グミの実の熟れる頃 -5-


塀をぐるりと回りながら道場へと足を運べば、外からでも元気な掛け声が聞こえる。
建物の中には入らず、飛び石を渡って庭へと向かった。
途中何人かの少年剣士と擦れ違ったが、いずれもサンジを目にするとその場で立ち止まり会釈をしてくれる。
躾が行き届いていて、こちらが恐縮するほどだ。
見慣れない不審者だと思われないかと冷や冷やしたが、サンジは自分で思っている以上に有名人だったりする。


少し日が傾いて肌寒い空気の中で、ゾロは一人素振りをしていた。
頭に手ぬぐいを被り、背筋を伸ばして機械的なリズムで竹刀を振るう。
その凛とした佇まいは、サンジのような素人が見ても息を止めて見守らなければならないような緊張感があった。
道着の袖から延びる腕は、よく引き締まって躍動感に溢れている。
軽い足捌き。
乱れのない呼吸。
単調な動きなのにずっと見ていたくなるような、流麗な動き。

サンジはしばらく、時を忘れて魅入っていた。
こんな風に繁々と見るのは、遠い秋の日、縁側に並んで座ったゾロの頭をぐりぐりと撫でながら話した以来だ。
風は冷たいのに一人発熱しているかのように暖かな空気を纏って。
少し汗ばんだ髪から、子ども特有の匂いがしていた。
頭ばかりがでかくて、首は折れそうなほどに細くて。
ぶらぶらと揺れる足はよく日に焼けて真っ黒で、膝小僧が傷だらけだった。

けれど今目の前にいるゾロは、がっしりとした体駆と上背を持っている。
長い手足、太い首。
短く刈り込まれた襟足にも、汗が滲んでいる。
彼からはもう、あの甘酸っぱいような稚い匂いは漂わないのだろう。






このまま黙って立ち去ろうと思っていたら、ゾロの竹刀が下りた。
植え込みに掛けられたタオルを取り、汗を拭いながらこちらを振り返る。
ああ、目が合った。
久しぶりに見る、ゾロの正面からの顔。

やはり顔立ちが変わった。
まだ中学生のはずなのに、どこか精悍さを秘めている整った顔立ち。
イケメンだよな。
学校でも、モテるんだろうなあ。

サンジはにやっと笑って近付いていった。
「すごいカッコよかったぜ。剣道、強いんだな」
「・・・まあな」
今度はまともに返事をしてくれた。
幼い頃と同じように尊大な物言い。
だけど、あの時とは全然違う。
いつの間にか声も変わって、ぐっと大人びた雰囲気だ。
サンジより拳一つ低いくらいの身長。
視線があまり下がらないのが、不自然に思える。
子どもの時は大きいばかりで黒々とした目だったが、今はそれほど大きく見えない。
白目が多くて、少し目付きが悪く見えるんじゃないのか。

じっと見詰めていたら、ゾロの方から近寄ってきた。
「くいなのお参りに、毎年来てくれてるんだって?」
「ああ。今年はたまたま命日が、俺の休みだったんだ」
こうしてゾロと会えたのも、やっぱりくいなちゃんが引き合わせてくれたんだろう。
サンジはそう思って、勇気を出して切り出した。

「ごめんな」
ゾロは無言で、サンジを見上げる。
「くいなちゃんが亡くなった日、俺、お前に抱き付いて泣いちゃっただろう」
今更な謝罪だが、いつかはきちんと言っておきたいと思っていた。
「大人の俺がみっともなく泣いちまって、それでお前泣けなかったんだよなあ」
ごめんな、と小さく呟いて頭を下げた。
取り戻せるものなら、もう一度あの時に戻りたい。
今でもいい。
ゾロが、自分に抱き付いて泣いてくれたら、一気にあの頃に戻れるのに。
「馬鹿か?」
甘い妄想はゾロのひと言で吹き消された。
「あ?」
「いや、悪い」
つい言葉に出してしまったと、ゾロは軽く咳払いをした。
「それはあんたの思い過ごしだ。関係ねえ」
視線を合わせて、あっさりと否定されてしまった。
それでは、今まで悶々と思い悩んでいたのはなんだったんだ。
「え、だってお前、あれからちっとも俺んとこ来なかったじゃないか」
つい責める口調になってしまうのは仕方が無い。
「お前、子どもらしく泣けなかったらてっきり・・・それが原因かと―――」
「泣いたぞ俺。大泣きした、お袋に抱きついてな」
その時を思い出してか、少し頬を赤くして不貞腐れたような顔つきになる。

ああそうか。
こいつには、ちゃんと優しいお袋さんがいたんだもんな。
急に気が抜けて、サンジはがくんと肩を落とした。
「だったら一体、なんだったんだよ」
自然、恨みがましい声が出てしまう。
「お前がいきなり来なくなって・・・つまんなかったんだからな・・・」
これでは、まるでこっちが拗ねているガキのようだ。
案の定ゾロの方が苦笑して、手にしていた竹刀を傍らに置く。

「くいなが死んだ日。あいつは俺の隣を歩いてたんだ」
唐突に語り始めたゾロに、サンジはこくんと頷いた。
ゾロの母親から、その時の状況は聞いている。
「集団登校の並び順ってのは、一応決まってるんだよ。んで、いつもなら俺の隣はくいなじゃなかった。けど、
 そん時1年生が一人風邪で休んでな。んで俺が繰り上がって、そいでくいなが車道側に行ったんだ」
何を言おうとしているのか、なんとなくわかってサンジは少し緊張した。
「ほんとなら、俺はくいながいた列の後ろの車道側だった。くいなは俺の前の列の溝側だった。轢かれるなら、俺だった」
「そんなの、結果論じゃねえか」
つい声を荒げてしまう。
もし、やたら、は想定の範囲でしかない。
「わかってる。運とかツキとか、そういうもんもあるだろうよ。偶然だ」
激昂したサンジと対照的に、ゾロは冷静に応える。
「わかっちゃいるが、あれでくいなの人生は終わったんだ。俺より強くて、賢くて、友達もたくさんいた。師匠の側でぐんぐん力をつけて、いずれは道場の跡を継ぎたいと、あんなガキの頃からもう決心していたんだ。俺から見たって、眩しいくらいしっかりと生きていた」
額から流れる汗をもう一度拭って、ゾロは視線を落とす。
「あいつが、もう二度と楽しいことや嬉しいことを体験できないってそう思ったらな・・・なんか、俺も我慢しようとか思ってよ・・・」
「は?」
気恥ずかしそうに、口元を緩ませる。
「ガキの論理だよなーとか今なら思うけど、我慢したんだ俺。大好きなものとか、美味いものとか、そういうの全部」
「・・・は?」
申し訳ないが、もう一度間抜けた声を出してしまった。
「くいながもう楽しめないなら、俺も楽しまないでおこうって」

トラウマとか、PTSDとかじゃなくて。
ゾロは自分で律していたのだ。
大好きなものや美味いもの、楽しいこと嬉しいこと。
それら全部を、自分から遠ざけた。
たった9歳の、小学生の子どもが。

サンジはなんと言っていいかわからず、とりあえず懐から煙草を取り出して咥えた。
道場は禁煙だから、火をつけないでおこう。

「道場はくいながやり残したことだから、俺が代わりに頑張ろうなんて、今思えばおこがましいよな」
まるで他人のことのように、そう言って笑う。
サンジの目の前で、ゾロは何故だか吹っ切れたような顔をしている。
「そりゃまあ、思い込みっつうか・・・そう言う時もあるよな。うん」
サンジは煙草を咥えたまま、カリカリと頭を掻いた。
「でも、今俺にそう話してくれたってことは、もうそれはいいのか?」
「ああ」
ゾロは真っ直ぐにサンジを見て、頷きもせず応えた。

「毎年、命日になると車運転してた奴が参りに来る」
サンジははっとして顔を上げた。
そうか、あの時玄関で行きあったのは・・・彼か。
「師匠は快く座敷に通している。最初の頃はあいつの両親が、そして、何年か前からは本人がやって来てる」
サンジは神妙な顔つきをして頷いた。
正直、彼が加害者だと言われてもサンジの中には何の感情も湧かない。
しかしコウシロウにとっては、彼はいつまでも愛しい娘を殺した犯人であることに、変わりはないだろうに。
けれど、葬式の夜のあの時からも、コウシロウの中に憎悪や恨みと言った感情を見ることはなかった。

「けど俺は今日、気付いたんだ」
ゾロは視線を逸らして塀の方を見た。
「玄関を出て門の方に歩くあいつの後ろ姿を見送っていた先生の、視線の中に殺気があった」
え、と胸を衝かれて、サンジは顔を強張らせる。
「先生の中にも修羅がいる。いつも穏やかで、決して隙を見せない完璧な師匠である先生にも、そんな一瞬があった」
ゾロは少し哀しげな表情で、サンジを振り返った。
「そう気付いたら、俺もなんか片意地張ってなくてもいいかな、と思ったんだ」
「・・・そうか・・・」
サンジはなんともいえない気持ちになって、火の点いていない煙草を指で弄んだ。
これはきっと、いい切っ掛けになったのだと思う。
やっぱりくいなちゃんが引き合わせてくれたことなんだな・・・としみじみ思った。

「じゃあ、また俺んちにも遊びに来るか?」
「行く」
即答だ。
こいつは、まだまだガキ臭い。
「ったく、しょうがねえ奴だな。そんなに俺が好きか」
サンジは弄んでいた煙草を再び咥えて、ポケットに手を突っ込んだ。
「ああ、好きだ」
てらいのない言葉。
ほんとにガキだな〜なんて思いながら目を合わせたら・・・
思いの外強い目線で、ゾロが見ている。

「お前が、好きだ」
まるで子どもに言い聞かせるように、ゆっくりとはっきりと、もう一度言葉を綴る。
「好きだ」
ダメ出しみたいに再度言われ、ついぽかんと開けた口元から煙草を落としてしまった。
「・・・そ、そう?」
「ああ」
慌てて煙草を拾い上げている内に、ゾロは「じゃあな」と言い置いてさっさと歩いて行ってしまう。

「・・・ったく、生意気だぜ」
サンジは一人ごちて、それでも晴れ晴れとした気持ちで道場を後にした。










それからは、ゾロは言葉通りにほぼ毎日、サンジの家に入り浸るようになった。
サンジが残業で遅くなろうが休みだろうが、関係なしに家に上がりこんでいる。
夕食は一緒にとるようになったし、下手をすると朝食まで用意してやらなきゃならないから、サンジとしては仕事が増えたようなものだが、少しも苦にはならなかった。
何よりゾロはよく食べるし、しかもいかにも美味そうな所作だ。
料理人冥利に尽きると言うもの。

「明日は試合だから弁当作ってくれるか?」
「おう、何時出発だ?」
すでに家族のような会話だが、ゾロの家もすでに公認としているようで、母親からは大袈裟なほど感謝されている。
「ゾロが、まるで昔に戻ったみたい。雰囲気が全然違うわ。貴方のお陰よ」
嬉しそうに笑う母親に、サンジは恐縮しながらも満更でもない気分だった。
「あの子、相当根気強くて・・・悪く言えば執念深いからサンジさんも大変でしょうけど、よろしくお願いしますね」
そう言って深々と頭を下げてくるのに、少々違和感を覚えながらサンジも適当に相槌を打っておく。
一体何が大変だと言うのだろうか。
まあ、食事を食べさせるのは趣味みたいなものだから、ちっとも大変じゃないのにな。
なんてことを考えながら、今日も2人分以上のご飯を炊いて味噌汁をよそう。
サンジにしたら満ち足りた、穏やかな日々だ。












ゾロは中学を卒業し、高校生になった。
毎日部活に明け暮れ忙しい日々にかまけて、いつの間にかサンジの家に居ついている。
サンジも店が軌道に乗って、慌しくも充実した日々を送っていた。



綺麗に手入れされた庭には今日も洗濯物がはためき、小春日和のうららかな午後を彩っているかのようだ。
サンジはふと足を止めて、生垣に手を伸ばした。
剪定された生垣の手前に繁るアキグミの木は、今年もたわわに実をつけている。
ゾロと初めて出会った午後のことを思い出して、一人、笑いを漏らした。

不意に、枝の間から大きな手が突き出てびっくりした。
顔を上げれば生垣越しにゾロが立っていて、悪戯っ子みたいな顔で覗き込んでいる。
「なんだ、もう帰ってきたのか」
「おう、全勝優勝だ」
県外に遠征していて、2日も留守にしていたのだ。
まだ夕飯の買い物にも行ってないから、何が食べたいか聞いて・・・いや、いっそ一緒に買い物に行こう。

「何してんだ、こんなとこで」
「え、あー・・・今年も実をつけたなと思って」
サンジの掌に、小さな赤い実が乗っている。
「まだちょっと渋そうだな」
「熟してないのはすげー味だからな。お前もよく・・・」
そこまで言って、思い出し笑いが込み上げる。
小さなゾロの顔がくしゃっと歪んで、眉が釣り上がり鼻の頭に皺が寄ってとんでもない形相になったのだ。
「ああ、ぶべーとなったな。ぶべー」
子どもの時の言葉をそのままに言うから、また可笑しくなった。
「食ってみろよ」
「馬鹿、これはヤバイだろ。せめてこっちだ」
一番赤く色付いた実を採って、ゾロはサンジの目の前に翳した。

―――あれ?
いつの間にか、ゾロの目線が自分より高くなっている。
成長したらでかくなるだろうなんて、俺の予想は当たっていたな。

見上げたサンジの顔近くに、ゾロはそっと身体を傾けた。
生垣越しに腕を伸ばし、肩を抱かれて引き寄せられた。
柔らかな感触が唇を塞いで、頬にかかる吐息が冷えた空気を払うかのように熱い。
しっとりと口付けられて、静かに唇が離れる。
何が起こったのか把握できず、サンジは目を見開いたままゾロを凝視するばかりだ。

「・・・頃合いだろ?」
そう言って、ゾロは手にした赤い実を口に放り込んだ。
味わうように噛み締めて、唇の端を吊り上げる。
「今夜は、泊まるからな」
ダメ出しみたいにそう言って、もう一度唇を合わせてくる。

何を馬鹿なとか、クソガキがとか、俺を幾つだと思ってんだとか、そもそも野郎だぞとか―――
色んな言葉を吸い込むようにして、ゾロはすべてを塞いでしまった。


グミの甘酸っぱい味が口内を満たし、サンジの頭を痺れさせる。
まだ夕暮れには早いのに、二人の頬は夕陽に照らされたかのように真っ赤に染まっていた。





END




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