澄ますとなにやらごそごそと音がして、作業を始めたらしい。
ゾロはそっと立ち上がり、ソファの上に畳まれた衣服を見つけた。
どうやら、これを着ろということらしい。
見回しても、どこにも刀がない。
明らかに異常事態だが、殺気も緊迫感もないのでとりあえず慎重に事を進めた。
パジャマ姿では戦えないし、どこにでも飛び出せるよう靴も履くべきだろう。
だが靴はなく、スリッパだ。
明らかに、ホテルの一室で寛いでいる状態だ。

――――能力者に嵌められたか?
まさに狐にでも摘ままれたような心地で、ともかく衣服を着替えた。
こそこそするのは性に合わないから、そのまま堂々とドアノブを回して部屋を出る。
申し訳程度の狭い廊下を通り抜け、気配がするキッチンらしき扉を開いた。

「わ!ロロノアさん、おはようございます!」
いきなり振り向いた金髪の顔を見て、さすがのゾロも仰天して口を開ける。
「――――・・・」
「すみません、起こしちゃいました?うるさくしちゃったかな」
――――なんだこれは。
目にしたものが俄かには信じられず、ゾロはしばらく呆然として目を瞬かせた。
そんなゾロの態度に、金髪は緩く首を傾けて一歩近づいた。
「あ、寝ぼけてるのかな。ロロノアさーん」
そう言って、ゾロの目の前でひらひらと掌を揺らめかした。
バカにしてんのかと、いつもなら叩き落とすところだが実際には硬直して動けない。
―――― 一体なんだ、この生き物は。

ゾロより遥か下の目線で、金髪にくるりと巻いた珍妙な眉はコックそっくりだ。
けれどその瞳は大きくまるく、嬉しげに煌めいてゾロをまっすぐ見上げている。
ピンクのエプロンを身に付け、水色のシャツにピッタリとした黒いパンツを履いた姿はコックとほぼ同じ雰囲気だが、どこか違った。
なにより、ゾロへの接し方が無防備すぎる。
「いまご飯作りますね、顔洗ってきてください」
そう言って、にっこりと効果音が出るくらい晴れやかに笑った。
思わずゾロは、自分の後ろに誰かいるかと反射的に振り向いてしまう。
当たり前だが、誰もいなかった。
ここには自分だけだ。
もう一度向き直ると、コックもどきが目を丸くして見つめていた。
「ロロノアさん、ほんとに大丈夫?」
「…あ、ああ」
まさか、この笑顔が自分にのみ向けられているのか、と思い当たってゾロはがーっと全身の血が沸騰するほど熱くなった。
いかんいかん、コックもどきに笑い掛けられたくらいでこんなに動揺してどうする。

ゾロは努めてさり気なさを装い、洗面所があると思しき方向に歩いた。
コックもどきはそれ以上深追いすることなく、あっさりと背を向けて作業を続けている。
これは罠だ。
完璧に、敵の罠だ。
だが状況もわからず刀の行方も不明な今、下手に抵抗しても得策ではないだろう。
とにかく、現状を把握し落ち着いて行動するよりほかはない。
まずは、敵情視察だ。

そんなことを考えながら、洗面所の鏡を見てぎょっとした。
そこには、見知らぬ男が映っている。
正確には、どこかで見たことがあるような顔だ。
緑の短髪も顔立ちも自分にそっくりだが、決定的にどこかが違う。
両眼が揃っているのはもとより、皮膚や表情筋が違った。
ぶっちゃけ、自分で見てもよくわかるほどに老けている。
――――こりゃあ、誰だ。
自分の掌を頬に当て、感触を確かめた。
実際に、頬に触れている手も、触れられている頬も自分のモノとして感覚がある。
だがこれは俺ではない。
無精髭が浮いた顎のざらつきに顔を顰め、ついで片目を閉じた。
どうやらこの男も隻眼のようで、右目を閉じると何も見えない。
左目は、精巧に作られた義眼のようだ。
鏡を覗き込んでよくよく見れば、自分と同じように縦に走る傷跡が見て取れた。
実によく似ている。
ゾロを元にして、十数年後に老けさせたようなリアルさだ。
目元と口端に浮いた皺を引っ張ってなぞり、それからゾロは諦めたように顔を洗った。

キッチンに戻ると、食卓にはゾロの好物がずらりと並んでいた。
それらを前にして、コックもどきがエヘヘと照れたように笑っている。
「今朝はド定番メニューにしてみました。鮭の西京焼きにだし巻き卵、なめこの味噌汁にほうれん草の白和え、縮緬雑魚ときゅうりの酢の物」
一つ一つ説明してから、さあどうぞと掌を差し出す。
「座ってください、ロロノアさん」
ゾロは、言われるままに腰を下ろした。
敵がどのような魂胆でいるのか皆目わからないが、こうして食べ物で懐柔してくるつもりなら何が混ぜられているのかわかったものではない。
コックによく似た人物を使っているのも、ゾロの好みの食材ばかり並べられているのも、すべて辻褄が合う。
罠だ。

本来なら、ゾロは毒だろうが刃物だろうが問題なく消化できる。
だが今は、別人の身体だ。
この身体では、たとえ少量の毒でも重篤な事態に陥るかもしれない。
敵はそれが狙いか。

「いつもコーザがいると、洋食メニューになりがちですもんね。二人きりの時くらいロロノアさんの好みに合わせちゃいますよ」
コックもどきはそう言って、うひゃあと軽く声を立てぎゅっと目を閉じて首を竦めた。
「ふ、二人っきりとか、調子に乗っちゃってすみません」
顔を真っ赤にして俯いたから、ゾロはもう気が逸れっ放しだ。
とにかく、このコックもどきは心臓に悪い。
コックそっくりの顔立ちと声をしているのに、その仕種の一つ一つがあまりに違う。
ぶっちゃけ、めちゃくちゃか、…かわ――――

「んだとおお?!」
思わず声が出たら、コックもどきがふわっと座ったまま飛び上がった。
「ロ、ロロノアさん?」
「…ん、あ、いや」
慌ててゴホンと咳払いをした。
いま、俺は何を思っていた。
可愛いとか、訳わからん単語が飛び出しそうになってなかったか?!

内心の動揺を押し隠し、太腿の上に置いた拳を力強く握り締めた。
どうリアクションしていいのかわからない。
とっとと斬り捨ててしまえれば話は早いのだが、なんせ今は状況を窺っている状態だ。
下手に手を出して、後で面倒なことになっても困る。
最悪、元の身体に戻れないとか船に帰れないとか、面倒くさいじゃないか。

まるで自分自身に言い訳するかのように考えを巡らせ、ふと顔を上げた。
そう言えば、ここは一体どこなのだろう。
なにもかも疑問に思うのが遅すぎる。
と言うか、船に帰るって一体どこの船だ。

この場所は違う、自分は違うと頭では分かっているのに、じゃあどこから来たのかと思い起こせば明確な記憶がなかった。
見張り台だの敵の罠だの、部分的な認識はあるものの具体的になに一つ覚えていない。
まるで霞でも掛かったようにぼんやりとしている。

――――こりゃあ、夢か。
確かに、夢の中でならあり得るような展開と感覚だ。
それにしても随分とはっきりした夢だなと、混乱するより諦念してゾロは椅子に座り直した。

目の前に座るコックもどきは、まるで小動物のような仕種で首を傾げて見ていたが、思い立ったように手を伸ばして背もたれに掛けた上着のポケットを探った。
中から煙草を取り出し、慣れた仕種で口に咥えて火を点ける。
随分とガキ臭いコックもどきだが、こいつも煙草を吸うのかとゾロは漠然と思った。
思いながら、なにもかもが不明瞭なのになんでアホコックのことだけは覚えているかなと、自分のことながら腹立たしかった。

口うるさくて小生意気で素直じゃない、顔を合わせれば喧嘩しかしないような間柄だ。
ゾロは特段喧嘩を売ってる自覚はなかったが、口を開けば嫌味しか言ってこないから同じように返していたら、いつの間にかゾロの方から挑発する流れになってしまった。
いまでは、喧嘩を吹っ掛ける率はゾロの方が高いかもしれない。
なにもかも、あのエロコックが悪い。
おかしな感じに巻いた眉を吊り上げ、口をへの字に曲げてガアガア言い返してくる様が、面白いからいけないのだ。
喧嘩も手加減なしでできるのがいい。
コックは、交わすのが上手い。
本気の拳が、万が一にもあのすかした面に減り込んだらそれはそれで後味が悪かろうが、綺麗に避けてくれるから安心して繰り出せる。
そこまで考えて、俺なに言ってんだ?と素で突っ込んだ。
相手をやり込めるからこその喧嘩だろう。
手加減なんざまっぴらだが、力の差が歴然の相手には本気を出せない。
本気で殴り掛かっても余裕でかわして、せせら笑って挑発して来るぐらいがちょうどいいのだ。
って言うか、さっきからなんであのアホ眉毛のことばかり考えてんだ俺は。

自分自身に苛々して奥歯を噛み締めていると、対面に座ったコックもどきが肘を着いて顎に手を当て、じっと見つめている。
その視線が、先ほどまでの態度と微妙に違っていてゾロも思わず睨み返した。
「…なんだ?」
「あんた、誰?」
警戒するようにすっと瞳を眇めた顔は、ゾロが知るコックのモノとよく似ていた。
年齢も外見も少し違うが、根っこが同じもののように思える。
いま自分が宿っているこの身体もまた、ゾロ自身であると本能で悟っているように。

「――――俺が聞きたい」
ゾロは開き直って、背もたれに凭れ腕を組んだ。
コックもどきは煙草を指で挟み、自分の顎を支えたまま剣呑そうに眉を寄せる。
「どこから見てもロロノアさんなのに、絶対違う」
「確かに俺ァロロノア・ゾロってぇ名前だが、てめえも俺が知ってる奴と違うな」
そう言って、ちらりと横を見た。

テーブルの横には大きな食器棚があった。
そのガラス面がちょうど鏡のように、二人の姿を映し出している。
向かい合って座る二人は、まるで親子のようだ。
大人と子ども。
ゾロが覚えている、喧嘩相手との関係性とはまるで違う。

「どういうことだよ、ロロノアさんの兄弟?双子かなにか?」
「んな訳あるか、目が覚めたらここにいたんだよ」
なぜかゾロの方が責められる形になっていて、困惑しつつも説明を試みる。
「どうせこりゃ夢かなんかだろ、クソコックが妙に若返りやがって」
そう言うと、コックもどきは目を見開いて驚きを露わにした。
「コックって、俺のこと?」
「てめえの名前なんざ知らねえよ、ただ俺が知ってるコックとその眉毛とか頭とかが一緒なんだよ」
喧嘩腰で答えると、コックもどきは困惑したように自分の髪に触れた。
「その、コックの名前は?」
ゾロは思わずぐっと言葉に詰まってしまった。
さらっと名前を言えばいいのだが、なぜか躊躇われる。
この場にコックはいないというのに。

「俺、サンジって言うんだけど」
「それだ、一緒だ」
渡りに船とばかりにすぐさま肯定したら、一層不審そうな顔で見られた。
「あんた、誰?」
「俺はロロノア・ゾロだ」
再度名乗ったら、サンジは舌打ちして携帯灰皿に煙草を揉み消した。




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