晴レタ日 ソラシタ 2



その次の夜――――――

ゾロは草原にぽこんと突き出た大岩の上に座って待っていた。
真ん丸の月が昼間みたいに辺りを照らして、いい感じに風が吹いている。
髭をそよがせてうとうとしていると、嗅ぎ慣れた匂いが近づいてきた。
薄目を開けて、ちらりと見る。
斜め後方から銀色に光る獣が近づいてきた。

「よお。」
「おう。」

警戒するように頭を下げながら、それでも狐は側までやってきてぺたんと座った。
「なんだ、今日は逃げねえのかよ。」
「てめえが追いかけて来ねえからだ。逃げるのは本能だよ。」
そんなもんかね、と思いながらゾロは岩から降りた。
狐の身体がそれとわからない程度に小さく揺れて、毛が逆立っている。
「お前よお、毎日食われてんのか。」
「おうよ。」
「大体俺に、だな。」
「お前横取りまでするじゃねーか。俺的にはてめえらみてーなむさ苦しいオスじゃなくて、麗しいメス虎にでも食われてーんだが・・・」
ゾロはまるでどっかの誰かみてえなことを言うなと思った。
だがそのどっかの誰かが誰だかは、もうわからない。

「なんで食われても生き返るんだよ。」
「だから昨夜も言ったろ、わかんねーって。」
「けど、食われんだぞ。痛ーだろ。」
「ああ、痛えなあ。」
どこか他人事みたいに、狐は嘯く。

「痛えし、怖えしよ。苦しいし。何度ももう、終わりにしてえって思ったよ。」
「終わり?」
「俺が誰にも食われずに、死なずに朝を迎えたらそれで終わりだ。」
やっぱり、にへんと狐は笑った。
狐のくせに、笑いやがる。
「じゃあてめー、朝まで生き延びたことがねえのか。」
ゾロは素直に驚いた。
毎晩毎晩、食われるなんて、いくら自分でも耐えられそうにない。
「俺って美味いらしいんだ。匂いとかよ。だからぜってー見つかって食われる。」
「けど痛えんだろ。」
「痛え、死ぬほど。」

ゾロは考え込んでしまった。
毎日食われて生き返る。
これは死ぬより辛いじゃねえか。

「確かに、お前は美味いがな。」
独り言のつもりで呟いたら、狐はなんだか嬉しそうに笑った。
「そうかよ。てめえは割と楽に俺を食ってくれるからな。一番厄介なのは成長期の子虎に獲られることだ。狩猟の勉強も兼ねてるから半殺しのまま弄ばれる。痛えし辛いし、早く楽にしてくれって、思うぜあれは。」
ゾロは元から虎だった訳ではないから、その辺の生態はよくわかっていない。
だが話を聞いている限り、そりゃひでえなと思った。
「その点てめえはそのでかい口でがぶりと一噛みだからな。案外苦しくねえんだ。」
頤を小さく震わせながら狐はゾロの側に来た。
本能で怯えているのに、気丈に振舞っているのだろう。
ゾロはべろんと狐の首裏を舐めた。
全身の毛を逆立たせて、それでも前足で踏ん張って耐えている。
顔やら耳の裏やら胸やら腹やら至る所を舐めまわした。
確かにこの狐は美味い。
匂いを嗅いでいるだけで涎が出てきて止まらないくらいだ。
うっかり噛み付きそうになるのを誤魔化すように、ゾロはひたすら舐めた。
隅々まで舐めた。
硬直して震えていた狐も慣れたのか力を抜いてされるがままになっている。

「・・・俺をぴかぴかにしてどうしようってんだ。どうせ食うんだろうよ。」
「まあな、まだ食わねえ。」
顔を舐められて、牙が軽く当たった。
狐の尻尾がぴくんと跳ねる。
「もう、食えよ。ひと思いによ。」
「そんなに怖えなら、なんでのこのこ俺の側に来たんだよ。」
耳の先を舐めると、くすぐったいのかぴるぴる動かす。
「てめえ虎のくせに話せるじゃねえか。」
「てめえだって、狐のくせに話が通じるよな。」
二匹は顔を見合わせた。
多分表情は分からないがお互いに笑ってる。
「変な虎。」
「妙な狐だ。」
そんな風にじゃれ合っている間に、東の空が白み始めた。
狐はぴくりと耳を震わせて背伸びするように首を伸ばす。
「そろそろ夜明けだ。俺を食え。」
「なんでだ。てめえはもう、終わりにしてえんだろ。」
狐はちょっと変な顔をした。
尻尾を2、3度ふらふらと揺らす。
「まあな。けどせっかくだからもう少し、てめえと話してみてえし。」
なんだか言い訳みたいに言葉を綴る。
「てめえの側にいれば他の奴に食われる心配はねえから、いつでも終わりにできるしな。まあとりあえず今日は食えよ。そしたらまた明日会える。」
「会えるのか。」
「ああ、会える。」
狐はぺたんと地べたに転がって腹裏を見せた。
ゾロはその柔らかい毛を丹念に舐めて、ひと思いにがぶりといった。




まだ半分も食べないうちに朝の白い光が草原を照らし出した。
風に揺れる銀の毛がきらきらと朝陽に光る。

―――――なんだ、金色だったのか。
いつも月明かりの下でしか見なかった狐の毛色は、太陽の光を照り返して一瞬金色に輝き、溶けるように消えた。
――――――あ?

骨も肉片も、匂いさえ残さず忽然と狐は消えた。
ゾロは何もない草原をじっと見下ろす。

―――――明日もまた会える・・・
本当に?
本当に、会えるのか?
ゾロはなんだか不安になって、いつまでもそこから動けなかった。












それからは毎晩、狐はゾロの側で過ごした。
そうすれば他の奴に獲られる心配はないし、毎日ご馳走にありつけて飢えることもない。
ゾロにしたら万々歳だが、何故か心は晴れない。
今夜も狐はゾロの懐に潜り込んで、だらしなく腹裏を見せている。
柔らかな毛を撫でて寄せて、隅々まで舐めてやるのが日課になっていた。

そして夜通し他愛無いことを話して過ごす。
お互いに記憶があやふやだからそう多くは語らない。
それでも思い出したことだけぽつりぽつりと話し、もう一方はただ頷いて聞いていた。
話すことがなくなっても、なんとなく側にいた。
夜が明けるまで、側にいる。
狐はどこもかしこも美味い。
匂いもいいし血だって甘い。
腹が満ちて満足なはずなのに、狐を食ってしまった後は虚しくてやるせなくて、夜が明けてもぼんやりと
してしまうのだ。
ゾロは、元は人間の筈なのに、その心の内をなんと呼ぶのか知らない。




ゾロは熱い陽射しを避けて木陰でうとうとと居眠りをしている。
薄目を開けると、すかんと晴れた青い空に白い雲が浮かんで見えた。
目の前に広がる草原は地の果てまでも続いている。

――――――あの狐は金色だった。
月明かりの下では銀色に見えたけど、本当は金色だ。
なら銀に見えるあの瞳は、本当は何色だろう。

他愛ないことを考えて、髭を動かす。
狐のことを考えていると、なぜか胸がぽわぽわして気持ちがいい。
いつも夜が明ける前に食べてしまうから、あの日以来、日の光に照らされた狐の姿を見ていない。
あの狐が昼間もいたら、綺麗だろうなとふと思った。
ふさふさの尻尾を揺らして、青い草原の海を狐が駆けるのだ。
逃げ回るのではなく、二人並んで走るのだ。
ゾロは目を閉じて想像してみた。
陽の光を受けて、輝く毛並みは金色で、振り向いた瞳は何色だろうか。
白昼夢みたいに鮮やかにそんな光景が脳裏に浮かんで、ゾロは虎なのに一人で笑った。

昼間狐のことを考えていると楽しい。
夜、狐を舐めていると哀しい。

ゾロは説明のつかない自分の気持ちに戸惑っていた。
なるだけ苦痛を与えないように、丁寧に舐めてから思い切りよく噛み千切る。
毎晩そうしているのに、最後に小さく痙攣して息を止める狐の身体が愛しくてたまらない。



「そろそろ夜が明ける・・・食えよ。」
いつものように、抑揚のない声で狐が急かす。
けれどゾロは牙を剥けなかった。
「腹、減ってっだろ?」
なんでもない風に聞いてくる狐になんだか腹が立つ。
「・・・食いたくねえ。」
「なんで?もう、俺飽きた?」

ゾロはそれには応えないで、ひたすら舐める。
たらたら涎が沸いてくるが、とても食う気にはなれない。

「食わねえの?」
「食いたくねえ。」
「でも腹減ってんだろ。」
「けど、食いたくねえ。」

狐はくんくんとゾロの鼻面に顔を寄せた。
「食わねえで夜が明けると、俺は消えちまうぞ。」
「・・・わかんねえだろ。」
ゾロが低く吠えた。
風に揺れた草がざわざわとざわめく。
「ほんとに消えるか、わかんねえだろ。」
「・・・でも多分、もう会えない。」
黙ってしまった二匹の間を青臭い風が吹き抜けていく。

「俺はもう・・・てめえを食えねえ。」
ゾロの言葉に、狐は微笑んだ気がした。
寄り添うようにぺたんと座って、東の空を眺める。

「俺ってお日様見たことないんだ。」
ぴんと髭を伸ばして空を仰いだ。
「月と反対に出てくるだろ。凄く眩しくて暖かい。一度見たいと思ってたんだ。」
ゾロはその口元をべろりと舐める。
「太陽が昇ると、空は真っ青になるんだぜ。この草っ腹は一面緑だ。」
「へえ。」
「お前、見たことないんだな。どこまでも広がる青と緑だ。すげー綺麗だぞ。」
「よくわかんねえけど、いいな。」
空がまるで夕焼けみたいに朱に染まった。
地平線から光の帯が広がっていく。




「ああ、綺麗だ。」

狐はまっすぐ前を向いてその様を見た。
風に揺れる毛並みが金色に光っている。
細められた瞳は空を映したみたいに青くて深い。

「ああ、綺麗だな。」
ゾロは狐を見て言った。


少し首を傾げて狐はゾロを振り返る。


白い光が辺りを包み、金色の狐は光の渦に溶けていった。









それきり――――――







狐は二度と、姿を現すことはなかった。



























めったに雨の降らない草原で、今日もゾロは昼間からまどろむ。

うとうとと、うつつに見る夢の中で、ゾロは狐と草原を駆けている。





青い空の下

どこまでも続く草原を

二匹並んで、駆けていくのだ。





































「おい?」



ぱちりと瞼を開ければ、見慣れたぐる眉が一層眉を顰めて立っている。
咥えた煙草はそのままに、なんとも言えない表情でゾロを見下ろしていた。

「・・・腹、痛えのか?っつうか、どうした。」
いつも何かと絡んで悪態を吐いてくる彼らしくない物言い。
ゾロは変な形に固まった筋肉を少しずつ動かして身体を起した。
随分長く眠っていた気がする。
見上げればコックはまだおかしな顔をしている。

額の汗を拭って初めて、ゾロは自分が泣いていることに気がついた。
それもかなり豪快に、頬を濡らしている。

「えーと・・・もしかして脳味噌沸いたか?」
コックの突っ込みも精彩を欠いている。
あんまり有り得ない場面を見たから戸惑っているのだろう。
からかうには格好のネタだが、あまりにゾロの瞳が真摯なので軽口すら叩けない。
ゾロはじっとサンジを見つめた。

腕を伸ばし、その手を掴む。
ぐいと引っ張ればサンジはバランスを崩して呆気なく片膝をついた。

「・・・おい?寝ぼけて…んのか?」
ゾロの視線が外れない。

戸惑うサンジの髪に手を差し込んで、くしゃりと撫でた。
ああ、この色だと思う。
なんだったかは忘れてしまったが、こんな色だったと強く思った。






「お前を失う、夢を見た。」

サンジの口が、ぱかんと音がするかと思うほどあっけなく開いて、また閉じた。





サンジの後ろに広がる空はどこまでも青く、海は果てまで続いている。


ゾロは白い喉笛を噛み切る代わりに、その唇にキスをした。



END



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