グミの実の熟れる頃 -3-


今夜のように遅くなる日は、ゾロは家に姿を見せない。
けれど明日は早番だし、ゾロが学校から戻って来る頃にはおやつを作って待っていられる。
最近は道場で焼き芋なんかして、それを俺への手土産に持ってきてくれたりもするけどな。
なんてことを考えながら、鍵を開けて家に入った。
玄関の灯りを点け、軋む廊下をコートを脱ぎながら歩く。

縁側に続く障子に人影を見て、ぎくりと足を止めた。
見慣れた後ろ姿だ。
小さくて丸い。
「どうした?」
サンジが留守の間に、勝手に家に上がりこんでいることは何度もあったけれど、こんなに暗くなってから一人で家にいたなんてことは一度もない。
何故か胸騒ぎを感じて、サンジは勢い良く障子を開けた。

ゾロが、縁側に座っている。
いつものように長袖に半ズボンで、けれど何故か項垂れていつものように真っ直ぐ前を向いてはいなかった。
肩が落ちて猫背で、余計小さくか細く見える。
「どうしたんだ?」
サンジはそっと傍らにしゃがみ込んだ。
ゾロの様子が尋常でないことは、わかった。
「どうした?」
そっと肩に手を掛けると、ゾロはゆるゆると首を巡らした。
泣いているかと、思ったのだ。
けれどゾロの目に涙はなく、睨み付けるような勝気さに変わりはなかった。

「もう遅いぞ。おばさん達心配してるだろ」
ゾロは何も応えない。
やはり、様子が変だ。
「なにか、あったのか?」
心臓がドキドキする。
応えないゾロに苛立って、サンジは両肩に手を掛けた。
「言えよ、わかんねえだろ」
「くいなが・・・」
そう言い掛けて、ゾロは口を噤む。
「くいなちゃんが、どうした?」
嫌な予感に鼓動が早まって、耳の側まで心臓が上がってきたみたいな気がする。

「くいなが、死んだ」
「・・・っ、なんで?」
つい声を荒げて、はっとしてゾロを見直した。
「ごめん、お前に怒鳴ったりして」
ゾロは首を振り、また俯いた。
「今朝、集団登校してた時・・・車が突っ込んできて・・・」
「・・・事故か」

―――なんてこった
サンジは頭に手を当てて、俯いた。
今日はニュースだって見ていない。
こんな近所で起こった事故でも、何も知らなかった。
「お前は、大丈夫だったのか?」
今更思い当たって顔を上げた。
ゾロは硬い表情のまま頷く。
「・・・くいな、俺の隣歩いてたんだ」
「・・・そうか・・・」
なんと言っていいかわからなかった。
集団登校の列に車が突っ込んだのなら、一瞬のことだったのだろう。
隣を歩いていたくいなちゃんが死んで、ゾロは恐らく、無傷。

「他にも・・・大丈夫だったのか?」
「骨折った奴とか、いた。転んで泣いてる子も、ビックリしすぎて泣けなかった子も・・・」
―――地獄だ
例え大人である自分でも、そんな凄惨な現場に立ち会ったら呆然としてしまうだろう。
「その・・・くいなちゃん、だけ・・・」
「死んだのは、くいなだけだ」
ゾロの声が、揺れた。
咄嗟にサンジは、その小さな頭を抱き寄せて胸に押し付ける。
ゾロが泣く。
そう思ったのだ。

けれど、ゾロはサンジの硬い胸に顔を押し付けても嗚咽を漏らさなかった。
ただ目を見開いて、じっとしている。
その代わりに、肩を震わせて泣き出したのはサンジの方だった。
「・・・くいなちゃん、なんでっ・・・」

可愛い子だった。
勝気な瞳で、けれど笑うととても幼い、綺麗な顔立ちをした子だった。
強くて優しくて、ゾロの面倒だってちゃんと見てて。
きっと大きくなったら素敵なレディになって、ゾロの自慢の幼馴染になったに違いない。
あんな元気で可愛くて、サンジが作ったケーキを美味しそうに頬張って、ゾロを小突いて笑ったあの子がもう、この世にいないだなんて―――

「なんで、なんでくいなちゃんがっ・・・」
ゾロの小さな肩を抱き締めて、サンジは声を上げて泣いた。
身近な人の死は恩人で経験して涙が枯れるほど泣いたけれど、こんな幼い小さな命の火が消えたなんて認めたくはなかった。
「ゾロ・・・」
不意に、サンジの背中に暖かな力が加わる。
ゾロが手を伸ばし、背を抱いてくれたのだと気付いて、余計涙が溢れた。
「ゾロ、ゾロ・・・」
泣きたいのはゾロの方なのに。
俺がゾロを、慰めてあげなくちゃいけないのに。

サンジの腕の中で、小さな塊の体温がぐっと上がった。
けれどゾロは泣かない。
歯を噛み締め目元を赤く染めながらも、ゾロはどこか淡々とした眼差しでサンジの揺れる肩を眺めている。
それでいて、小さな手はとんとんとあやすようにサンジの背中を叩いてくれた。
「―――ゾロ・・・」
結局サンジが泣き止むまで、ゾロはずっとそうしていた。











翌日の新聞には、事故のことが大きく報じられていた。
紙面を目にするだけで胸が痛み、テレビをつける気にもならない。

サンジは通夜にだけ参列した。
ゾロから何度も聞いていた、大きな道場のある屋敷を、こんなことで訪問する日が来るとは思ってもいなかった。
涙雨か、しとしとと小雨が降る中を喪服に身を包んだ人々が背を丸めるようにして列を作っている。
幼い子どもが不慮の事故で亡くなったことで、なんとも遣り切れない空気が漂っていた。
一度しか顔を合わせたことがないサンジでも、大きなショックを受けたのだ。
家族はもとより、くいなを幼い頃から見守り可愛がってきた近所の人たちも学校の関係者も、どれほど衝撃を受けていることだろう。

サンジは木陰に身を潜めるようにしてゾロの姿を目で探したが、見当たらなかった。
やはり明日の葬式に、子ども達と一緒に来るのだろう。
姿が見えないことにがっかりしたようなほっとしたような、複雑な気持ちだ。
開け放たれた座敷の端で、痩せた男性が何度も頭を下げていた。
肩先が雨に濡れている。
丸メガネの奥の目は細く瞬いて、疲労の色が濃く見えた。
―――くいなちゃんの、お父さんかな
だとしたら、ゾロの剣道の師匠ということになる。

サンジは参列者の一番後に並んで、終始俯いていた。
自分の髪はいつでも目立つ。
特にこんな、悲しみに包まれたしめやかな場所では、存在自体が不謹慎に思える。
前の人に続いて俯いたまま焼香し、手を合わせた。
じんわりと新たな涙が湧いてで、ハンカチを取り出す暇もなくて袖で拭った。
顔を上げられないまま深く礼をして、きびすを返す。
濡れそぼった人々が門の前でようやく傘を差し出す。
その波に紛れようとして、不意に背後から呼び止められた。
「サンジさん、ですか?」
振り返れば、先ほど挨拶をしていた父親と思われる人物が立っていた。
「あ、はい」
間抜けな声でそう応え、相手も雨に濡れていることに気付く。
「あの、何か」
言いながら、誘導するように木陰に移動した。
男は頭を下げて静かについて来る。

「くいなの父です。娘がお世話になりました」
ああやはりと納得しながらも、胸に込み上げて来るモノがあって慌てて頭を下げる。
「この度は、どうも・・・」
ご愁傷様です、とは言えず口の中で言葉を濁す。
茶化す言葉でよく使うため、却って失礼な気がしたからだ。
「すぐわかりましたよ。くいなから、話を聞いていたとおりの方だ」
「話って・・・」
恐る恐る顔を上げれば、くいなの父親は柔和な顔立ちに微笑みを浮かべていた。
「ゾロの天使を紹介してもらったって。ケーキがとても美味しかったって、嬉しそうに話してくれたんですよ」
「え?あ・・・いえ・・・」
て、天使って、なにが?
慌てるサンジの前で、父親はそっと懐からハンカチを取り出して目元を拭った。
「母親を早くに亡くして、男手一つで育てたものだからお転婆だったんですが、それなりに甘いものが好きでしてね。でも私はケーキ一つとってもどれがいいんだかよくわからなくて・・・」
吐く息と共にメガネが曇る。
それが余計、痛々しい。

「くいなは、駅前で売ってるケーキより美味しいって喜んでました。それが、あの子と過ごした最後の夜の思い出なんです」
「・・・あ・・・」
なんとも返事のしようがなくて、サンジは鼻先を手で覆った。
ハンカチを、ハンカチを出さなければ・・・
「ほんとに、ありがとうございました」
そう言って父親は深々と頭を下げた。
並んで見れば痩せていても上背のある人なのに、雨に濡れた肩はひどく小さく映る。
「・・・とんでもないです」
サンジも深く腰を折った。


その時、門の外がざわめいて人の流れが乱れた。
父親と同時に顔を上げて振り向く。
誰かを遠巻きにするように人の輪ができて、その向こうに初老の夫婦らしき男女が見えた。
黒いコートに身を包んだ二人は、門を潜らずその場でいきなりひざまずく。

あ、と気がついて俄かに緊張が走る。
事故を起こした運転手は、まだ若い会社員だった。
もしかしてあの二人は―――

地べたに這いつくばるようにして頭を下げる二人を遠巻きにし、そのうち一人の男が何かを怒鳴った。
二人はさらに平伏し縮こまる。
すると、サンジの前を父親がさっと横切り足早に輪の方へと近付いた。
人々が父親に気付き、場所を空ける。
土下座の形のまま、二人は顔を上げた。
父親はそのまま腰を屈め、二人の方に手を差し伸べた。






それ以上見ているのが辛くて、サンジは再び父親の後ろ姿に頭を下げると、人垣の外を回って門を出た。
そぼ降る雨はまだ止まず、濡れたアスファルトにいくつもの水溜りができている。
それを避けながら歩いているうちにまた涙が込み上げて、子どものようにボロボロと涙を零しながら夜道を歩いた。










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