晴レタ日 ソラシタ 1



むっとする草いきれの中で、ゾロは目を覚ました。

風に揺れる笹葉が頬を叩くのに、はっきりとした感触や痛みを感じない。
眼前に広がるどんよりとした空と果てなく続く草原に見覚えはなく、なんとなくこれは夢だなと思った。

夢を見ていると、自覚できる夢。


手をついて身を起こした。
手だと思うものは茶色い毛に覆われて黒い模様が入っている。
丸まって鈍くて、指の感覚はなかった。

完全に身体を起しても目線が低い。
そう高くない草丈に隠れる程度にしか視界が広がらない。

「なんだこりゃ」
言ったつもりが、響いたのは唸り声だ。
要領を得ない、喉を鳴らす音と鼻息。
ゾロはもう一度足元を見た。
手だと思うものは足のように踏ん張っている。
その場で腰を下ろして空を見上げた。
意思に反して視界の隅にふよふよと縞模様の尻尾が揺れる。

ケモノだな、とやや無感動にゾロは悟った。
毛並みから察するに虎だろう。
しばし風に吹かれるまま目を閉じて考えたりもしていたが、無意識に腕を舐めたり胸のあたりを毛づくろいし始めた。
なんの違和感もなく行われる動作は、ずっと前から虎だったことを示している。
ゾロはたいして深く考えず、虎に身を任せてみることにした。






曇っていた地平線の彼方は中途半端な朱に染まってやがて光が失われていった。
どうやら夕暮れだったらしい。
ひたひたと真の闇が忍び寄るのをゾロは興味深く見ていた。
人間の目とは違う、獣の視界。
ゾロも夜目の利くほうだが、やはり虎は格段に違うなと笑ったつもりで髭を揺らした。

中空に半端な半月が顔を出し、闇の草原を青白く照らし出す。
ゾロは毛づくろいを終えて静かに歩き出した。
どうやら腹が減っているらしい。
獲物を見つけに行くのか。
虎として歩きながら、ゾロの気分は高揚した。


風に乗って獣の匂いがする。
何かはわからないが、美味そうな匂い。
兎かネズミか―――――
虎はなんだって食べるんだっけか。
どうせなら鹿くらいの大物がいないものか。

匂いの主は、上手く風下に廻って立ち去ろうとしている。
ただの虎なら誤魔化され逃げられただろうが、一応中身はゾロだ。
人間並みの思考は持ち合わせている。
よく見える目と鋭い鼻で獲物の動きを探った。

気配を感じ取り神経を集中させる。
ほんのすぐ側で蹲っている。
虎の足はどれくらい早いのだろうか。
あれこれ考えるより早く、ゾロは飛び出していた。





闇に跳ねたのは狐だ。
月を受けて青白く光る尾を靡かせて懸命に逃げる。
歩幅が断然違うゾロは余裕で追いかけて追い詰めて、爪を出してその細い背に打ち下ろした。
か細い悲鳴みたいな音が聞こえる。
断末魔の声を聞くまでもなく喉笛を噛み千切った。
血の匂いが食欲をそそり、前足に押さえつけられた胴体はまだ温かく震えている。
腹裏の柔らかな部分から貪るように食った。
生肉だとか内臓だとか、人間として敬遠すべき事柄は今のゾロには露ほども引っ掛からない。
虎そのものになり切って喰らい尽くし、骨まで舐めた。
美味かった。
べろりと口端から鼻まで舐めて、満足そうに首を振る。
さっきまで狐だったものは、銀に輝く毛皮を残して夜風に揺れている。
食べ残されて捨てられた顔にはやはり銀色に光る眼が、虚空を見つめていた。










鳥たちのさざめく声で目を覚ました。
よく晴れた青い空が地平の彼方まで広がっている。
太陽はとうに昇り、遠くにはガゼルの群れが沼場で水を飲んでいた。

まだ虎かよ。
夢なのに、一晩眠ってもまだ覚めない。

まあ夢ん中の時間は現実とは違うからな。
えらく長い間夢を見ていた気がするのに、実際はほんの一瞬だったりする。
だからこの夢も一晩経っているように思えて実はほんの数秒もかかっていないのだろう。
それでも昨夜は・・・と思い起こした。

腹が満ちて満足して、眠くなったのだ。
生きるために食うだけの生活。
虎としちゃあ、悪くない。
ふと思い立って、昨夜の残骸を探してみた。

食ってすぐ寝たからそう遠くには行ってないはずなのに、痕跡が残っていない。
骨の欠片も、匂いさえもない。
ハイエナにでも持ってかれたか?
やや釈然としないながらも、ゾロである上に虎なので、そう頓着しなかった。






適当に草原を歩き、水を飲み、毛づくろいをし、昼寝する。
腹は減ってないから獲物を捕る気にはならない。
虎だから鍛錬も出来ない。
1日の大半を寝て過ごしながら、ゾロは呑気に暮らしている。

虎生活も板についてきた。
このまま虎として生きていく羽目になるんじゃないかと、さすがのゾロも危惧し始める。
昼間は寝て過ごし、夜は獲物を捕らえて喰らう生活がもう数日続いている。



獲物は兎だったりガゼルだったり、狐だったりした。
兎やガゼルはともかく、狐は妙だ。
ゾロはまだ人間らしく考えた。

動物はどれも同じに見えるが、狐は特に同じに見える。
模様や色違いなんてものがないせいかもしれないが、毎回喰らう狐が同じ狐のように思う。
ふさふさとした尻尾を揺らし、しなやかに駆ける美しい狐だ。
月光の下でしか見ないから銀色の毛に銀の瞳を持っている。
いつもひょっこり現れて、ゾロに食われる。
その肉は実に美味くて、匂いを嗅いだだけでゾロの口中に涎が沸いて出てきた。

そう、匂いが同じだ。
ガゼルや兎はそれぞれ同じ種類でも匂いが違うのに、狐だけはいつも同じだ。
まるで同じ狐を毎回喰らっているようだ。




虎には不似合いな思考を残して、夢うつつで目を覚ました。
空気が湿り気を帯びている。
今日は少し雨が降るかもしれない。
立ち上がって木の下へと移動するのに、昨夜の残骸がまだ傍らに残っていた。
鹿の頭と骨と皮。
ハイエナたちが処分したりしていない。
兎だって、翌朝には臭いくらい残っている。
なのに狐はいつも忽然と消えていた。
屍の片鱗すら窺うことが出来ないくらい、完璧に。

ゾロは虎らしく首を振りながら草原を横切った。
ひとしきり降った雨は草原を濡らし、夜を真の闇と化す。
身体を震わせて毛皮についた水滴を落とすと、ゾロは舌なめずりをして木陰に身を伏せた。
いつもより鼻は効かないが、目を凝らして闇を見る。

ほんのかすかだが、狐の匂いがする。
ゾロにとってこの上ないご馳走だ。
だが草葉の陰に、別の生き物が顔を出した。

虎だ。
同類、かよ。
まだ人間性も残っているゾロは見下した気分で同類を見た。
ゾロよりひとまわり小さな虎は、口に獲物を咥えている。
銀色の毛が力なく揺れていて、あの狐だとわかった。

ゾロの頭にかっと血が上る。
あの狐を、他の奴に獲られた!
なぜだか非常にむかついた。
感情はそのまま素直に表に出て、ぐわおと闇を裂くように吠えた。

正面の同類は歩みを止めて、耳を立てている。
怒っているのか戸惑っているのか、生憎ゾロは虎の表情なんて読み取れない。
同類ごと食う気で前に飛び出した。
牙を剥いて威嚇する。
相手の尻尾が丸まって後足の間に入った。
多分、驚いて怯えているのだろう。
ゾロは容赦なく鼻面で吠え立てて圧し掛かろうとした。
虎は咥えていた獲物を置いて、唸りながらもさっと身を翻して闇へ逃げていった。

―――――虎ってえのは、人の獲物横取りしたり、すんのかよ。
ちょっと冷静に人間に立ち返って考えて見る。
よくは分からないが、目の前にはあの狐が横たわっていた。
もう死んでしまっているのだろうか。
くんくんと匂いを嗅げば、小さな鼻面がぴくりと動いた。
まだ息はあるらしい。
鼻をくっつけて匂いを嗅ぎまくる。
クソ虎の匂いもするが間違いない、いつも食うあの狐だ。

ゾロはふと思いついて話し掛けてみた。
虎ではない、人間として。


「俺は、お前をいつも食ってねえか?」

もちろん虎だから声なんか出るわけがない。
でもどこかにそれが響いたのか、狐は弱々しく目を開けた。
「聞こえんのか。言ってること、わかるか。」
狐は目を閉じて、それからぺろりと舌を出した。

「・・・わかったのか、俺を食ってるって・・・」
ビンゴかよ、とゾロは驚く。
「やっぱり、お前を食ってんのか、俺は。」
「・・・そうさ、いつも俺だ。」
ひゅう、と狐の喉が鳴った。
「なんでだ?なんで生き返る?」
「・・・話は、あとだ・・・もう、もたね・・・」
ぴくぴく、と小さく痙攣してだらりと舌が伸びた。

狐は死んでしまった。
ゾロは仕方なく、まだ暖かいそれを食べた。
いつものよう喰らい尽くした。




段々と虎に成り切っていく自分に不安を感じていたゾロだが、狐との出会いで少々気が晴れた。
なにせ会話を交わせたのだ、獣同士とは言え。
ゾロは昼間、惰眠を貪らずに草原を駆け回ってみた。
どこかであの狐を見かけないかと思ったのだ。
だが一向に見つからない。
匂いすら感じない。
あの狐が現れるのは決まって夜の闇の中だ。
だから日が暮れると闇に身を潜ませる。
神経を張り巡らせて狐を探す。
他の奴に獲られる前に、俺が見つけてやる。
なんだか使命感に燃えたみたいにゾロははりきった。




――――いた。
あの狐だ。
身を屈めて辺りを窺いながら忍び足で歩いている。
ゾロは「おい」と声をかけた。
獣の唸り声だったけど、狐はぴくりと耳を震わせて頭を上げた。
「俺だ。」
ゾロが顔を見せると、狐は身を翻して逃げた。
「おい、待て!」
ゾロも追う。
狐は逃げる。
全速力で追いかけるうちにゾロの中の狩猟本能に火がついた。
逃げる狐を追う。
捕まえる。
爪をかける。
その背を引き裂き、喉笛を引き千切った。
気がつけば、ゾロは口の周りを真っ赤に染めて殆ど喰い尽くしていた。

―――――しまった。
後悔しても後の祭りだ。
ゾロはぺろりと鼻の頭を舐めて、取り敢えず眠ってしまった。







今夜こそはと気を改めて狩りに臨んだ。
いや、狩りじゃねえ。
話し合いだ。
人間らしく、こほんと咳払いしてみせる。
例え話が通じるとは言え、所詮相手は狐だ。
驚かしちゃいけない。
自分は虎で相手は狐。
どうにかうまく話ができないものか。

逡巡していたら、闇夜にぴょんと光が跳ねた。
どうやら例の狐が何かに追われている。
ゾロは猛然と駆け出した。
誰であろうが狐に手を出す奴は許して置けない。
そいつは俺が食うんだ!
叫びは咆哮となって草原に鳴り響いた。




血で汚れた毛皮を、でかい舌でべろべろ舐める。
狐はぺたんと耳を倒して、諦めたようにされるがままだ。
「てめえ、弱すぎっぞ。」
「・・・仕方ねえだろ。俺は狐だ。」
食い込んだ牙の傷跡は深くて、狐はもう立つことが出来ない。
「ったく、俺が食うのによ。」
「結果的にてめえが食うんだから、いいじゃねえか。」
髭を揺らして笑った気がした。
つくづく変な狐だと思う。
「なんでてめえ、何回も生き返るんだ。」
「知らねえ。」
狐はそっけない。
傷が痛むのか呼吸が荒くなってきた。
「知らねえけど、俺はどうやら食われたら生き返る。闇から生まれて光に溶けるんだと。誰にも食われずに朝を迎えたら俺は消えてなくなっちまう。」
「…誰だ、んなことほざいた奴は。」
「知らねえ。もう覚えてねえ。」
狐は弱々しく目を閉じた。
「・・・もう、食えよ。」
それきり動かなくなった。
ゾロは躊躇いなくその屍を食った。



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