こんなに長い幸福の不在 -10-




宴の主役であるはずのサンジは、何人かのルフィお抱えコックと共にサニー号の厨房に立っていた。
何度も補修されつつも、基本は同じ船だからどこに何があるかはわかっている。
けれど、最新の調理器具で揃えられているため使い方はさっぱりだ。
自分よりうんと年上の、けれどルフィやゾロ達よりもずっとずっと年若く下っ端な彼らに素直に教えを乞うて、恐縮されつつ手ほどきを受けた。
彼らにしても、突然現れた年下の大先輩は扱いづらいだろう。
そう思うのに、どのコック達も最初からサンジのことをよく知っていた。
「そりゃあもう、毎日毎回サンジさんのことは聞かされてましたから」
サンジに一番年の近い、19歳の下働きはそう言って目を輝かせた。
「いつか絶対帰って来るって、“黒足のサンジ”の話は、俺がこの船に乗せてもらってからもずっと聞いてます。っていうか、まるでほんとにサンジさんがこの船に乗ってるみたいに、自然に当たり前みたいに話題になってました。だから、俺も初めて会う人なのに、最初からもう親近感あったんです。ああやっと、サンジさんが帰ってきてくれたんだなあって」
一度も会ったことないのに変ですよねと、畏怖や遠慮などなしに中途半端な敬語を交えてたどたどしく説明してくれる。
「そうですよ。サンジさんは俺らのことを知らないだろけど、俺らはサンジさんのことをよーく知ってます」
「女好きで男には厳しくて、けれど誰よりも優しくて。腹が減ってる相手には、敵だろうが仇だろうが食わせてやるって」
「情に厚くて涙脆くて、でも口が悪くて乱暴なんですよね」
「うっせえな、余計なこと言ってないで手を動かせクソ野郎ども」
サンジが顔を真っ赤にして怒鳴り付けると、いかついコック達はガハハハと笑った。
いかにも海賊船の厨房らしい、乱雑な怒号が飛び交う様子はバラティエを彷彿とさせる。
サンジはそこまで思い出して、ツキンと胸を痛めた。
―――22年も経っているなら、ジジイはもう・・・

「サーンジー!いつまで引っ込んでる気だーっ」
嵐のようにルフィが飛び込んできて、後は運ぶだけになっていた大皿の一つを口の中に押し込むと、サンジの身体に腕を巻き付けて颯爽と飛び出して行った。
「おまへがふやふはんはらら、ひっほんでんははいほ」
「どさくさに紛れてつまみ食いすんじゃねえ、このクソゴム−!」
蹴っても抓っても知らん顔のゴム人間を捻り回している間に、すとんと宴の席である甲板最上段に座らされた。
隣には当然のようにゾロが待ち受けていて、思わず赤面する。
「なんなんだよ」
「そりゃお前だ、いつまでもチョロチョロしてんじゃねえ」
「誰がチョロチョロだ!」
「サンジ君が主役なんだから、ずっとここにいてよ」
「はい!ナミさんっ!」
ナミとロビンに両脇から挟まれ、途端に大人しくなるサンジを古株の仲間達が笑っている。

麦わらの一味は、今やいくつもの船を抱えた大所帯となっていた。
サニー号は本船ではなく、幹部達の家族の住まいだ。
美女に囲まれてデレるサンジをもの珍しそうに見つめる少年・少女達には、それぞれに親の面影がある。
「しかしこのクソゴム野郎が、まさか人の親になってるなんてなあ」
乾杯の酒でほろ酔い気分になったサンジは、ナミの背中に引っ付いたルフィに生き写しの子猿みたいな少年を手招いた。
「この子は末っ子よ、長男はもうすぐ20歳なの」
「え、俺と一つ違い…」
軽くショックを受けつつ、ミニルフィを膝に乗せる。
「サンジ、すげえ美味そうないい匂いがするなあ」
ルフィそっくりの笑顔で、子猿はサンジの胴に手を回して抱き着いた。
肩越しに覗いたゾロが軽く睨み付けても、知らん顔だ。
「こっちは、うちの息子と娘だ」
長い鼻を高くしてウソップが紹介したのは、10代半ばの子どもたち。
「娘さん、お母さんに似て美人だなあ」
「息子スルーかよ!お前はそういう奴だ!」
「サンジ、私の娘よ」
「初めまして、サンジさん」
行儀よく挨拶するロビンの娘は、それこそロビンに生き写しだった。
父親であるフランキーの遺伝はかけらも入っていないようで、サンジのテンションが上がる。
「素晴らしい、ナミさんもロビンちゃんもカヤちゃんも、それぞれにお母さん似の麗しいレディが増えててまるで天国じゃねえかこの船は!」
「…やっぱり、俺らのことはガン無視だよな」
がっくりと肩を落とすウソップの背中を、息子達が元気づけるように叩く。
「サンジはこうでねえと」
「これこそサンジだ」
「親父に聞いてた通りだなあ」
和やかな笑い声に包まれて、サンジも擽ったそうに笑う。

宴会があると、自分は周りの状況を見ながら料理を追加したり皿を下げたりと、忙しかった。
だからこんな風にどっしりと腰を落ち着けて、歓待されるのは性に合わない。
ましてや、自分にとっては馴染み深い船で昔からの仲間に囲まれての宴は、落ち着くようで落ち着かなかった。
「ソワソワしてるわね、落ち着かない?」
ナミにはすぐに見抜かれて、サンジは「まあね」と素直に認める。
「俺はやっぱ、あれこれ動いてた方が性に合うんだ。もちろん、新しい仲間や家族達ともゆっくり話をしたいけど、でもいろいろあり過ぎていっぱいいっぱいで…」
「そうね、私達もサンジ君が帰って来たのが嬉しくて、ちょっとはしゃぎすぎちゃったかも」
ルフィとチョッパーは、すでに恒例となった割り箸踊りを仲間を引き連れ披露していた。
皆の注目がそちらに集まるのをいいことに、ナミと二人で少し場を離れて船べりの端に移動する。

「ああ、綺麗な星空だ」
「ふふ、今夜は西からの風が上空の大気を押し上げてくれるから視界がとても澄んでいるの。星見には最適よ、雲もなく雨の心配もなし」
「さすがだね」
改めて、グラスを軽くかち合わせて乾杯する。
まるで水のようにさらりと酒を飲み下す、ナミの横顔をサンジはじっと見つめた。
ナミと別れたのだって、ほんの数日前のことだ。
けれどいま、サンジの目の前にいるナミは、子どもを3人儲けた大人の女性だった。
「覚悟はしていたけど、やっぱりサンジ君は全然変わってないわね」
サンジの思惑と真逆の、それでいて同じことをナミは呟いた。
「こうしてみると、サンジ君ってこんなに可愛かったのかしらって思うわ」
「止めてくれよナミさん〜」
サンジは大袈裟な身振りで、両手を振った。
実際、女性に「可愛い」と評されても嬉しくない。
「お肌なんかつるっつるで、んもー、若いっていいわあ」
「…ははははは」
本気で否定しても角が立ちそうだし、どう反応していいかわからず乾いた笑いだけが漏れる。
「それに比べて、私はもう3人の子持ちだもの。上の子はサンジ君と変わらない年だし」
「とてもそうは見えないよ、ナミさんは変わらずに美しい…いや、俺が知ってるナミさんより、さらに数倍美しくなってるよ」
サンジは本気でそう言った。
確かに、サンジにとっては数日前のナミは、それこそ肌もスベスベで弾力があって、ぴちぴちでつるピカのボンキュッボンだったけれど、いま目の前にいるナミはそれこそ輝くばかりに美しい。
愛する人を得て子を儲け、自分の思うままに生きてきた自信に満ち溢れている。
「ふふ、ありがと。確かに、若さではサンジ君に負けるけど私は私で、現状に満足してるのよ」
綺麗に整えられた爪でグラスの縁をなぞり、ナミはサンジを愛しげに見つめた。
「たくさんの海を渡って、冒険をしてきたわ。何度も死に掛けたし、もうダメだって思ったこともある。けどその度に、仲間がいたから乗り越えられた。サンジ君がいつか戻って来るって、一緒にオールブルーを見つけるんだって、そう思って頑張って来たの」
ナミはそこまで言って、一つ息を継いだ。
「そして、サンジ君は本当に帰ってきた。もう一度会えた、このことがほんとに嬉しい」
「ナミさん…」
ナミの目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
つられてサンジの視界もぼやけて、慌ててグラスを持ったまま手の甲で頬を抑える。
「あ、なんか風が出て来たね」
「うそ、無風よ」
ナミは軽く笑い声を立て、グラスを両手で抱くように胸元に持っていった。
「ねえサンジ君、もう私は若くないけれど大切で愛しいものを得て、たくさんの経験をして強くなったわ。私は、今のままの私が好き。サンジ君よりうんと年上になっちゃったけど、でも過去の自分に戻りたいなんて思わない」
「――――・・・」
「私は、いまこうして存在するから私なの。そして、サンジ君はサンジ君の時間を経て、こうして戻ってきてくれた。サンジ君にとってはほんの僅か数日だったとしても、私達との年月にあまりに大きな隔たりがあったとしても、今こうして私たちは同じ場所、同じ時間にいるわ」
「…うん」
ナミの真剣な眼差しに、サンジもこっくりと頷いた。
「ねえ、私達はなにも失っていないの。取り返さなきゃならないものも、時間を巻き戻したいと思うこともないの。だって、サンジ君は帰ってきてくれたんだもの。またこうして一緒にいられるんだもの。年の差ができても、これは元通りなの」
「――――・・・」
そうだろうか、と口に出しかけて止めた。
否定の形にならないように、言い方を変える。
「そうなのか、な?」
「そうよ。もしサンジ君が、私達が生きている間に戻ってきてくれなかったら、私達は一生サンジ君を失ったことを嘆いたと思う。けど、サンジ君は戻ってきてくれた。私達の時間は、再び同じ時を刻むようになった。私は、私達はなにも失ってないの」
「…本当に」
「ええ」
力強いナミの言葉が、ずっと不安に震えていたサンジの心を温かく満たしてくれた。
どんなに仲間に歓待されても、自分の存在を忘れられていなかったとしても、仲間達との間にできた隔たりは決して埋めることなどできないと、勝手に思いこんでいた。

だって年が違う。
経験の差がある。
体格だって全然違うし、みんなもうずっとずっと大人になってしまっていた。
なのに――――

ナミは、なに一つ失ってなどいないのだと、胸を張って宣言してくれた。
年を取っても、あの頃のように若さと勢いだけで海を渡っていけなくても、すべてを経験し生きて来たから今がある。
サンジが、オールブルーで過ごしたほんの数日間もまた、ナミにとっては同じ経験の内なのだ。

「…俺は、ここにいいて、いいのかな」
声が震えるのを誤魔化しきれず、サンジは空になったグラスを顔の前に翳した。
「もちろんよ」
ナミの声は、どこまでも静かで優しい。
「でも俺は、一人だけガキで…多分、みんなの誰よりも、弱い…」
「いいえ、貴方は誰よりも若くて強いわ」
「俺じゃ、足手まといに――――」
「サンジ君が必要なの、これからもずっと」
「俺は――――」
「大好きよサンジ君、帰って来てくれてとても嬉しい」
ナミの手がそっと肩に回された。
抱き寄せられるのに任せて、その豊かな胸元に顔を埋める。
「お帰りなさい、サンジ君」
「―――――・・・」

甲板で繰り広げられるバカ騒ぎと、闇夜に響く笑い声がサンジの嗚咽を隠してくれた。
ただ声もなく、小さく震えながらナミの胸に吐息だけを零す。
このままでいいのだと、失ったものなどなにもないと。
サンジにとって女神にも等しいナミの口から出た言葉は、ゾロに再会してからずっとサンジの心を戒め続けた見えない鎖さえも解きほぐしてくれた。

「…ねえ、ナミさん」
「なあに?」
ぐずぐずと鼻を啜りながら、サンジは長い前髪で目元を隠しつつそっと顔を上げる。
「あのさ、俺この期に及んでも、やっぱり…」
「うん」
「オールブルーに、行きたいんだ」

ゾロと再会した時にも、サンジの頭の中は消えゆくオールブルーでいっぱいだった。
そんなサンジを、ゾロは確かにこう言って引き止めた。
「俺達が、お前をオールブルーに連れて行ってやる」と。
サンジを取り返すための方便だったかもしれないけれど、でもやっぱりオールブルーはサンジの夢だ。
ナミが、なにもかも元通りだと言うのなら、やはりサンジは夢を追いたい。
「こんなに年の隔たりができて、でもやっぱり俺、もっかいオールブルーに行きたくて…」
今度こそ怒られるかと思ったが、ナミはにっこりとほほ笑んだ。
「もちろんよサンジ君。私達は海賊よ、欲しいものを手に入れて生きていくの」
「ナミさん?」
「サンジ君だけじゃないわ、私達だってオールブルーが欲しいの。だから、この22年の間にどれだけ研究したことか…」
ナミが振り返ると、ちょうどフランキーとロビンがこちらに歩いてくるところだった。
立ち上がって手招く。
「私達の計算に間違いがなければ、時空の歪みを回避して問題なくオールブルーにたどり着けるのよ、ねえ?」
突然話を振られたフランキーが、おうよと昔と同じように無駄なポーズを取りつつ答えた。
「ユニコーンFive号で行きゃあ、スゥーパァー楽勝だぜ」
ロビンも、蠱惑的な笑みを浮かべて頷いた。
「もし、サンジが自分からこちらに来なかったら私達の方から迎えに行くつもりだったのよ」
「…ほんと、に?」
サンジが目を丸くする様子を、三人はまるで保護者のような顔で見つめている。
「どこに消えたって、逃がしはしなかったのよサンジ君」
「私達にとっても、オールブルーは夢の楽園。最初はあなたを探しに行くつもりだったけど、今はもうあなたと一緒にそこに行くことが目的よ」
「オールブルーも手に入れるんだ、俺達ァそういう海賊さ」
頼もしいフランキーの言葉に、サンジは頬を上気させて頷いた。
「そっか、そうだな」
「それに、ちゃんとオールブルーを発見したことをなにより第一に報告しなきゃ、ダメじゃない」
ナミに諭され、サンジは「ん?」と首を傾げた。
「報告…うん、そうだな。でも俺があそこにいたのって、ほんの数時間のことで…」
「私達に、じゃないわよ。あなたと最初にあの場所を“夢”と呼んでいたのは、誰」
ナミの言葉に、サンジは目を大きく見開いた。
「――――まさか…」
「まさか、もう・・・とか思ってたんじゃないでしょうね。そんなことじゃ、グランドラインの果てまで蹴り飛ばされるわよ。バラティエはグランドラインにまで支店を広げて、まだ現役で活躍されてるのに」
「―――――!」
――――まさか、本当にジジイは。
ジジイはまだ、元気で生きてる?!

ぐわっと熱い思いが喉元まで込み上げて、視界が濡れて歪んでしまった。
必死で声を殺そうとして、でもできなくて。
手で顔を隠すのもみっともなくて、ただ突っ立ったままボロボロと涙を溢れさせる。
「あらあらまあ…」
懐からハンカチを取り出して顔に押し当てようとしたナミを押しのけ、いつの間にかゾロがサンジの前に立ちはだかった。
背中をサンジに預け、両手を組んで三人を睨み返す。
「お前ら、こいつを苛めてんじゃねえよ」
「苛めてないわよ」
「まあ、随分ね」
「まったくだ、やってらんねえぜ」

じゃれ合いのような口喧嘩をしつつ、そのまま今後のオールブルー探索計画へと話を移行する。
その間、サンジはゾロの背中にぴったりと顔をくっ付けて、思う存分涙を流した。




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