グミの実の熟れる頃 -2-


いくつかの季節が巡り、ゾロは小学校に上がった。
身体より一回りでかいランドセルを背負って誇らしげに姿を現すから、サンジは縁側でタバコを吸いながら褒めてやった。
「よく似合うぞ」
「ランドセルなんて、みんな似合う」
憎まれ口を叩きながら、ランドセルを背負ったまま隣に腰掛ける。
いつもゾロのために何かしら用意してあるおやつを出すと、当たり前のように齧り付いた。
「来週から学校なんだなあ」
「うん」
「忙しくなるな」
「そうだな」


サンジは相変わらず、レストランで下働きだ。
恩人が亡くなった後、店舗兼住宅を引き継いだ当時の副料理長だった男は、そのまま店のオーナーになった。
住み込みで働いていたサンジは住処を追われる形となったが、結果的に恩人が残してくれたこの家で生活できている。
恩人が元気だった頃から、今のオーナーとは確執があった。
どこの馬の骨ともわからぬサンジが、ふらりと現れて恩人に目を掛けられていたのが面白くなかったのだろう。
今でも辛く当たられるが、サンジはあの店で働けるだけで幸せだった。
一生下働きで、掃除と後片付けだけを任されるとしても、それでよかった。


「サンジの作るおやつは、いつも美味いな」
「普通だ」
「美味い。きっとレストランでも美味い飯を一杯作るんだろうなあ」
ゾロは目を輝かせて空を見上げた。
「まあな」
作ってないのだ。
作らせてもらえない。
きっと、ゾロとその家族が食べに来てくれたとしても、俺の料理を出すことはできない。

「な、今度俺んちで飯食っていくか?」
ゾロはきょとんとした顔でサンジを振り返った。
飯ならいつでも食ってると、言いたいのだろう。
「晩飯、ご馳走するぞ」
ゾロは丸い頬にクリームをつけたまま、にかっと笑った。
小さな実が勢い欲弾けるような、そんな笑顔だ。
「おう、食うぞ」
眩しいくらいの全開笑顔に、サンジもつられて歯を見せる。
「おじさんとおばさんにもちゃんと言ってな、姉ちゃんとかも連れてきていいから」
「ダメだ」
笑った時と同じ素早さで顔つきを変える。
「サンジの飯は、俺だけが食うんだ」
「なんだそれ」
ゾロのあまりの真剣さに、サンジはぷっと吹き出した。
子どもっぽい独占欲が丸出しだ。
「いいよ、でもちゃんと親御さんには言うんだぞ」
「わかった」
こくんと頷く、素直な横顔。
庭には春らしい柔らかな風がそよいでいて、ゾロの若葉みたいな髪を揺らしている。
「髪、伸びたな」
「明日、散髪に行く」
「そうか」
ところどころ跳ねた毛先を宥めるように撫でて、サンジは目を細めた。






小学校に上がってすぐ、ゾロは近くの道場に通い始めた。
以前から興味があってサンジの家に行くのと同じくらいの頻度で覗いていた剣道を、本格的に習い始めたらしい。
俄然忙しくなったゾロだが、暇さえあればサンジの家にやってくるのは変わらなかった。

「小学校どうだ」
「うん、面白い」
「勉強、わかるか」
「まあまあ」
ゾロはサンジと並んで縁側に座り、足をぶらぶらさせながら庭を見ている。
前はサンジが居なくても勝手に入り込んでいたのだが、最近はいるかどうか確認してから遊びに来るようになった。
知恵がついたのだろう。
「宿題、今のうちなら見てやれるぞ」
「なんで今のうち?」
ドラ焼きを一口で頬張って、ゾロはくぐもった声で聞いた。
頬袋、満杯だ。
「だって、そのうち難しいこと習うようになるだろ」
サンジは煙草を咥えたまま背筋を伸ばして、足を組み替える。
「小学生だぜ」
「小学生でも、難しいじゃねえの」
サンジ自身どこから勉強がわからなくなったのかは覚えてないが、相当昔から向いてなかったのは確かだ。
だから途中から学校にも行かず、街でぶらぶら遊んでいた。
「サンジ、頭良くないのか?」
「お前失礼だな」
煙草を持つ手を代えて、軽く小突く。
「まあな、あんまり学校行かなかったから」
「学校行かなくてもいいのか?」
「ほんとは良くねえ。でも、俺は他にやりたいことがあった」
「料理作るの?」
「それもあるけど・・・」
恩人の側で、役に立つことがしたかったから。

「俺さ、大事な人がいたんだ」
ゾロの眉が、ぴくっと震えた感じだ。
「ふらふら遊び回ってばかりで、どうしようもなかった俺をさ。拾ってくれて、叱ってくれた人」
「・・・そいつ、大事なのか?」
口の中のモノを飲み込んだ口元が、への字に曲がっている。
「ああ、大事だ。ゾロだって、俺みたいに甘やかすばかりじゃなくてさ、叱ってくれる人がいたらそれはすっごく大事なんだぞ」
「甘やかす・・・」
「甘やかしてんだろ、俺」
やや不服そうな顔つきだったが、何も言わずゾロは二つ目のドラ焼きに齧り付いた。
「・・・叱ってくれる奴は、大事なのか」
「勿論だ。・・・そんな人いるのか?」
「うるせーのが、いる」
ゾロ曰く、今通っている道場の娘がうるさいのだと言う。
礼儀作法から身嗜み、言動まで一つ一つ拾っては小言を言うから、すごくうるさい。
「けどそいつ、うるせーのに強いんだよ。俺、全然勝てねえ」
「ゾロは習い始めたばかりだろ。その子は、小さいうちから竹刀持ってたんだろうな。カッコいいなあ、少女剣士か」
「手加減しねえの。だからこれもこれも、ここもそいつにやられた」
小さい頃から生傷の絶えなかったゾロだが、最近目に見えて痣が増えたのはそういう訳か。
「手加減しねえってのは、真剣に向き合ってくれてるってことだ」
サンジも恩人によく蹴られた。
いつだって青痣だらけだったけど、それを虐待だとは思わなかった。
サンジは素直に表現できなかったけど、恩人の誠意は充分にわかっていたつもりだ。

「いつか、あいつに勝ちてえなあ」
「いくつ違うんだ?」
「2つ。3年生だ」
「そうか。小さい内は女の子の方が成長早いからな。でもいつか、あっという間にゾロのが追い越す日が来るぜ」
「そうかなあ」
ゾロはかぷんと、二口でドラ焼きを平らげてしまった。
「いっぱい食えよ。お前はでかくなるぞ」
ぐりぐりと、短く切られた頭を撫でる。
「足がでかいから、でかくなる」
「それ、犬じゃね?」
生意気なガキだ。
けど誰よりも、可愛い。








サンジはゾロが大きくなると踏んでいたが、1年経っても2年経っても小粒なままだった。
それでも、小さな丸い頭がぴょこぴょこ生垣越しに覗くようになると、ちょっとでも背は伸びているんだなと安心する。
「おうマリモが来た」
「マリモってなんだ?」
からかわれているとも気付かず、ゾロは相変わらず素朴な物言いで寄ってくる。
「小さくて緑で丸い、かわいい生物だ・・・ん?植物かな?」
「ふうん」
言いながら、ゾロはちらっと後ろを気にするような仕種をした。
生垣の向こうにもう一つ、黒い頭がある。
こちらは身体を屈めているようで、枝の間から形のいい丸い眼が覗いているのがわかった。
「お客さんかい?」
サンジは用意したコップを縁側に置いて、手招きした。
「こんにちは」
ショートカットの、利発そうな女の子だ。
黒目がちな瞳は勝気な色で、少しゾロに似てると思った。
「くいなと言います。ゾロに無理を言って、着いて来ちゃった」
「ああ、道場の・・・」
サンジはにこにこ笑って手招くと、傍らのゾロに意味有りげな目線を流した。
ゾロは下唇を突き出して、そっぽを向いている。
「いつもゾロから話を聞いているよ。すごく強くて可愛い、美少女剣士ちゃんだね」
「可愛いとか言ってねー」
ムキになって言い返すゾロに、くいながコロコロと笑う。
「どうせ、うるさい奴とか言ってるんでしょ。ゾロのことだから」
「うるさいだろ」
「うっさいわね、あんたの方がよ」
「まあまあまあ」
サンジは一枚だけの座布団を据えて、くいなに座るように促した。
「ゾロがここに誰かを連れて来るなんて初めてのことなんだ。だから俺も嬉しい」
「私がサンジさんのことを聞いたの、最近なんですよ」
名前の部分を少しはにかむように呼んで、くいなは顔を赤らめた。
「ゾロったら、あんまり何も言わないんだもの。でもここは秘密の場所とか言って、時々一人でにやにやしてるの」
「どうせおやつのこととか思い出してたんだろう」
サンジは用意していた二人分のおやつを、ゾロたちの間に出した。
「今日は特製ロールケーキ。夏みかんがたっぷり入ってるよ」
「美味しそう」
くいなの表情が俄かに和み、ぐんと少女らしくなった。
「ほら、ゾロも」
「いただきます」
いつもより畏まって、大仰に手を合わせる姿に笑いを漏らす。
ちっちゃいクセにかっこつけてるのだ。
後でゾロが一人で来たら、せいぜいからかってやろう。

これからも、こうして度々可愛いガールフレンドを連れて来るようになるんだろう。
それを微笑ましいと思いながらも、サンジは二人の姿から目をそらしてぼんやりと空を見上げた。
何故だか物寂しく感じるのは、秋が近付いているからだろうか。

けれど、ゾロの可愛いガールフレンドが再びこの家を訪れることはなかった。










いつものようにサンジが一人で厨房に残り後片付けを済ませていると、オーナーが降りて来た。
戸締りは任されているから、すでに自宅である2階に引き上げていたオーナーが戻ってくるのは珍しい。
シンクを丁寧に磨いているサンジを眺めながら、オーナーは壁に寄りかかって煙草に火を点けた。
ヘビースモーカーのサンジが勝手口でちょっと一服しているだけで目くじらを立てるのに、珍しいことだ。
サンジはオーナーの視線を感じながらも、黙々と作業を続けるしかなかった。
何か難癖をつけられるかもしれないが、後片付けはきっちりしておかないと気持ちが悪い。
なるべく早く済ませて退散しようと顔には出さないで焦っていたら、煙草を1本吸い終えたオーナーが唐突に口を開いた。
「いつも、よくやってくれてるな」
一瞬空耳かと思って、目を瞠ったまま恐る恐る顔を向ける。
「いつも、よくやってくれてるよ。うん」
久しぶりに正面から見たオーナーの顔は、頭の中のイメージより若かった。
不機嫌の塊みたいな仏頂面も、どこか照れて子どもっぽく見える。
「俺もよくわかってんだ。みんなもわかってる。サンジがいてくれるから、この店は保ってるって」
「え、あの・・・」
なんと言葉を返していいかわからない。
「オーナーが逝ってしまって、もう5年か・・・。長いようであっという間だったな」
どこか遠くを見るみたいに目を細めて、オーナーは2本目の煙草を取り出した。
「なんせ偉大な人だった。俺なんか足元にも及ばねえ・・・今でも、正直そう思ってる」
頷いていいのかどうかわからず、サンジはただ機械的に手を動かしている。
「自分でわかってんだから、周りもそうだろうって思ってた。事実そうだしな。オーナーからこの店を継いだことで、後々までオーナー・ゼフの影を引き摺るってのはわかってたんだ」
火を点けた煙草を口にせず、ぼんやりと立ち昇る煙を眺めた。
「わかってんだ、俺は」
サンジに話しているのか独り言をいっているのかわからず、サンジは時折顔を上げて聞いているふりをしながら、黙々と手を動かすしかなかった。
「だからよ、辛く当たって悪かった」
独白して吹っ切れたのか、オーナーは座ったまま膝に手を当てて、勢い良く頭を下げた。
これは自分に対してだろうと今更ながらに驚いて、サンジは雑巾を持った手をぶんぶんと振る。
「止めて下さい、いきなりどうしたんすか」
「いきなりじゃねえよ。前から心苦しかったんだ」
これには二度びっくりだ。
「どこの馬の骨ともわからねえガキを拾って来て、家に住まわせた時から、俺あお前が気に入らなかった。
 なんせ俺が一番弟子だったんだからな。別にお前みてえなガキにヤキモチなんざ焼かなくてもいいのによ。やっぱ、職人の勘って奴が当たったんだろう」
「勘?」
「お前がさ、ただのガキじゃなかったってことさ」
見よう見真似で手伝いだした子どもの、飲み込みの速さと勘の良さに危機感を覚えた。
何より、オーナーが特別に目をかけているのがわかったし、追い付き追い越される恐怖も感じた。
「だからオーナーが急死した時、俺はほっとしたんだろうな」
「そんなこと・・・」
突然の告白にサンジは本気でうろたえていた。
なんせ自分は、授業もろくについていけなかったし飲み込みだって遅い方だった。
オーナーに特別目をかけられていたなんて自覚もない。
「そんなの思い過ごしですよ。俺なんて、掃除くらいしかできない・・・」
「一番大事なことだ。オーナーだって、そう言ってたろ」
それはそうだけど・・・と雑巾を握り締めて立ち尽くすサンジに、オーナーは煙草を揉み消して笑いかけた。
「だからな、これからは厨房に入ってくれ」
「いいんですか!」
つい素直に反応してしまった。
「長いこと下働きばかりさせていたのは、俺のつまらねえ意地だったんだ。けどもうあれから5年・・・正直、古株のコック達にもせっつかれてる」
「・・・オーナー」
ぽんと、励ますように軽く肩を叩かれた。
「こんな狭量な俺でも、オーナーって呼んでくれんのか」
「いえ、だって俺は・・・ここに置いてもらえるだけでありがたいんです」
一生懸命働く以外、何のとりえもないのに。
こんな自分のことでも、思い遣って、心を配ってくれる人がいる。
「俺の方こそありがてえよ。できたらずっと、ここで勤めて欲しい」
「ありがとうございます!」
サンジは勢い良く頭を下げた。

いつも仕事に没頭するばかりで、周りを見ていなかったのは自分の方かもしれない。
もしかしたらオーナーはずっと前から自分を気にかけて、顔色を窺うような目で見ていたのかもしれない。
他のコック達も、オーナーとサンジとの間で色々と気を揉んでいてくれていたのかもしれない。
そんなことにも何一つ気付かず、与えられた仕事をこなすことだけで満足していたのかもしれない。
頬を紅潮させて頭を下げるサンジに、オーナーはホッとした顔をした。
「ああ、これで胸の痞えが取れた。ずっと気になっていたんだ」
そう言って照れ臭そうに頭を掻くオーナーは、まるで見慣れない人のようだ。
サンジは胸が熱くなって、ただひたすら頭を下げるしかできなかった。




お互い、まるで初対面の相手のようにぺこぺこと頭を下げ続け、店を後にした。
5年以上同じ職場で働いている上司なのに、今更でなんともおかしな話だが、オーナーが勇気を出して踏み出してくれたのはよくわかる。
―――長く真面目に続けていれば、こんないいこともあるんだな。
サンジ自ら、思い切ってぶつかっていけばよかったのかもしれない。
前オーナー亡き後、今のオーナーに怒鳴られ難癖をつけられることは度々あった。
けれどそのいずれも、サンジはただ黙って頭を下げるだけで、言い返すことすらしなかった。
―――オーナー・ゼフには、いつだって噛み付いていたのに。
時には言い返し、どちらかと言えば反抗ばかりしていたサンジだ。
そんな生意気な態度を、ゼフは怒鳴って蹴って全身でぶつかって指導してくれていた。
腹が立って口惜しくて、その度歯向かって喧嘩になってはいたが、決して嫌ってはいなかった。
寧ろ誰よりも尊敬し、慕っていたのだ。
そんなサンジの態度の違いが、余計に今のオーナーのプライドを傷付けていたのだろう。

一人で黙々と家路に向かいながら、サンジの口元は自然と綻んでいた。
今のあったかい気持ちを、誰かに話したい。
聞いて貰えるような友人はいないけれど、ゾロなら黙って聞いてくれるだろう。
意味はわからないだろうけど、側にいてくれたらそれでいい。
とっぷりと日も暮れて、冷え込みが厳しくなってきた夜の空の下、サンジは自然早足で家に向かった。








next