Fortuna
-5-





何もできることはないができるだけ側にいようと決意したのはサンジだが、何故か当たり前のようにゾロがついてきた。

「なんでお前まで来るんだ」
真顔で問えば、それがなにか?と心外そうな顔をする。
口数が少なく不遜な態度ばかり目立つゾロだが、実際考えていることはさっぱりわかない。
何も考えていないのかも、知れない。







「おっす、生きてるか?」
明けて翌朝、シャレにならない台詞で扉を開けたら、外は晴天でも暗い室内で身動ぎする気配がした。
大丈夫、まだ生きている。

「悪いな、また来ちまった」
ちっとも悪いと思っていない風に、サンジは明るくそう言って笑った。
汚れたシーツに包まったままの『サンジ』も、つられたように笑みを返す。
「ああ、おはよう」

ボロボロのカーテンを開けても陽射しは入らず、窓を開ければドブの異臭が入り込んでくる。
そんな部屋でも、サンジはなんとか空気を入れ替えようと苦心した。
方角を考えて壁をぶち破り、ところどころにガラスを配置して日光を反射させる。
ヨハンナ婆さんは時々目を覚ましてウロウロと動き回り、また元の位置に戻って居眠りするを繰り返しているが、ゾロとサンジの姿を見咎めたりはしなかった。
気付いていないのか見過ごしてくれているのか、判断に苦しむところだ。

宿から拝借してきたシーツに替えて、骨と皮ばかりにやせ細った『サンジ』を横たえる。
黒ずんだ皮膚のところどころには床擦れができて、膿爛れていた。
身体を洗ってやることは諦めて、濡れたタオルで傷のない部分をそっと撫でるように拭う。
髪を梳かし顔を拭えば、『サンジ』は幾分さっぱりとしたようだ。

薄いスープでも受け付けず、とろとろと眠り続ける『サンジ』の傍らで、サンジは旅の話をしていた。
オービット号で働いていた頃のこと。
遭難して、出会った海賊のこと。
海上レストランバラティエでの暮らし。
麦藁帽子を被った、突拍子もない男の出現。

『サンジ』はほとんど目を瞑り、ささやかな息をしながらサンジの話に耳を傾けているようだった。
時折、口元が笑いの形に歪み、軽い咳と共に声が漏れる。
笑っているのだと、思う。
多分、長い間目にしたことのない海の青さ、広がる空の景色を、その瞼の裏に思い描いてくれているのだろう。

『サンジ』が眠りに就くと、サンジは声を落として話を終い、申し訳程度に設えてあるキッチンを掃除して食事の支度を始める。
ゾロと自分のためのものだ。
『サンジ』が食べる事ができなくても、側にいて食事をすることはできる。
それは残酷な行為じゃないことくらい、わかっている。




午後、ゾロはふらりと外出し、サンジは『サンジ』の枕元でジャガイモの皮を剥きながら空島の話をしていた。
荒唐無稽な作り話としか思えないことばかりだから、『サンジ』も御伽噺を聞いているような気持ちになっているだろう。
サンジは気負わず、淡々と経験してきたことを話す。
ふと言葉が途切れ、『サンジ』に眠りが訪れたのかと思った。
そっと側から離れようとすると、シーツからはみ出た『サンジ』の細い指が、ぴくりとその動きを追うように揺れた。
「あ、起きてたのか?」
ちょっとバツが悪そうに座り直したサンジに、『サンジ』が首を向けた。
目が、珍しく大きく見開かれている。

「ゾロは、いい人だね・・・」
唐突な言葉に一瞬サンジは目を丸くして、それから苦笑した。
「ああまあ・・・いい人っつうか、まあ〜〜〜〜悪い奴じゃねえよな」
『サンジ』が緩く首を振る。
「違うよ、サンジの、いい人」
「―――は?」
意味を図りかねて、サンジは強張った笑みのまま『サンジ』を見返した。
「サンジ、好きでしょ」
「は、あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜?!」
思わず声がひっくり返って、ジャガイモを手にしたまま立ち上がる。
ぱらぱらと、膝の上から皮が零れ落ちた。
「お前、何言ってんの?つか、大丈夫か?マジそろそろヤバイのか?」
失礼千万なサンジの物言いに、『サンジ』が咳き込むようにして笑う。
穏やかさを取り戻した表情は、彼を昔の面影に少しずつ近付けているようだ。

「なんで、見てたらわかるじゃないか。好きなんだって」
病人相手に怒鳴り返すこともできず、サンジはジャガイモと包丁を手にしたまま、しばらくおろおろした。
「あ、あのな・・・違うぞ、そういうのとは全然違う」
「違う?」
「ああ違う。お前、普通よりそっち系に長くいたからって、みんながみんなそうだとは思うなよ」
言ってからしまったかな、と思ったが、『サンジ』は気にしていないようだ。
「全然違わないだろ。好意を持つってことは」
「ああ好意ね。・・・いやそれもない!だってな、あいつとはいつも喧嘩ばっかりしてんだぜ」
サンジはベッドに腰掛け直してようやくジャガイモを手放すと、タバコを取り出した。
「あ、もう吸うからな」
一応断ってから火を点ける。

「あのな、あいつは本当に生意気で俺様で、人のこと馬鹿にした口ばっかり叩きやがるんだよ。二言目にはグル眉だとかアホコックとか・・・人の名前もろくに呼びやしねえ」
言ってから、サンジの表情が少し曇った。
「ほんとだぜ、あいつ一言も俺の名前呼ばねえんだ。同じ船に乗って、随分経つのに。色んなとこ行って、結構危ねえ目とかにも遭ってるのによ。・・・一応、仲間なのによ・・・」
声がトーンダウンしていく。
「憎まれ口ばっかり叩いて、俺も大概負けず嫌いだから、あいつにだけは素直になれねーんだよな。うん、だから仲間っつうより喧嘩相手なんだ。他の奴らも、俺とゾロはいっつも喧嘩ばっかりして船まで壊すって、定評あるんだからよ」
自慢にもならないことを言って、ふと思いついたように顔をにやけさせた。
「それより、船にはナミさんとロビンちゃんと言う、そーれはそれはお美しくて聡明な、女神みてえな超特上美女が二人も乗ってるんだぜ!マジで!ああ、これは『サンジ』にも会わせてやりてえなあ。一目見ただけで、絶対寿命が延びるって!!」
両手を顔の横で合わせて、くなくな〜っと身体を捻る。
『サンジ』は呆れたようで、声もなく笑っている。
「ほんとだぜ、俺はあの二人にいつまでも恋をしてるんだ。ああ〜、俺のヴィーナス達は今どこに・・・」
「そういうとこは、全然変わってないね」
「え、そうなのか?」
サンジ自身、自覚がないからよくわかっていない。
「うん、小さいのに女の人の側にばかり寄って行ってた。サンジ、甘えるの上手かったよな」
「へ、え〜〜」
なんだか自分が小さい頃のことを聞くのは、気恥ずかしいものだ。

「でもいいね。恋をしてるんだ」
「そうだぜ。俺はいつでも恋のハリケーンだ!」
「いいな。俺はしたことないからなあ・・・」
『サンジ』は上向いて天井を見つめた。
そんなことないだろうと言いかけて、サンジはタバコを持ち帰る。
『サンジ』が初めて恋した相手には、手酷く裏切られたのだ。

「うん、初恋のあの娘も、結局ほんとの恋だったのかなんて今ではわかんないや。俺・・・誰も愛したことないかもしれない」
愛したことも、愛されたことも。
―――誰一人

ゆっくりと首を巡らせて、サンジを見上げた。
「大切に、しなよね。その気持ち。きっと凄く幸せなことだろうから」
サンジは何か言いかけて、結局何も言えずに黙って何度も頷いた。

「あのさ、経験がない俺が言うのもなんだけど・・・だからやっぱり、ゾロじゃないかと思うんだけど・・・」
この期に及んでまだ言及してくるので、サンジの形相が変わる。
「だからなんでそこでクソ剣士なんだっての!病人だからって手加減しねえぞ、オラっ」
ドスの利いた声で叫べば、『サンジ』は首を竦めてクスクスと笑い声を立てる。

サンジはタバコを揉み消すと、小さくため息をついてそっと『サンジ』に顔を近付けた。
「あのよ、断じてそういうことはないんだけどよ・・・一応だな、聞いてみたいんだけどよ」
内緒事をするように、『サンジ』も神妙な顔つきをして見返す。
「その、あれか?あんたから見ても・・・あの、腹巻マンはだなあ・・・そのー・・・イケてる、か?」
『サンジ』がきょとんとしたように首を傾げる。

「ほら、普段はだらしなくて寝くたれてばかりいるけどよ・・・客観的に見っと、あー、割と顔はいいじゃねえか。勿論俺ほどじゃねえけどよ。それに、結構ガタイもいいし・・・まあ、俺みてえに脚は長くねえけどな」
どこかしどろもどろなサンジの様子を、『サンジ』は子どものようにじっと見詰めていたが、ふと眉を顰めた。
気の毒そうに口を開く。
「ごめん、俺にはわからないや」
「え、あ・・・そう?」
サンジの方が妙にどぎまぎしてしまって、落ち着きがない。
「だって俺、野郎に興味ねえもん」
すぱんと言われて、サンジは一瞬目を丸くした。
その表情に満足したか、『サンジ』がくっくと笑い出す。

しばし呆然としていたサンジだが、あんまり『サンジ』が楽しそうに笑うものだから、段々つられるように表情が緩んできた。
「え、え・・・あは。そうだよな。そう・・・」
「うん。くふふふっ・・・けふっ、あ・はあ・・・」
時折つっかえながら、それでも楽しそうに笑う。
「ごめん、ごめ・・・サンジ、可愛い―――」
ここは一つ怒るべきなのだろうけど、あんまり『サンジ』が楽しそうだから、サンジもなんだか可笑しくなってしまった。
「ははは・・・なんか、俺がおかしいんだよなあ。うはは・・・」
ほんとに可笑しくなってきて涙まで出てきて、サンジは袖でぐいっと目を擦った。















灯りが点かない部屋の中は、日暮れと共に急速に暗くなる。
『サンジ』のささやかな寝息を聞きながら、サンジは暗闇の中で膝を抱えて座っていた。
こうしていると、いつ果てるとも知れない波の音だけを聞いて過ごしたあの日々を、否応なしに思い出す。
普段は辛い思い出だが、今は何故だかそれが救いだ。

暗闇にたゆたう紫煙を目で追いながら、サンジは小さく「よし」と呟いてタバコを揉み消した。
情けないことに色々と考えた挙句の決意なのだ。
それでもやや緊張して立ち上がると、音を立てずに扉を開いた。

廊下には、ゾロが刀を肩に掛け片膝を立てて座っている。
いつもの彼の居眠りスタイルだが、まるで守り人のようだ。
サンジは静かに扉を閉めると、ゾロの前に立ち塞がるようにして歩みを止めた。

「あのよ、俺―――」
声を潜めても、ゾロには届くだろう。
「俺、ここに残る」
ゾロがぱちりと、片目だけ開いた。
「明日ナミさんに頼んで、出航遅らせて貰えないかとりあえず聞くよ。ログ溜まるの、明日だもんな」
期間が短いから、今回は二人とも船番が回らなかった。
今夜、番をしているであろうナミの元に早朝出向いて、頼み込むつもりだ。

「もしダメだってことになったら、俺だけ遅れて行くことになってもいい。この辺は島が続いているからログが示す先はほぼ同じだろうし、追いつけないことはない」
ゾロは目を開けたままで、何も応えない。
「やっぱこれも、何かの縁だしよ。・・・放っとけねえよ。あいつを一人で逝かせるなんて―――最期くらい、看取ってやりてえ」
ずっと孤独に生きてきたのだ。
身寄りもなく、頼れる相手も守るべき人もいない、翻弄されるだけの人生。
「最後の最期くらい、誰かが側にいてやらなけりゃ・・・」
救われないじゃないかと、サンジは呻いた。

自分が『サンジ』を救えるなんて、救ってやるだなんて思い上がったことをしているつもりはなかった。
だがこれもまた、自分にできる精一杯のことでしかないのだ。
せめて最期に彼が目にする光景が穏やかなものであるようにと、見守ってやりたい。

サンジの訴えを、ゾロは黙って聞いていた。
言葉が途切れたのを機に、肩に掛けていた刀を外し、胡坐をかいて座り直す。
「それで、お前はあいつの死を待つつもりか?」
ゾロに言われた意味がわからず、サンジは言葉を詰まらせた。
「・・・なんて?」
「あいつの側で、看取るんだろう」
ゾロの声は、あくまで低く優しい。
「出港を遅らせるのも、お前一人が残るのも同じことだ。あいつの側にいて、この部屋に住んで、毎日あいつがいつ息絶えるか、じっと待ち続けるんだ」
「・・・そんなこと!」
つい声を荒げ、慌てて首を竦めた。
扉を隔てた部屋の中に、文字通り死を待つ人がいる。

「死に掛けてるとは言っても、実際いつ死ぬのか誰にもわからねえ。あいつ自身にもな。それで、お前は側にいて様子を窺うわけだ。今日は生きてるか。夜はどうか。寝てる間に死んでないか、目が覚めたらまだ息をしているか」
「止せよ」
サンジは思わずゾロの腹を踏みつけた。
ゾロは身を捩らず、じっと腹筋で堪えている。
「側に残って、看取るってのはそういうことだ。元々ここに住んでる者ならいざ知らず、旅先で立ち寄った身で出港遅らせてまで残って看取るってのは、早く死んでくれと急かすようなもんじゃねえか。そんなんで、あいつが喜ぶとでも思ってんのかよ」
「黙れ!」
膝を上げて踵で踏みつけた。
ゾロは低く呻いて咳き込んだが、退こうとはしない。
「・・・畜生!俺だってわかってんだよ」
短く言い捨てて、サンジは踵を返し部屋の扉を開けた。


息を詰めて中を窺えば、鼻を突く臭気とさっきと変わらぬ密かな『サンジ』の寝息が聞こえる。
ほっとして、それから何故か後ろめたくて背中越しに扉を閉める。

仰向いて眠る『サンジ』の胸は、殆ど上下しない。
蝋人形かミイラのように無機物で、生の息吹はかけらも感じさせない光景だ。
苦しむ素振りを見せないだけでも、ましだろう。
それは誰にとって?
見ているサンジにとっては、のことだ。
自分は、こんなにも身勝手で、欺瞞に満ちている。


「・・・わかってんだよ、畜生・・・」
もう一度声に出して呟いて、サンジはその場で膝を抱え蹲った。

このまま、『サンジ』を置いて旅立つのは、正直辛い。
できれば側にいて、看取ってやりたいと思うのは切実な本音だ。
けれど、自分の存在が彼の最後の重荷になるのなら、その望みは身勝手な自己満足でしかなくなってしまう。
『サンジ』にとって、自分は所詮、行きずりの旅人でしかない。



ほんの一時、運命が交差しただけのこと。
サンジは先へ行き、『サンジ』はやがて眠る。




じわり、と目頭が熱くなって、サンジは自分の両腕に顔を埋めた。
『サンジ』のために泣くことすら、傲慢な気がした。





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