こんなに長い幸福の不在 -3-




グランドラインにしては珍しい、穏やかな凪の海をナミは呆然と見つめていた。
「・・・ない」
どこにも、島がない。
座標に間違いはなく、近隣の島からの距離も太陽の位置も、なにもかもが間違いなくここがオールブルーの場所だと告げていた。
なのにない。
島が、ない。

「どうしよう、サンジ君どこ行っちゃったの?」
焦って振り返るナミの後ろで、ウソップが首を振った。
「ダメだ、電伝虫も繋がらねえ」
「ほんとにここだったっけ?」
「海の真ん中って、わかんねえよなあ」
暢気なルフィをキッと睨み返し、ナミは自分が描いた海図をバンバン叩いた。
「間違いなくここよ!確かにここに、あの島はあったの。そしてサンジ君は一人で残った。絶対に、間違いないわ」
「…もしかして、海に沈んでしまったのではなくて?」
冷静に怖いことを呟くロビンに、フランキーが両手を挙げて見せる。
「もしやと思ってソナー掛けてみたが、島はおろか船も岩場も感知しねえぜ」
「まったく、跡形もなく消えたってことか」
ゾロはそう呟き、水平線の彼方へと目を凝らした。
何が起こるかわからないグランドラインだが、島ごとサンジが消えた現実が実感できない。
悲壮な雰囲気に包まれた仲間達に、ルフィが暢気な声を掛けた。
「もしかしたらさあ、あの島ってでかいカメだったんじゃねえか?」
「は?」
「カメ?」
そう言えば、そういうこともあったような気がする。
「そうかー、カメかー」
「なら、移動しても仕方ねえよな」
「なんだ、ならカメを捕まえればいいじゃん…って」
んなことあるかー!とウソップが怒鳴る。
「カメならカメで、どこ行ったかわかんねえじゃねえか。もう追いかけようがねえぞ」
「電伝虫が繋がればいいんだけど…」
「なにかあったら、サンジさんの方から連絡してくると思うんですがねえ」
心配して蒼褪め…たようにも見えないブルックが首を振るのに、ルフィは頭の後ろで手を組んで伸び上がった。
「だーいじょうぶだ、サンジは」
「なんでわかるのよ」
「勘か?それとも覇気って奴か」
ウソップの問いに、う〜んと小難しい顔をして首を傾げる。
「そんな大層なもんでもねえけど、なんとなくだ。な、ゾロ」
話を振られ、ゾロもしかめっ面のまま頷いた。
「あのくそコックは、ちょっとやそっとじゃくたばらねえだろ」
「やめてよ縁起でもない」
「カメに乗って行ったのなら、大丈夫かな」
「途中でカメが沈まないといいのだけれど」
「やめろってば、ロビン」
誰しもが、自然と海に目を向けた。
凪いだ海面は打ち寄せる波の音以外、なにも届けてこない。

「サンジは、大丈夫だ。だってあいつの夢の場所、オールブルーにいるんだから」
ルフィの言葉に、ナミは吹っ切るように顔を上げた。
「そうね、サンジ君の夢は叶ったんだもんね」
「まるで天国みたいな場所だったよなあ」
「あの島、調べた限り戦いや災害の跡は見られなかったわ。長い期間、ずっと穏やかに保たれてきた島に思えた」
「だったら、やっぱりカメ島だったんだ。カメはその本能で、気候がよくて平和な場所を選んで移動してんだぞきっと」
ルフィはそう言って、しししと笑った。
「サンジはカメにつられていったか」
「でも、できたら女がいる島にでもたどり着けるといいな」
「そのうちカメを操縦するんじゃねえかなあ、サンジのことだから」
仲間たちは次々に、軽口を叩いて見せた。
そうすることで仲間を、そして自分自身を安心させようとしているかのように。

「サンジは大丈夫だ」
なんの根拠もないくせにルフィがそうきっぱりと言い切ってくれるから、みんなはそれに甘えた。
ゾロでさえ、それに救われた。





ここがオールブルーだと、口に出して叫んだサンジは確かに笑っていた。
笑っていたのにどこか泣き出しそうに見えて、驚愕と歓喜と、興奮と安堵とほんの少しの恐怖が入り混じったような、複雑な表情をしていた。
あの顔を、ゾロは時折思い出す。
それは食卓であったりおやつ時であったり、一人で見張りをしている時だったり甲板で汗だくになって鍛錬をしている時だったり様々だ。
なにかの折にふっと思い出す度に、ああ、あいつの眉毛は巻いていたよなあとどうでもいいことまで思い出した。
馬鹿みたいにキンキラした髪色をして、大口開けてもなぜか咥えた煙草は落ちなくて。
くだらないことに一生懸命になったり、すぐ人を怒鳴り付けたり、しょうもないことで情に流されたり。
足癖は悪いし小言は多いし、女にはてんで弱くてみっともないほど媚び諂うどうしようもねえアホだったのに、時々はちょっと頭の回るところも見せた。
掴みどころのない男だった。
不機嫌に眉を潜めて睨み付ける顔しか見ていないはずなのに、思い出すのはあの時のどこか心許ない表情ばかりだ。



ゾロはぱちりと目を見開いて、眼前に広がる空を見上げた。
残された片目に血が入ったのか、視界は赤黒く濁っている。
けれど今日は朝から快晴だったから、多分空は青いのだろう。
そう言えばあいつの瞳も青い色だったなと場違いなことを思い出し、それから自嘲するように頬を歪めた。

「ゾロ!」
遠くから、ルフィの呼ぶ声がした。
続いてナミが、ウソップが…たくさんの仲間達が自分の名を呼んだ。
それに応えるように、地面に肘を着いて身体を起こす。
足場を濡らす血に身体を染めながら、ゾロは立ち上がり刀を天へと向けた。
「―――――勝ったぞ」
高らかに吠えたつもりの宣言は、喉の奥で掠れて呟き程度にしかならなかったけれど。

勝った。
俺は、世界一の剣豪に勝った。
高々と掲げた刀を見上げれば、やはり血の色に染まった空はそれでも目に眩しかった。



ゾロが大剣豪になった祝いは、船の上で行われた。
サンジが島ごと消えてからすでに5年が経過し、麦わらの一味も仲間が増え今や大所帯だ。
ルフィの胃袋を支えるコックも、2人に増えている。
彼らが腕を奮った祝い膳はゾロのみならず、仲間達を喜ばせた。
「おめでとうゾロ、とうとう夢を叶えたな」
「サンジに続いて二人目だな、夢を叶えたのは」
チョッパーの言葉に目を潤ませながら、ウソップは乱暴にグラスをかち合わせた。
「おうそうだよ、なんせ一先だったのはサンジだからな。いくらゾロでも、これは勝てねえだろう」
「…そうだな」
ふざけんな、俺が一番だと。
若い頃なら意地を張って言い通しただろう。
けれどもう、どんなに悪態を吐こうが憎まれ口を叩こうが、むきになって言い返してくるサンジはいない。
「サンジも、この場にいたら喜んだだろうなあ」
チョッパーの言葉に、ナミがいやあねえと豪快にその肩を叩く。
「ゾロが大剣豪になったのは、グランドライン中を駆け巡って大ニュースになってんだから。サンジ君だってきっともう、知ってるわよ」
「そんで、やりやがったなクソ野郎とか言ってっかな」
「きっとボロカスに貶してんだぜ。ゾロ、くしゃみ出ねえか?」
茶化すウソップに、ゾロも苦笑するしかない。
「サンジさんは言葉は乱暴ですが、とっても情に厚い方でしたからねえ。きっと喜んでくださってますヨホホ〜」
「ああー!サンジの飯が、食いてえなあ!」
ルフィが、ひときわ大きな声で叫んだ。
ぎょっとした仲間達に構わず、両手を長く伸ばして膨らんだ腹を反らす。
「ゾロを祝う、サンジの飯が食いてえ!」

それぞれの夢を叶えるためにグランドラインを渡っているが、目的の中に「オールブルーを見つけること」が加わった。
いつか必ず、またあの楽園のような島を見つけるのだ。
そうして、きっとそこで料理をしているだろうサンジにもう一度出会う。
そのために、どこまでも船は進む。

「そうよ、オールブルーを見つけるのよ!」
「サンジはきっとどこかにいる」
「必ずサンジさんにお会いするのですヨホホ〜私の目が黒いうちに…いや、私目ぇないんですけども」
仲間達が次々とジョッキを掲げて行くのに、ゾロも包帯だらけの腕を上げて腹から声を出した。
「コックを探し出して、美味い飯食うぞ!」
「「「「おうっ!」」」」
銅鑼声で答える中、ナミがグラスをもったまま手の甲で目元を拭った。
「…なによバカ、今さら美味い飯だなんて」
「ああ、そうだな」
ゾロは自嘲するように、グラスを口元に当てたまま薄ら笑う。
「今さらだ、なにもかも」

あの日、これきりで別れるつもりで帰った島は、どこにもなかった。
そうして、コックも消えた。
ゾロの誕生日を祝うと言ったはずのなのに、別れの宴をきちんと開くはずだったのに。
元から何の言葉も残すつもりはなかったが、その前に消え去られてからずっとゾロの心に蟠りが残っている。
時間が経てばいずれ消える物のはずが、時を経るごとにそれは色濃く重なり静かに積もった。
生まれてこの方、神に祈ることも後悔することもなかった自分なのに。
ただ突然の別れだけが消化しきれず、幾度も繰り返し思い出す。
そして行き着く答えは、いつも同じだ。

―――コックに、会いたい。




next