こんなに長い幸福の不在 -1-




大切なものは失ってから気付く―――
と。失ってから、初めて気付いた。



 *  *  *



青い空に白い帆を掲げ、サニー号は大海原をゆったりと渡っていく。
グランドラインに漕ぎ出て以降、幾度となくトラブルに見舞われ荒れた天候に振り回されもしたが、2年の修行を経てクルー達はそれぞれに逞しく成長しそれなりに学習能力も身に付けた。
未だ海賊らしくない慎重さと堅実さを持って、賞金額だけは確実に跳ね上がりその名は徐々に広がっている。
いっぱしの海賊となった今でも、昼下がりには太平楽な声が響いた。
「おやつだぞ〜」
「うほほ〜い!」
「やったあ」
声を合図に、男達はまるで子どもの様になにもかもを途中で放り出してキッチンへと走る。
女達はデッキチェアに寝そべったまま、優雅な仕種で空を振り仰いだ。
「今日のおやつはなにかしら」
「少し気温が高いから、冷たい飲み物かもしれないわね」
「クソゴム、手え洗ってから座れ!それはチョッパーの皿だ、ウソップ勝手に飲み物持ってけ!」
怒鳴り声と何がしかの破壊音の後、しばらく静寂が降りてからバタンとキッチンの扉が開いた。
「んっナミすわん、ロビンっちゅわん!おやつだよほ〜〜〜」
毎日ぴったりのタイミングで、サンジがクルクル回転しながら姿を現す。
両手と頭の上にトレイや皿を乗せ、上げた片足にもガラスのポットを乗せて器用に歩み寄った。
「今日はちょっと温かいからね、喉にすっきり冷たいアーノルド・パーマーはいかが?」
「嬉しい」
「お茶請けは、さっくり焼き上げた木の実のタルトだよ〜」
「香ばしい、いい匂いね」
ロビンは一口大のタルトを早速口に運び、ほっと顔を綻ばせた。
「ほろりと崩れてほんのり甘くて、美味しいわとっても」
「アイスティーもあっさりしてて、喉に気持ちいい」
「喜んでもらえて、幸せ〜〜〜」
目をハートにしてクネクネ身体を波打たせているサンジの後ろで、またしても声が響いた。
「サーンジー!お代わりー」
「早えよ!ってか、勝手に漁るなー」
焦って駆け戻る姿を、ナミとロビンはクスクス笑いながら見送った。
またしても怒鳴り声と破壊音が響いて、再びサンジが姿を現す。
「…たく、俺がデリバリーするのは美女オンリーだっての」
ぶつぶつと文句を言いつつもおやつが入った皿を頭に載せて、見張り台へと向かった。
「なんのかんの言いつつ、サンジ君って誰にでも面倒見いいのよねえ」
「そこがサンジの、サンジたる所以よ」
キッチンの喧騒をよそに甲板で優雅なティータイムを楽しみながら、他人事と割り切って面白がっている。


サンジは器用に見張り台へと上がると、中で汗だくになりながらブンブンと鉄串を振っているゾロの姿を咥え煙草のまま嫌そうに眺めた。
「あーやだやだ、部屋が汗臭くなるだろうが」
「…あんだ、うっせえな」
ゾロは肩に掛けたタオルでぐいっと汗を拭き、不機嫌な顔で振り返る。
「ちゃんと水分補給…してるな、よしよし」
特製のドリンクを入れたボトルはほぼ空になっていて、サンジの機嫌は一気によくなった。
「ほらおやつだ、ありがたく食え」
「・・・」
特に感謝はしないが文句も言わないで、ゾロはおざなりにタオルで手を拭きタルトを摘まんだ。
一口で頬張って、ボリボリと小気味よい音を立てて咀嚼する。
「ボトル、追加しとくか」
「いや、もう今日はこれで終わる。ナミが夕方から荒れるっつってたからな」
「そうか、ナミさんが言うなら用心しねえとな。俺は夕食の準備があるから、嵐対策よろしくな」
他の仲間の目があるとなぜか妙に意識し合ってすぐに喧嘩腰になるが、こうして二人きりで会話する分にはさほど諍いにならない。
普段は犬猿の仲とは言え、お互いの役目を尊重し合っていることは自覚していた。
「今日こそは風呂入れよ」
「一昨日入った」
「普通は毎日、入るもんなんだよ」
軽口を叩きながら、サンジは空になった皿とグラスを持って見張り台から降りる。
食器を乗せた金色の頭が視界から消えるまで、ゾロはどこか名残惜しげに見送っていた。

サンジとは、初対面の時からそりが合わなかった。
考えや物事の捉え方がなにもかもが真逆で、口うるさく事細かく、女に媚び諂う態度も癪に障った。
けれど、恐らくは根本的な部分が似通っているのだろう。
ここぞと言う時には意見が合うし、戦闘時には息も合う。
ゾロにとって、倒すべき敵でも守るべき仲間でもない、不思議な存在だ。
そんなサンジのことをいつからか、無意識に目で追うようになっていた自分に気付いても、その行為の意味を深く考えることはしなかった。
考えても仕方がないし、無理になんとかしようとも思わない。
お互いに別々の夢を追う、所詮は他人同士だ。
同じ船に乗合でもしなければ、仲間と呼び合う関係にもならなかっただろう。
そして、いつかそれぞれの夢が叶った日には、別々の道を行く。
あくまで、夢が叶うまでの一時的な仲間だと思っているから最初から欲しがらない。
それでいいのだと、ゾロはずっと己の心に蓋をし続けた。





「次の島って、いつ到着の予定でしたでしょうか?」
嵐をやり過ごし、穏やかな揺れとなった夕餉の席でブルックが真面目な表情で(表情筋はないけれど)聞いてきた。
「まだちょっと先よ。このまま順調に進めば、1週間後くらいかな」
「ではまだ、島影も見えませんよねえ」
「どうしたブルック、なんか見えたのか?」
嵐の対応でみんなが右往左往しているとき、ブルックは見張り台でバイオリンを奏でていた。
雲が晴れたのを告げたのも、ブルックの一声だ。
「いえね、目の錯覚かもしれませんが西の方角に島影が見えた気がしたのですよ」
「あの嵐の中で?」
「ええ、雲の切れ間からくっきりと。どこか神々しい景色でしたから、思わず瞬きして見入っちゃいました。私、瞼ないんですけど」
「けど、嵐が治まって周りを見回したとき、そんな島影なんか見えなかったぞ」
ルフィにおかずを取られまいと皿を抱えながら、ウソップは首を捻る。
「どちらにしろ、もう日が暮れたから視認は困難ね。今夜の見張りは私だから、灯りか何かが見えないか気を付けてみるわ」
「ナミさん嵐対策で疲れてるだろ、俺が見張りを代わるよ」
サンジの申し出に、ナミはきっぱりと首を振る。
「この程度で疲れたなんて言ってたら海賊は勤まらないわよ。サンジ君はいつも通り、美味しいお夜食をお願い」
「了解」
にっこり笑って、恭しく胸に手を当てて会釈する。
芝居がかった仕種も、サンジがするとなぜか様になって見えた。



サンジが夜食を届けてキッチンに戻ると、風呂上がりのゾロが勝手に酒を取り出してラッパ飲みしている。
「なんだ、グラス使えっつってっだろ」
「んなもん、いらねえよ」
ぞんざいに言い返して、口元を拭いぷはーと息を吐く。
「風呂入ったんだな、偉い偉い」
「別に、潮被ったからもう入らなくていいだろっつったんだけどよ、ナミがうるせえったら」
「当たり前だ。前から言ってるが、海入ったり潮被ったりするのを入浴の内にカウントするな」
小言を言いつつ、サンジは冷蔵庫の中に仕舞ってあったつまみをゾロの前に置いた。
「そして、酒だけ飲むな。なんか腹に入れろ」
「…おう」
なんのかんのと文句を言いつつ、時折ふらりとキッチンに現れて酒を飲むゾロのために、サンジは必ずつまみを用意してくれている。
毎日のことではないから時には無駄になることもあるだろうに、それでもいつ来てもいいように準備していてくれるのだろうか。
それとも、今夜は来そうだなとわかっているのか。
聞いてみたい気もするが、その答えを得てしまうのはまずい気がした。
単なる偶然だとか、それがコックの仕事だとか、簡単にあしらわれても誤魔化された気になるし、もっと別の意味を持つ返事が来たら、ゾロの中でひっそりと押し隠している感情に触れてしまう。

カタンと小さな音を立て、サンジが向かいの席に腰を下ろした。
「…たく、だからグラスで飲めっつってんだ」
「なんだ、もう一本開けるか?」
「勿体ねえだろ、俺はちょっとでいいんだ」
「残ったら俺が飲む」
「馬鹿野郎、結局お前が得してんだろ」
口では悪態を吐きつつも、ゾロが新しい酒瓶の蓋を開けるのを笑ってみていた。
「ほら」
「おう」
サンジのグラスに注いでやり、残りは自分で口を付ける。
「やっぱり全部、飲み干す気か」
「欲しかったら注いでやる」
「てめえの口がついた瓶からなんて、願い下げだ」
視線を逸らして嫌そうに顔を顰めるサンジを、ゾロは不思議な生き物でも見るような目で見た。
こいつの、こういうところがまったく理解できない。
酒の回し飲みを嫌がるなんて、海賊の風上にも置けない…と言うか、どんだけ潔癖と言うか行儀がいいと言うか箱入りと言うか―――。
「・・・あんだよ」
繁々と顔を見ているのに気付いたか、不機嫌な目で睨み返された。
「いや、なんかおもしれえなあと」
「俺の顔に何か付いてるか、ってかてめえ…」
「つくづく、不思議な眉毛だ」
「このくそ野郎!表へ出ろ!」
やっぱり、俺達はこうでないとなと内心でほっとして、ゾロは笑った。





「島が見えるわ」
見張りのナミが知らせるまでもなく、朝を迎え起きてきたクルーはそれぞれに外の景色に足を止め、目を瞠った。
一番早起きだったサンジは、その光景を目の当たりにして朝食を作ることも忘れている。
「なんて綺麗な、島と海」
感嘆の声を漏らすロビンの後ろから、一番遅く起きたゾロが生あくびをしながらのそのそと出てくる。
「なんだ、みんな突っ立って・・・」
眼前の景色に気付き、言葉もなく立ち尽くした。

薄い青色に広がる空をバックに、緑に溢れた小島があった。
白い砂浜に穏やかな波が打ち寄せ、反対側は切り立った崖となっている。
中央にこんもりとした森が茂り、何羽かの色鮮やかな鳥が羽ばたいているのが見えた。
海軍の空母ぐらいしか大きさのない、小さな小さな島だ。
そしてなにより目を引いたのが、その島に打ち寄せる波に続く海。
サニー号から見下ろす海も、まるで縞模様のように浮かぶ海流も、島向こうに眺める海もすべてが違う色を成している。
「サンジ君・・・これって…」
「まさか…これは・・・」
グランドラインのただ中に、すべての海が集合する不思議な空間が、確かにあった。




「これは、イーストで獲れるコブフクロダイだ」
「見て、崖の下にジャイアントホンマグロが泳いでる!」
「おいおい、こりゃあノースでしか見られないマシロクラーケンじゃねえのか?図鑑で見たことあるぞ」
「わーあの魚すっごい綺麗だ、目が痛くなるようなピンク色で」
「サウスのベニススメヨリの大群だわ」
朝食を採るのもそこそこに、島に上陸して手分けして調べた。
島周りは徒歩で歩いても2時間も掛からない。
森も平坦で中央では真水が湧いており、小さいながらも滝があった。
小さいながらも独立した生態系があるのか、森の中には鳥も小動物も虫もいた。
人が住んでいる気配はなく、建造物の名残や人工物も発見できない。
「いきなり現れた、不思議島ね」
「昨夜の嵐でコースがずれたとか、そういうのねえか?」
「ないと思うけど…座標は間違ってないし」
困惑しながら地図を書き記すナミと、測量を買って出たフランキー。
島内を「探検だー」と飛び出して行ったルフィは、山ほどの果物を抱えて戻ってきた。
「これ美味いぞう、こっちもすっぺえけど種が美味え」
「こら、みだりになんでも食べるんじゃない」
「これ、見たことない種類だ。なんだろう」
「植物図鑑があるわよ」
チョッパーとロビンが仲良く図鑑を覗き込んでいると、ウソップが昆虫図鑑はないかと走ってきた。
「ヨホホ〜まさに楽園のようです、小鳥ちゃんもねずみちゃんもどきも実に可愛らしい」
頭や肩に小動物をまとわりつかせ、ブルックは上機嫌でバイオリンを奏でていた。
まさに、この世の天国のような場所だ。

ゾロは3回ほど似たような景色を眺め、ようやく船が止まっている場所に戻ってきた。
ざっと見渡して、サンジの姿がないのに気付く。
「コックはどこだ」
「キッチンにいるんじゃない?」
そろそろ昼食の時間かと、いい匂いが漂うサニー号へと足を向ければ甲板で煙草を吹かすサンジを見つけた。
手すりに肘を掛けて、背中を丸めてぼうっと海を眺めている。
その背中がやけに細く頼りなく見えて、ゾロはつい声を掛けてしまった。
「…おい」
「―――ん?」
振り返った顔は、煙草を口端に咥えたふてぶてしい表情だ。
いつもと同じだとほっとして、ゾロは甲板に降り立つ。
「なにしてんだ」
「んー海を見てた」
サンジの視線に誘われるように、ゾロも甲板から海を見下ろす。
小さな島の周りは海で囲まれているが、明らかに色の違う層ができていた。
海流も滅茶苦茶な渦を巻いているように見えて、きちんと法則性を持って流れている。
「…こりゃあ」
「ああ…俺は、俺らはついに、見つけちまったんだな」
サンジの声が上擦っていた。
平然として見えたが、本当は途方に暮れるほど興奮していたのだ。
まだ、これが現実のものとして認識できないほどに。
「…見つけたんだな、ここがオールブルーだ」
ゾロは、サンジの顔を見上げた。
サンジはどこか夢見がちに、頬を紅潮させて海を眺めている。
視線に気付いて振り向いて、どこかバツが悪そうに下唇を突き出した。
それがまるで子どものように不安げに見えて、ゾロは安心させるようにゆっくりと微笑んだ。
「そうだ、ここがオールブルーだ」
「――――!」
一瞬、サンジの目が萎んだ。
忙しなく瞬きしてから、くしゃりと顔を歪める。
すぐに悪戯が見つかったみたいな笑顔になって、俯いたままヘヘヘと笑った。
「俺は、見つけたんだ」
「おう」
「見つけたんだ、ここがオールブルーだ」
「おう」
サンジはくるりと背を向けて、海に向かって両手を挙げた。

「ここが、オールブルーだー!」
「お――――っ」
浜辺で飛び回っていたルフィが、同じように咆哮して手を上げる。
ウソップもナミも、チョッパーもロビンもフランキーも、ブルックも演奏を止めて拳を上げた。
「オールブルーを、見つけたぞー!!」
サンジの叫びに答えるように、ゾロもそっと拳を突き上げた。



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