Fortuna
-6-





早朝、サンジはゾロを残して市場に出掛け、出航の為に必要な買い出しを済ませた。
船番のナミのために朝食を作りに船に戻り、他愛もないことを話しながら、約束の時間に遅れないことも確認する。
ゾロに諭されて従うのは癪だが、夜通し考えた挙句の結論がそれだった。
旅の予定を変えず、『サンジ』とはこのまま別れよう。





サンジが昼前に戻ると、ゾロは起きて廊下で鍛錬をしていたが『サンジ』はまだ眠り続けていた。
このままでは、今日明日が山なのではないのかと、素人目でも判断できる。
別れを告げてこのまま旅立とうと決心したのに、サンジの心はやはり揺れた。

「・・・飯だ」
八つ当たりできる対象はゾロしかおらず、自然とつっけんどんな物言いになる。
ゾロはシャツで適当に汗を拭うと、サンジが即席で用意した木箱のテーブルの前に座った。
狭い室内に食欲をそそる匂いが満ちて、ゾロは『サンジ』に目を向ける。
「食わせてえだろう」
話しかけた訳ではない、独り言のような呟きだ。
サンジその言葉を受けて、胸を詰まらせた。
食いたいだろうではない、食わせたいだろう・・・だ。
それは『サンジ』を思い遣る台詞ではない。

サンジは下唇を噛んで、自分が妙な顔つきにならないよう堪えた。
何を見ても何を聞いても、今は切ない。








船に帰る時刻は、夕方だ。
夜を待たずに出港する手筈になっている。
やきもきして落ち着かず、掃除ばかりに精を出していたサンジの側で、『サンジ』はようやく目を覚ました。

「おはよう」
「おはよう」
『サンジ』にとって、時間も日付も、もはやなんの意味も持たない。
こうして誰かと言葉を交わすことも、これきりになるだろうか。

サンジはできるだけ明るい表情で話しかけた。
「サンジ、俺らそろそろ行くよ」
「ああ」
『サンジ』は今気付いたと言う風に、軽く相槌を打った。
「そうだな、もうログが溜まったのか」
受け答えがしっかりして、悲壮感を見せないのがいっそ苦しい。

サンジはベッドの横に跪いて、両手で『サンジ』の手を握った。
ひやりと冷たく血が通っていないかのようだ。
骨と皮までに痩せきって、力を込めれば容易く折れてしまうだろう。
「多分もう、会うことはないと思う。けど、会えてよかった」
「ありがとう」
『サンジ』の礼は、サンジの嘘に対する感謝だろうか。

サンジは冷たい指を額に当てて、懇願するように言った。
「お願いだ。あんたの本当の名前を教えてくれ」
似たもの同士とは言え、名前まで同じだったわけではないのだ。
『サンジ』には本当の名前があり、人生があったはずだ。
それをすべて否定するように、頑なに『サンジ』を名乗ることが、不可解でならない。

『サンジ』はじっとサンジを見つめた。
その目が逸らされないように、サンジもなるべく穏やかに見える眼差しで見返す。
こうして問うことで、『サンジ』を追い詰めてしまうのではないかと、漠然とした不安はあった。


少し間を置いて『サンジ』は、ほうと囁くような吐息を漏らした。
諦めたのか、絶望への溜息なのか。
サンジの唇は常に笑みを湛えていて、真意を知ることができない。

「ごめんな」
思いもかけず、ひび割れた唇から詫びの言葉が滑り出て、サンジは驚いた。
「え、なんで?」
『サンジ』は幾分蒼褪めて、観念したように瞼を閉じる。
「ごめん、俺が勝手にサンジに縋り付いたんだ」
緩く瞬いて開かれた瞳は、ほんの少し潤んでいた。

「言っただろ?どうせ売られるんなら、少しでも条件のいいとこにって思ってたって・・・だから俺、嘘ついたんだ」
心底申し訳なさそうに、目を瞬かせて口籠る。
「俺、客船の下働きなんてやだったんだ。美味いもん食って、綺麗にしていたかったから―――」
『サンジ』が言わんとすることがわからず、サンジもつられてパチパチと瞬きをする。
「最初に聞いたときも、なんでサンジが?って思った。間違えたのかとも、思った。だって、俺のが綺麗だもの。サンジよりずっと綺麗で、大人しくて、仲立ちしてた人もなんでサンジなんだって首捻ってたもの」
まるで子どもにでも帰ったかのように、口調が拙くなって行く。
「サンジなんてさ。いつもお喋りしてて生意気で、慌てん坊でさ。眉毛も巻いてるしさ。女の人見たらすぐに駆け寄って甘えた声を出して・・・絶対向いてないって思ったんだ」
ぐすんと泣きべそをかいたように顔を歪ませる。
「だから、俺が『サンジ』だって・・・嘘、ついたの。買い手の人も、顔見て違うって、思ったみたいだけど・・・まあいいかって・・・」
「―――え」
「ほんとはサンジが、娼館行くはずだったんだ。客船の下働きは、俺・・・俺が、ほんとは―――」
じわりと潤んだ瞳は、零れ落ちることなく目尻に沁み込んでいく。
「ごめん、ほんとにごめん・・・俺が、勝手にサンジの運命、変えた――ーなのに、そのことに俺だけが、いつまでも縋り付いて―――」

サンジは『サンジ』の震える手を握ったまま、ただ呆然と目を見開いていた。
なんと声を掛けていいのか、わからない。
『サンジ』の言うことが真実ならば、娼館に売られたのはサンジの方だった。
そして目の前の彼が、本当はオービット号に乗っていた?

冷たい指でぎゅっと握り返されて、サンジは我に返った。
『サンジ』が虚ろな瞳で見上げている。
「・・・俺が勝手に、運命を結び付けたんだ。それからずっと『サンジ』を名乗って、俺を、今までの俺を、あの時の俺の決断を、否定し続けてきた。俺じゃないって、ほんとは俺じゃないって、サンジだって―――」
混乱しながらも、必死で言葉を探す。
「ほんとにごめん・・・思わないことでサンジに会えて・・・そんなに元気で、幸せそうで、強くて優しくて、綺麗になってたから――」
嗚咽を隠そうとして引き上げた両手は、サンジの手を動かすほどに力強かった。
「一人ぼっちじゃなくて、大切な人も側にいて、夢も、持ってる―――幸せな、幸せなサンジ、を―――」
「もういい」
サンジは覆い被さるようにして身体を伏せた。
抱き締めたいけど、それさえできない。

「せめて、『サンジ』として、死にたいんだ。勝手だけど、我がままだけど・・・サンジが生きていてくれるなら、海賊で、コックで、夢を持って生きていってくれるなら・・・」
「サンジ」
「勝手に運命を繋げて、思い込んで、ごめん―――」
かすかに首捻って震え続ける『サンジ』の肩を、宥めるように優しく撫でた。
「わかってる、わかってる『サンジ』。俺でいいなら、『サンジ』でいいなら、ずっと俺でいいから」
サンジの首に、渇いた金髪が小刻みに触れる。
嘆く度に命の灯が薄れていくようで、堪らなかった。







幾度か痙攣を繰り返し、『サンジ』は横たわったまま細々と息を繋いだ。
まるで瀕死の小鳥のように頼りなく儚い。
この状態で置き去りにするのは忍びなかったが、時間は刻々と過ぎて行く。

「そろそろ、行くぞ」
ゾロに促され、サンジは髪を撫でる手を止めた。
ぎゅっと拳を握り、振り切るように立ち上がる。
見下ろせば、横たわったサンジの顔に夕暮れが暗い影を落としていた。
哀しく寂しい光景に、胸が締め付けられるように痛い。

ふと濡れた瞳が開いて、サンジの肩越しに背後へと視線が移った。

「ゾロ・・・」
思わぬ『サンジ』の呼び掛けに、サンジは一歩後退りゾロが踏み出した。
「ゾロ、お願いがある」
「なんだ?」
この男に、こんな優しい声が出せただなんて―――
場違いな感動すら覚えて唖然とするサンジの前で、ゾロはそっと身体を屈めた。

「俺、一度も、誰からも愛されたことがねえ」
「うん」
「最後くらい、嘘でもいいから言葉が欲しい」
「うん?」
ゾロは首を傾け、囁くように言った。
「俺でいいのか?」
『サンジ』は頷き、目を閉じた。
祈るような横顔を前に、ゾロは静かに膝を着く。


「サンジ」
背後で息を潜めているサンジの胸が、弾かれたようにどくりと鳴った。

「サンジ、愛している」


かーっと、俄かに身体中の血が逆流したかと思った。
耳のすぐ側に心臓があるかのように、ドクドクと何かが脈打ってうるさいくらいだ。
あんまり急激に血が巡ったせいか、目眩すら感じる。

ゾロが立ち上がり、床を踏み締めるようにしてゆっくりとベッドを離れた。
肘に触れられ促されても、気恥ずかしくて顔を上げることができない。
俯いたままゾロの後を追いながら、サンジは視線を部屋の中に戻した。

『サンジ』は、横たわったまま僅かに片手を上げていた。
弱々しく丸めた手の、親指だけを立てている。
悪戯が成功したような、子どものような顔をして。


最後に見た『サンジ』は確かに、笑っていた。




























サウザンド・サニー号は、再び大海原へと漕ぎ出して行く。
3日空いただけなのに、何故だかひどく懐かしく感じる仲間達との再会で、サンジは一気に日常へと引き戻された。
海軍の目を潜り抜けての出港と、慌しい夕食の支度。
倉庫整理も満足にできていなくて、サンジには感傷に浸っている暇もない。

「なかなかいい島だったな」
「珍しい薬草が手に入ったんだ」
「丁度バーゲンセールの時期だったのよ」
「船番してる間に水槽を全部掃除したんだぜ、どうでえ綺麗だろ」
「うっし、いっぱい魚を釣るぞう」
「こらクソゴム!てめえの皿はこっちだ!」

賑やかで好き勝手で、銘々が喋って笑って文句言って嘆いて――――
サンジは給仕をしながら、和やかな食卓に目を細めた。
今日は何もかもがが、眩しく見えて仕方がない。









不寝番のために見張り台へと引き篭もって、サンジは漸く一息つくことができた。
仲間との遣り取りで気を紛らわせることは容易いが、正直まだそんな気分ではない。

広く快適になった見張り台の窓からは、黒々とした夜が覗いている。
街から見上げた夜空より、よほど明るく賑やかな数の星々が瞬いていた。

火を点けないまま煙草を咥え、空と海の見えない境目をぼうと眺めていると、床がギシギシと揺れた。
口をへの字に曲げて、自然と下唇を突き出す。
顔を合わせるなら彼しかいないが、会いたくないような気持ちでもいる。


案の定、緑色の頭が覗いた。
静止する暇も与えず乗り込んできて、勝手に横に腰を下ろす。
サンジは一旦腰を浮かしてから、拳半分ほど間を空けて据わり直した。

「どうだ?」
ゾロの片手にはワインが握られていた。
サンジが見張り番に差し入れることはあっても、差し入れられるのは初めてだ。
ついくすりと笑いを漏らして、それを隠すように慌てて生真面目な顔を作り横を向く。
「いらね」
わざと素っ気無くして見せたのに、ゾロは頓着するでなく勝手にコルクを開けると、一人で飲み始めた。

気まずい沈黙が二人の間に漂う。
サンジは暫しもじもじと指を絡めたりしていたが、咥えていたタバコをポケットに仕舞って、意を決したように座り直した。
ゾロに身体を向けて頭を下げる。

「どうも、ありがとお」
「・・・・・・」
ゾロの方が面食らったようで、ワインを傾ける手を止めてしまった。
「なんだ、薮から棒に」
「うっせえよ」
顔を伏せたまま、サンジはくるっと身体の向きを変えた。
一応見張りを続行するつもりらしい。

あの、西日に照らされた小さな部屋から廊下に出たとき、そこには見知らぬ男が待っていた。
街で働く何でも屋の類らしい。
ゾロが、店のマスターに伝を頼んで雇ったのだ。
「頼りになんのは、地元のモンだろ」
今回の逗留で殆ど小遣いも使わなかったと、ナミに前借りまでして相応の額を支払ってくれていた。
これで安心とまでは言えなくても、少し気が楽になったのは事実だ。


ゾロは頑なに引き結ばれたサンジの横顔を、酒の肴にでもするように不躾に見ている。
「お前は、なんでそこまであいつに入れ込んだんだ」
それはこっちの台詞だろうと、サンジは内心で毒づく。
それこそ、ゾロにしたら縁もゆかりもない話だ。

「・・・あいつは、もう一人の俺なんだ」
横を向いたまま、ぽつりと本音を漏らした。
「もしかしたらああなってたかもしれない、もう一人の俺だ。姿かたちが似てるってだけじゃなくて、名前まで同じの俺自身・・・」
「違うだろ」
ゾロの言葉が割り込む。
「あれとお前はまったく違う。よしんば境遇が違ってたって、お前があいつみたいになるとは限らねえ」
そう言って、ワインを一息に呷った。
「逆に考えてみろ。もしあいつが予定通り客船の下働きになってたとしたら・・・それなら今の年まで生きてねえだろ」
「もし」とか「だったら」とか、仮定の話はしたくないが、どうしたって考えてしまう。
もしも彼がオービット号に乗っていたなら?
あの嵐を避けることができたのか。
ゼフに助けられたのか。
地獄のような飢餓の島で、生き延びることができたのか。
―――夢を、持たずして


苦いものでも噛んだように口元を歪めるサンジの隣で、ゾロは暢気にラッパ飲みする。
「まあ、お前が娼館に勤めてたとしたら・・・そもそも勤まったかどうかが怪しいな」
「けっ」
サンジは首を竦めて悪態を吐いた。
「俺様に勤まらねえ訳ねえだろう。なんだって本気出して打ち込むタイプだぜ。てめえと違って勤勉なんだ」
「そうだな」
ゾロも素直に同意した。
「今頃、いいパトロン捉まえて、左団扇で過ごしてるかもしれねえなあ」
「ぞっとしねえ・・・」
二人の間に渇いた笑い声が立った。
それもすぐに止んで、さざ波の音だけが辺りを包む。



「あいつは―――」

今だけだ。
交差した運命の狭間で、偶然顔を合わせたもう一人の自分。
彼の人の不幸を嘆くのは今夜だけ。
また明日から、慌しい日常が始まる。
だけど、せめて今夜だけは。

「あいつは、誰にも愛されなかったって・・・」
愛し愛されなかった短い生を、嘆く夜は今夜だけで。

「誰も愛さなかったって、そんなこと・・・ないと思いたいけれど・・・」
自分だって、明日はどうなるのかわからないのだ。
首に懸賞金を掛けられたような海賊暮らしで、何が起こるか知れないグランドラインを命がけで渡っているのに。
でも、だからこそ・・・今この時を大切にしなければ、『サンジ』に申し訳ない。
彼の分まで、人生を背負うつもりだから。
そのために、『サンジ』は名前を明かさなかったのだから―――

「俺は、違うんだからな」
そう言って顔を上げた。
ゾロを見ようと思うのに、首が強張って上手く動かせない。
「俺は、ちゃんと・・・す―――」
言葉がつっかえて、声が出なくなった。
情けないと唇を噛み締めれば、ゾロがそっと動く気配がする。

肩に手を掛けて、力を込めて抱き寄せられる。
先を越されたようで口惜しくて、でもどこかでホッとしてしまった。
ゾロの匂いと熱すぎるくらいの体温が、触れた肌から染み入るようだ。
「慰める、つもりかよ」
「まあな」
悪びれない物言いが心強い。
精一杯の勇気を出して、サンジはゾロの胴に腕を回した。

「もう一度、言ってくれよ」
そう呟けば、ゾロはむうと下唇を突き出した。
「あんなもん、一回言えば充分だ」
少し意地悪な気分になって、上下する分厚い胸に耳を当てて詰った。
「俺に言った訳じゃねえのに」

とくとくとくと、忙しなく駆ける鼓動がする。
この音は耳にまで響く自分のものだろうか。
少し汗を掻きながら自分を抱き締める、この男のものだろうか。

「言葉くらい、くれてやれ」
ゾロの声は、あの時あの部屋で、『サンジ』に向かって囁かれた言葉と同じくらい、優しい。





幼い頃、ほんの一瞬運命が交差しただけのこと。
それでも、サンジは祈らずにはいられない。
彼が彼の人生を全うしたとき、心を満たすものが“悔い”だけではないように―――



サンジの願いを聞き入れるかのように、ゾロの肩越しに見える夜空の向こうで
星がひとつ、流れて消えた。





END 






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