グミの実の熟れる頃 -4-


下働きからコックへと昇格し、仕事も俄然忙しくなったが毎日が充実していた。
覚えなければならないことは山ほどあるし、盗みたい技もいくつもある。
コック達は仲間になったサンジを歓迎し、我がことのように喜んでくれた。
オーナーとのわだかまりが消えたことで、自分の視野までがぐんと広がったような気がする。

仕事の充実に紛れて、近所で起きた悲しい事故の記憶はサンジの中で薄れつつあった。
ただ、気がかりなことが一つ。
ゾロがあれ以来、家に遊びに来ないのだ。

サンジの帰りが遅くなったことも起因しているのかもしれない。
ゾロも塾やクラブや、相変わらず続いている道場通いで忙しいのかもしれない。
一度土日に休暇を取って様子を見に行こうと思いながら、日々は過ぎていった。









小春日和の午後、サンジは洗濯物を取り込んでいてゾロの母親と顔を合わせた。
気掛かりだったこともあり、ゾロの様子をそれとなく尋ねようとしたら、垣根越しに駆け寄ってきた母親に先に切り出される。
「いつもゾロがお世話になって」
「いえこちらこそ。ゾロ君、元気ですか?」
「それがねえ・・・」
表情を曇らせるのに、不安が湧いた。
「元気じゃないん、ですか?」
「ゾロ、最近お宅にお邪魔してないでしょう?」
逆に問われて頷き返す。
「なんだかねえ、家でもむっつりとしていつも考え込んでいるような・・・」
母親は頬に手を当てて首を傾げた。
「表情が、消えてしまったんですよ」
「・・・表情が?」
サンジは垣根越しに身を乗り出した。
「なんて言うか、笑わないんですよね。いつもぼうっとしてるか考え込んでるみたいな顔をして、あまり話さなくなったし・・・」
「そんな・・・」

ゾロは確かに愛想のいい方ではなかったが、よく笑ってなんでも喋った。
一緒にいるだけで心があったかくなるような、素直な子どもだったのに・・・
「ほんとなんですか?そんなの・・・」
母親は沈痛な面持ちで頷く。
「もしかしたら、PTSDじゃないかと思うんです」
「PTSD・・・」
最近よく聞く言葉だ。
トラウマとか、そんな感じで。

「やっぱり、事故の影響ですか」
「ええ、あの日から急に変わってしまったんですもの」
誰よりも側にいる母親が、そう言うならそうなのだろう。
無理も無いことだと思う。
仲の良い友達が・・・もしかしたら、仄かな初恋の相手だったかもしれない少女が、ある日突然いなくなってしまったのだ。
しかも、その瞬間をゾロは見ている。
「可哀想に・・・」
サンジは手にした洗濯物を、無意識に握り締めた。

「あの、俺で力になれることがもしあったら、なんでも言ってください」
他人のことだから立ち入れないけれど、サンジは精一杯の気持ちをこめてそう言った。
母親は悲しそうな表情で微笑む。
「ありがとう。本当は、以前みたいに貴方のところに頻繁にお邪魔するのが一番いいと思っているの」
ご迷惑でしょうけどと付け加え、照れたようにうなじを撫でる。
「あなたのことを、まるで自分の手柄話みたいに話してたのよ。おやつが美味しい、ご飯も美味しい。一緒にいるといい匂いがするって・・・」
「・・・食いしん坊ですね」
サンジの軽口に、声を立てて笑った。
「ほんとにね、食いしん坊で我が強くて・・・」
口元に手を当てて俯いた。
「いつまでも幼くて、とっても子どもらしかったのに・・・」

なんと慰めていいかわからず、サンジはまた手の中の洗濯物を揉みしだいた。
立ち話もなんですし、と家に招くことができないのももどかしい。
「・・・仕方ないですよね、大人でもきっと、目の当たりにしたら耐えられないことですもの」
母親は目尻を拭いて、笑ってみせる。
「魘されたり、してませんか?」
「そこまではないみたい。って言うか、そんな風にはっきり症状が出ないのよ。だから気になるの」
気のせいかもしれないという範囲で、変化があるのだ。
「酷い現場、だったんでしょうね」
「そうね、人伝にしか聞いてないから詳しくはわからないのだけど・・・」
そう言って、母親は言葉を切った。
「ゾロから聞いたのは、急にくいなちゃんがいなくなったって、それだけ」
「いなくなった?」
「ええ、隣を歩いていたくいなちゃんの姿がいきなり消えたんですって。すぐ側を掠めるように車が通って・・・」
そこまで言って、母親はぶるりと身体を震わせた。
「私には、身勝手だけどゾロが無事だったことだけで・・・それだけで・・・」
サンジには、その気持ちが痛いほどわかった。
自分勝手なことではあるけど、誰しも、一番大切な人のことを一番に考えてしまう。

「いつか、傷が癒えるといいですね」
口にしてしまえば薄っぺらくて、他人事のような冷たさを伴う台詞だ。
けれどそれ以外、口に出来る言葉はない。
「ありがとう」
母親は少し照れたような顔をして改めてサンジに頭を下げると、足早に歩き去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、サンジは無意識に詰めていた息を吐き出す。
まだ陽射しの残る午後なのに、もう吐く息は白い。
傍らにある木の梢を見上げれば、今年は一度もゾロの口に入ることのなかったアキグミが、枝にぶら下がったまま萎んでいた。



その後、何度かゾロの姿を見かけることはあったが、ゾロがこちらを向くことはなかった。
何人かの友達と楽しそうに話しながら歩いている姿は普通の小学生で、ほっとするような少し寂しいような気持ちになる。
けれど、ゾロからこちらに来るのでなければ声を掛けることは止めようと思った。
ゾロにはゾロの世界がある。
だからサンジはいつも遠目にゾロの姿を見つけては、少しずつ小さくなっていくランドセルを見守っていた。








くいなが亡くなって以来、サンジは命日が近付くと小さなケーキを作ってくいなの家を訪れた。
あの頃ゾロ達に出していたケーキは、まさしく手作りおやつの域を出ていなくて、今思えば素人丸出しの素朴な味だっただろう。
今ならこんなものも作れるのにと、毎年腕を揮ってくいなのためだけにケーキを作る。
くいなの父、コウシロウは毎年喜んでサンジを招き入れてくれた。


その年は、くいなの命日とサンジの休暇が重なった。
今年の改心の作であるケーキを両手に抱えて、木枯らしが吹く道を足早に歩く。
玄関先で、丁度出てきたばかりの人物と鉢合わせになった。
サンジより少し年上くらいの男性だ。
ダークスーツをきっちりと着こなしていて営業か何かかと思ったが、サンジにも深々と礼をして立ち去った。
その丁寧さが不自然でいぶかりながらも、呼び鈴を鳴らして勝手に玄関を開ける。
「こんにちは」
「やあ、いらっしゃい」
すぐ側にコウシロウがいて、穏やかな笑みで迎えてくれた。



愛らしいくいなの遺影の前にケーキを供え、りんを鳴らして手を合わせる。
仏壇には色とりどりの花が飾られ、真新しい線香も立ててある。
先ほど玄関で行き会った人もお参りに来たのかな、とふと思った。

「毎年ありがとうございます。くいなも喜んでいると思います」
「いえ・・・」
サンジは薦められた座布団に膝を乗せると居住まいを正した。
「俺が自己満足で続けていることなので、ご迷惑だったら仰ってください。毎年中途半端な数を持ってこられてもお困りでしょう」
「とんでもない」
コウシロウは柔和な微笑みを湛えたまま、サンジにお茶を出した。
「実は、毎年私が頂いているんです。実に美味しい。レストランに行ったら売ってるかと思ったんですが・・・」
「ああ、いえ」
サンジは頭を掻いた。
「店の方もひい屓にしてくださってありがとうございます」
「美味しいレストランができたって評判ですからね。毎日大変でしょう」
「いや、ボチボチと・・・」

この春から、サンジは支店を任されるようになった。
今までのレストランからは駅2つばかり離れているが、自宅から通うのなら大して距離は変わらない。
しかし支店長ともなると責任は重大で、オープンまでは昼夜を問わず準備に追われていた。

「最近ようやく、落ち着いてきました」
「お若いのに店長になられて、ご立派ですよ」
いやいやいやと、また無意味に頭を下げる。
正面切って褒められるのは、どうにも慣れない。
「差し出がましいことを言うようですが、落ち着かれたところで身を固められる予定はないのですか?」
「・・・は?」
とぼけた訳でなく、本気で何を言っているのかわからなかった。
コウシロウの言葉を頭の中で反芻し、ようやく理解する。
「え、あ・・・そうですね。なかなか・・・」
これまで仕事にばかり夢中になってあまり私生活は省みていなかったが、良く考えたら来年で28になる。
いい年と言えば、いい年だ。
「お仕事に励んでらして、出会いとかありませんかね」
「そうですね。なかなか・・・」
同じような台詞を繰り返しながら、サンジは畏まってお茶を啜った。

今まで何人かの女性とお付き合いをしてきたが、なかなか結婚にまで至らなかったのが現実だ。
付き合っている時は楽しいのに、いざ話を進めようとすると何故か相手の方が逃げ腰になる。
それでいて別れ話を持ちかけられてもどこかさっぱりとしていて、「いいお友達でいてね」なんて言われて、結果的に女友達ばかりが増えた。
「こればっかりは、縁のもので・・・」
「そうですね」
自分から話を振っておきながら、コウシロウはそれ以上立ち入ったことは聞かず茶を啜った。


「それでは、俺はそろそろ・・・」
空になった湯飲みを置いて膝立ちになろうとすると、コウシロウがすっと手で制した。
「もう少し、お待ちいただけますか?」
「え?」
そのまま腰を下ろすタイミングで、玄関の戸が開く音がした。
ドスドスドスと、やや乱暴な足音が近付いて来る。

障子の手間で止まり、その場で腰を下ろした。
衣擦れの音と共に、障子が静かに開く。
「失礼します」
膝を着いて一礼した顔が、サンジを認めて一瞬止まる。

「・・・ゾロ」
久しぶりに、ゾロを見た。
すっかり大きくなって、学ランなんかを身につけて。
でも髪は相変わらず若葉のように青々として、短く切られた毛先がツンツン立っている。
「こんにちは」
ゾロは他人行儀にぺこりと頭を下げた。
あの丸々としたふくよかな顔は面長になっている。
よく日に焼けて、肌が浅黒い。
眉毛は整えられたように綺麗な線を描き、切れ長の目元は涼やかだ。
肩幅はがっちりとし、背中や胸が制服の上から見てもきちんと筋肉がついているのがわかった。
「元気そうだな」
サンジはしみじみと呟いた。
懐かしいような嬉しいような、妙な気持ちだ。
胸が一杯になって、意味もなく涙ぐみたくなる。
年を取ったという事だろうか。


けれどゾロは、サンジの方を見もしないで師匠に一礼すると真っ直ぐに仏壇に向かった。
しばらく手を合わせた後、りんの音が響く。
また長い間手を合わせて、ゾロはこちらに戻ってきた。
「失礼します」
師匠の前で膝を着いて礼をすると、そのまま行ってしまおうとする。
「ゾロ、こちらに座りなさい」
コウシロウが促しても、ゾロは顔を背けたままだ。
「稽古が、ありますので」
そう言って、また一旦座ると障子を開けて廊下の向こうに身を滑らせた。
立ち去る足音は来た時と違い、慎重で静かだ。
気配がすっかり遠退いてしまうのを確認して、サンジは小さく溜息をついた。

「すみません」
何故かコウシロウの方が謝る。
「いえ、とんでもないです。久しぶりにゾロの顔が見れて、嬉しかった」
コウシロウはゆっくりとした動作で茶を注いでくれた。
「久しぶりに顔を合わせたのでしょう。いい機会だと思ったのですが」
どうやらコウシロウは、今日がくいなの命日であることでゾロとサンジを引き合わせようとしてくれたらしい。
ゾロには拒否、されてしまったけれど。

「ゾロは、俺を避けてるんですね」
熱い茶の湯気を吹きながら、サンジは誰にともなく呟いた。
「そう、思いますか?」
コウシロウに問われて、小さく頷く。
「心当たりはあるんです」
丸いメガネの奥で、コウシロウの片眉が微妙に上がった。
「くいなちゃんが亡くなった夜、ゾロは俺のところに来てたんです」
話しながら、サンジは静かに湯飲みを机に置いた。
「俺の帰りを待っていて。暗い部屋の中で一人で。それで、俺に話してくれたのに、俺は・・・」
湯飲みから立ち昇る湯気を見詰めながら、サンジは顔を歪めた。
「俺は、先に泣いちゃったんです」
コウシロウは黙って見ている。
「ほんとはゾロが、ゾロが泣きたかったんだと思います。なのに俺、先に泣いちゃって。結局ゾロが俺を慰めてくれて・・・」
その時のことを思い出せば、今でも鼻の奥がツンと来る。
「俺、もうちゃんとした大人だったのに、まだ小さなゾロを抱き締めて泣いちゃったなんて。恥ずかしいですよね、情けない。ほんとは俺がちゃんとゾロを受け止めて、泣かせてあげなきゃいけなかったんだ」
ずっとサンジの胸を占めていた悔恨だ。
あの時は感情の赴くままに、小さなゾロに縋り付いてしまった。
そのことで、ゾロが変わってしまった。

ぐし、と鼻の下を手の甲で拭うサンジの前で、コウシロウは小さな音を立てて茶を啜った。
「それは、違うと思いますよ」
「・・・え?」
誰にも言ったことのない、サンジの決死の告白を無下に否定されてしまった。
「違うと思います。私は」
やけに自信満々に言い切られ、サンジの方が拍子抜けする。
「・・・そうでしょうか?」
「ええ、もう少し違う理由があると思うんです。私の勘ですが」
「はあ・・・」
とは言え、ゾロがサンジを避けているのは疑いようのない事実なのだ。
「でも結局、俺は嫌われてしまった」
「それも違うと思います」
間を置かずに否定してくる。
優しい人だから、慰めてくれているのだろう。
「ありがとうございます」
見当違いの礼に、コウシロウがゆっくりと首を振った。

「以前、あなたのことを天使だとくいなが言ったと、お話したことがありましたね」
いきなり恥ずかしい方向に話が振られて、サンジはええ?と首を下げた。
「正確にはね、くいなが言ったのではないのです。『ゾロの天使が』と言ったんですよ」
「・・・はあ・・・」
意味がわからない。
「ゾロがね、天使がいると言い出したんです」
「はあ?」
これには思わず口が開いた。
「その天使はキラキラしてて、美味しいものを食べさせてくれて、いい匂いがするとくいなに言ったそうで」
「は、ああ・・・」
なんとも返事の仕様がなくて、パクパクと口を明けたり閉じたりしてしまった。
「ゾロはね、それはもう貴方のことが自慢だったらしい。それでくいながどうしても会いたいとせがんでねだって、ようやくお宅にお邪魔したと、そう言う訳です」
どういう訳だ。
「少なくとも、ゾロの気持ちはあの頃からちっとも変わってないんじゃないか。私はそう思うのですよ」
「・・・・・・」
サンジはなんとも言えず、黙って庭の方に視線を移した。

確かに、小さかったゾロは自分を慕ってくれていた。
我が家のように入り浸り、遠慮なくモノを食い勝手に遊んで寛いでいたけれど、それは所詮都合のいい場所でしかなかったと言うことだろう。
そしてゾロにとって大切な友達が亡くなって、ゾロは最後の思い出が残っているその場所から遠ざかったと、そういうことだ。
頼りにならなかった大人を切り捨てて。

サンジは自分の気持ちが沈んでいくのを振り切るように、冷めたお茶を飲み干した。
「ご馳走様でした。お邪魔しました」
「こちらこそ、どうもありがとうございました」
コウシロウが頭を下げるのにつられて、深々と頭を垂れる。
少し痺れてきた足を騙し騙し立ち上がれば、コウシロウは障子を開けて廊下に出た。

「あちらに道場があります。今の時間なら、ゾロは庭で一人素振りをしていることでしょう」
それは暗に、もう一度会いに行けと言うことだろうか。
気は進まないが、この機会を逃したら本当にゾロとはこれっきりになってしまいそうな気がして、サンジは一礼して座敷を後にした。








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