春黄金 -3-



雨は午後になっても降り止まなかった。
当初の予定通り、ゾロはのんびりと朝寝の続きに昼寝などして居間でゴロゴロしている。
暫くは碁の相手などしていたサンジも、午後の気だるさに誘われるようにゾロの傍らに寝転がってうとうとと船を漕ぎ始めた。
手枕で微妙に揺れる小さな頭を、ゾロ自身も半分まどろみながら柔らかく撫でてみる。

サンジの髪はさらさらと流れて、指通りがいい。
山で拾った時は汗と垢に塗れて絡まっていたが、里に降りて湯に浸けて梳れば、艶やかな絹糸のようになった。
その髪を、手慰みに撫でて梳くのがゾロは気に入っている。
武骨な指で撫でられながら、サンジもまたうっとりと目を閉じていた。
ゾロの側は温かく、居心地がいい。
体温が高いせいもあるかもしれないが、何故かとても落ち着く“気”が感じられるのだ。

サンジ自身は覚えていないけれど、赤ん坊の頃にこうして母狐に包まって眠ったこともあったのかも知れない。
ふさふさの腹に鼻先を埋めて、丸まった尻尾の先で背を覆われながら、心の底から安らいで眠る夜があったのだろう。
そう思いたくなるような、穏やかなひと時だ。


ゾロの襟元に鼻先を突っ込んで、小さく吐息を漏らす。
ゾロの匂いがする。
汗と男臭さの混じった、野生的な匂いだ。
ずっと雨が降り続いているのに、お日様に干した布団の匂いもする。
サンジが大好きな白粉や香とはまったく違うのに、サンジはこの匂いに包まれると安心してふにゃんと力が抜けてしまう。
そろそろ夕飯の仕度をしなきゃとか、雨戸を閉めないと土間が湿気るとかおやつ作ろうかとか、色々と思いつくのに身体がだらけ過ぎてまったく言うことを聞かない。



くうと蚊の鳴くような小さな音を立ててゾロの腹の虫が鳴った。
まどろみかけていたサンジが、ぴょこんと首を上げて瞬きをする。
「あれ、もう八つ半か」
―――お八つ、食べよう
そう思うと居ても立ってもいられなくて、サンジはゾロの腕の中からもそもそと這い出た。
ゾロは端整な横顔をそのままに、すっかり眠り込んでいる。
呼吸に合わせて膨らむ小鼻を、つい摘まみたくなる悪戯心をなんとか堪えて、サンジは足音を立てないようにそっと立ち上がった。

―――たしか、戸棚の上に大家さんから貰った餅があったはずだ。
ゾロはサンジの留守中にあれこれ引っ掻き回して勝手に食べ物を漁るような真似はしないが、うっかり置いておくと生のままで齧ってみたりする粗忽なところがある。
だからサンジは、きちんと料理してある食べ物以外はゾロの目に触れないように気を付けていた。

「あった、これこれ」
懐紙に包まれた餅を取り出そうとしたら、ひらりと何かが落ちてきた。
大き目の紙だ、何かが描いてある。
―――瓦版だろうか
サンジは拾おうと手を伸ばし、ぎょっとして動きを止めた。

「・・・ぎゃっ?」
つい、喉の奥から妙な声が飛び出てしまった。
言ってから自分の声に驚いて片手で口を塞ぐ。
だが時遅く、サンジの声に驚いたゾロが素早く起き上がっていた。
「どうした、鼠でも出たか?」
鼠よりもマシだがしかし―――

サンジは声を上げてしまったことを恥じながらも、どんな顔をしていいかわからずワタワタしながら膝をついた。
元凶の紙を拾い上げようとして、先にゾロに横から攫われる。
「なんだ、枕絵か」
「って、なんだよそれ」
つい詰るように声を上げてしまった。

ゾロが手にしている紙いっぱいに、なにやら大胆な絵が描いてあったのだ。
最初は何がなんだかよくわからなかったが、急に全部の構図が見えて思わず赤面してしまった。
男と女が絡み合って、口を吸っている。
しかも着物の裾をお互いにすっかり捲り上げていて、全部丸出し・・・だったような気がする。
ちゃんと見てないのだけれど。

「こないだ菱屋で仕事したろう。そん時、給金と一緒にこれもくれた。名のある絵師の作だそうだが、なかなかどうしてよく描けてっだろ」
そう言ってサンジの目の前に突きつけてくる。
サンジははあまあと、口を開けたまま相槌だけ打ちはしたが、目はそれを見ないように宙に逸らせた。
「ガキにはまだ早えわな。目の毒って奴だ」
ゾロはそうカラカラ笑うと、脅かして悪かったとまだ硬直しているサンジの頭をポンポンと叩いた。

戸棚の上にそれを放り込むと、何事もなかったように戸を閉めて涼しい顔をしている。
サンジは足元に転がった餅を拾い上げ、バツが悪そうに両手で抱いた。
「・・・その、それどうすんだ?」
「あ?」
もう一度寝転がろうときびすを返したゾロが、立ち止まり振り返る。
「あの、あんな絵・・・とっといてどうすんだ?」
「別にどうもしねえが」
ゾロはポリポリと後ろ頭を掻き、誤魔化しでなく頭を傾げた。
「たかが絵だが、いっぱしの絵師が丹精込めて書いたもんだ、無碍にはできねえ。それに菱屋は見る目があるから、ゆくゆくはてえした値打ちもんになるやもしれねえしな」
そう言ってから詫びるように頭を下げる。
「おめえの目に触れねえよう気をつけていたつもりだったが、悪かった。驚かしたな」
「・・・別に」
サンジはそっぽを向くと、口を尖らせて肩を怒らせた。
「驚いたけど、別に絵くらいどってことねえや。どうせ俺はガキだし、狐だし」
「まあ、その内てめえもあれの世話になる日が来るかもな」
「んな訳あるかっ」
意味はわからなかったけど、何故かそんなことを言うゾロが嫌だ。
「よくわかんなかったけど、んなやらしい絵見て鼻の下伸ばす訳ねえだろ、ゾロじゃあるまいし」
そう言い捨てて、餅を抱えたままとてとてと部屋を飛び出した。
とり残されたゾロは所在無さげにざらついた顎の下辺りを撫でて、また寝転びに奥へと向かった。









「美味いな」
「だろ?黄な粉が絶品だぜ」
口の周りに粉を纏わり付かせながら、二人してもふもふと餅を頬張った。
火鉢の灰がぱちりと爆ぜて、春の雨で冷えた空気を和らげてくれている。
「よく降るなあ」
「んでも、雨脚は随分治まってきたな。霧雨みてえだ」
サンジは熱いくらいの餅を両の指で摘まんだまま、ぶるりと肩を震わせた。
「ざあざあ降るのも困るけど、こういう雨って寒さが染み付く感じがすんだよな」
ゾロはふとサンジの頭に目をやった。
縁側に雨が吹き込んでいるわけでもないのに、細かな水滴がいくつも髪について控えめに輝いている。
「湿気んだな。もうちょっと奥に入れ」
「あ、ほんとだ板が濡れてる」
「別に廊下なんざいい。お前が風邪を引く」
懐から手拭を取り出し、火鉢の上から手を伸ばしてサンジの髪を乱暴に拭いた。
急に前髪を掻き混ぜられて迷惑そうに両目を瞑りながらも、サンジの口から小さく笑い声が立つ。
「止めろって、寒かねえよ」

本当に、寒くなどない。
独りで山にいた頃は、例え春とは言え雨のひと粒でも身に染みて、骨の髄まで冷えたものだ。
今から思えば、あれは寒いというよりも寂しかったのだ。
心細かったのだ。
もう一度山に帰れと言われたら、多分自分は悲しくなるだろう。
昔は平気だったことが、いつの間にか耐えれないほど辛いことになっている。

同じ山に行くのなら、ゾロと一緒の方がいい。
それならきっと、篠突く雨の野原でも雪に覆われた山奥でも、寒さなんて感じない。

そんな風に思えるのは、今の自分が幸せだからだ。
屋根のある家に住んでいるから、だけじゃない。
人に囲まれて安心して暮らせているから、だけじゃない。
多分側にゾロがいるから。
それだけで、十分に温かく安らげる。

今だってこうして、ゾロが見つめていてくれると思うだけで顔まで熱く感じられる。
「どうした、風邪でも引いたか。頬が赤えぞ」
ゾロの掌が額を覆った。
サンジの冷えた肌より、ゾロの手の方が数倍熱い。
「火鉢で当てられたんだ」
そのことがおかしくて、サンジはクスクスと笑った。


不意に、サンジの髪が黒く変化し丸い島田髷になる。
到来を告げるより先に誰かが来たと知れて、おサンは慌てて立ち上がろうとした。
「いい、俺が出る」
ゾロはおサンを制して餅を一口に頬張ると、立ち上がり玄関に向かう。
「旦那様」
「なんだ?」
サンジにそう呼ばれるとなんだかむず痒いのだが、おサンならば違和感はない。
「口元を拭いてからになさってください。黄な粉がついております」
笑いを堪えながら、顔を伏せて手拭を寄越す。
それを引っ手繰るようにしてゾロはごしごしと顔を拭くと、照れ隠しか大股で玄関へと向かった。



おサン姿のサンジはすぐに茶の用意をしていたが、すぐに姿が変化して元のサンジに戻った。
ほどなくゾロも縁側に戻って来る。
なんとも便利な妖力だ。
「お客さん、帰ったのか?」
「ああ、越後屋から遣いだ。急だが今夜、見張りに立って欲しいとよ」
サンジは少し顔を顰め、客用に煎れた湯飲みをゾロの前に置いた。
「なんだよ、ゾロは便利屋じゃねえっての」
ゾロの腕を見込んでの依頼なら悪い気もしないが、断らないのをいいことに容易く頼ってくるのはなんとなく面白くない。
機嫌を損ねたサンジに反して、ゾロは気楽なものだ。
「越後屋は阿漕な商いをしてるだけあって敵も多い。うまく運べば用心棒への払いも奮発してくれっからな、あれは俺らの扱いをよく心得てやがる」
「・・・そんな奴に使われなくても、道場と寺子屋だけでも充分やっていけっだろ」
サンジはそれだけ言って、ぷいと顔を背けると土間に下りた。

別に、自分一人の食い扶持が増えた程度で生活が苦しくなったりしないとゾロは笑い飛ばしてくれるけど、
サンジの気持ちはそれでは治まらない。
せめて身の回りの世話くらいと思っておサンの姿で励んでいるが、本当はどこかで日銭を稼いででも、ゾロに恩返しをしたいのだ。
大人の男の姿になれるならと、この時ばかりは都合よく願ってしまう。
そんなことを思っても詮無いことなのだけれど。

何故急に機嫌が悪くなったのかわからず、ゾロは首を傾げながら残りの餅を口へ放り込んだ。
少し冷めて固くなった餅も、噛み締めればほんのりと甘かった。




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