Fortuna
-3-





さざ波のような雨音に誘われて、ゆっくりと目覚めた。
見慣れぬ天井の模様をぼんやりと眺め、昨夜の深酒の名残を味わう。
少し頭は重いが、二日酔いと言うほどではない。

寝そべったままベッドサイドに手を伸ばしたが目的の煙草を探り当てられず、仕方なく身体を起こした。
そういえば、昨夜いつ眠ったのかも記憶にない。
煙草もマッチも、スーツのポケットに入ったきりだろう。

そう大きくないベッドの向こう側から、緑の頭が覗いていた。
どうやら凭れるようにして床で眠ったようだ。
ベッドに入ればいいのにと一瞬思い、慌ててその考えを打ち消した。
こんな狭いベッドで大の男が二人、寄り添って眠るなんておかしいだろう。



椅子の背もたれに掛けたままのスーツを取ろうと立ち上がり、目を瞠った。
部屋の扉からゾロが寝そべる辺りまで、床が濡れている。
どうやら雨の中を濡れて帰ってきて、そのまま眠り込んだらしい。
時間がそれほど経っていないのか、シャツは濡れそぼり髪からも雫が滴り落ちている。
「こんの、馬鹿・・・」
サンジは舌打ちして洗面所にタオルを取りに行った。

まったく、なんて世話が焼ける男だろう。
乾いたタオルで乱暴に頭を拭ったが、ゾロは起きる気配もなくグウグウと安らかな寝息を立てている。
これでも危機が迫れば咄嗟に覚醒できる男だ。
こうして無防備に寝顔を曝すのは仲間の前だからだと改めて思うと、なんともこそばゆい感じがする。


ゾロはいつも服を着替えず、靴も脱がないで眠る。
船の中ならいざ知らず、上陸して宿を取ってもその習慣は変わらないらしい。
一人で旅をしてきた名残か、お尋ね者としての最低限の心得なのか。
けれど、サンジにとってそのことが何故だか寂しい。

「・・・水虫になんぞ、この足クサ男」
秀でた額をぺちんと平手で叩いて、畳んだタオルを目元にそっと宛がった。











ゾロが目を覚ましたのは、昼過ぎのことだ。
相変わらず雨が降り続く薄暗い部屋の中で、サンジは窓辺に椅子を寄せて座っていた。
ゾロが起きる気配を察して、読んでいた新聞を閉じる。
「おう、やっとお目覚めか水虫剣士」
「ああー?」
寝惚けた顔で豪快な欠伸をして、ゾロは「ん〜」と身体を伸ばす。
目尻に欠伸涙が光っているのがなんだかガキくさい。

「ああ、腹減ったな・・・」
「開口一番それか。飯はできてるぜ」
一応、朝食用に買ってきたパンやサラダがテーブルに用意してある。
サンジも食事はまだだった。
いつもならゾロなど放っといて出かけるところだが、この街ではどこに行っても自分の顔が知られているようで居心地が悪い。
結局朝飯の買い出しに行くだけでさっさと部屋に戻り、引き篭もっている状態だ。

「顔洗って来い、飯にしようぜ」
「おう」
のそりと立ち上がって頭を掻きながら洗面所へと向かう後ろ姿を見送って、サンジは新しいコーヒーを淹れるべく立ち上がった。









「見つけた、だと?」
テーブルを挟んだ向い側で、サンジは口にしたコーヒーを噴き出す勢いで叫んだ。
対してゾロは、黙々と咀嚼を続けている。

「見つけたって、あれか・・・てめえ、探したのか」
「ああ」
昨夜、サンジが酔い潰れて寝てしまってから街を彷徨って見つけたらしい。
なんだか頭が痛くなった気がして、サンジは額に手を当てて呻いた。
「なんだってそう、てめえは余計な真似をすんだ」
「ああ?てめえが会いたいつったからだろが」
「なんで俺が見ず知らずのニセモノに会いたがるよ」
「会ってボコボコにするっつっただろうが」
昨夜の記憶があまりはっきりと残っていないから、サンジはやや弱腰で抗議した。

「だからって、ほんとに見つける奴がいるかよ。天才的な方向音痴のクセして!」
「金髪の死に掛けつったら、すぐに行き当たったぞ」
ゾロは悪びれず、千切ったパンを口に放り込む。
「確かに死に掛けだったから、てめえが引導渡してやれ」
その言葉に、サンジの顔が僅かに強張る。
「・・・そいつ、マジで俺に似てんのか?」
「似てねえ」
あっさりとゾロは応えた。
「髪の色と目の色と、身体つきが同じなだけだ。間違えようもねえ」
「・・・物凄く似てんじゃねえか」
サンジは横を向いて煙草を取り出すと、火を点けて軽く吹かした。

「その、意識ねえの?」
「意識はある。ぼんやりしてるがな」
ゾロはコーヒーを飲み干すと空のカップを差し出して無言でお代わりを要求した。
些かむっとしながらも、大人しく注いでやる。
「お前のことを、知っていたぞ」
コーヒーを注ぐ手を止めて、サンジはゾロを見返した。

「どうする?会うか?」
「会うも何も・・・」
フィルターを噛んで、サンジはゆるく首を振った。
「会う以外、ねえんだろうが。ったく厄介なことに首突っ込みやがって―――」
「ぼうっとしてるから、会わなくてもわからねえと思うが」
「うっせえ、これも何かの縁だってんだよ。四の五の言うんじゃねえ」
最後は自分に言い聞かせるようにして、サンジは空になった煙草の箱を丸めて捨てた。







実際、名前も覚えてないような男に会ったところでどうにもならないとわかっている。
積もる話があるでなし、会いたいとも懐かしいとも思わないのに、なんとなく放っておけなかった。
死に掛けていると言うのも気に掛かる。
この島に立ち寄って、顔見知りに声をかけられたのは偶然なのか必然なのか。
まるで、呼ばれたかのようだ。



暗くなってから行くような場所じゃないとゾロに言われて、サンジは反射的にカチンと来た。
そういう台詞はナミのような、か弱い女性に言うべきものだ。
そう抗議すると、ゾロは真顔で首を振る。
「少なくとも、お前はこの辺じゃ『売れてる顔』なんだよ。下手にトラブル招いてコトが大きくなったらどうする」
ゾロの言うことはまさしく正論で、結局サンジはそれ以上反発できなかった。

朝食だか昼食だかわからない食事を終えて、都合よく雨も上がった。
濡れた石畳を踏みながら早速ニセモノの住む場所へと向かったが、ゾロの案内で無事に行き着く訳はなかった。
結果的に、サンジが「この顔」を曝しながら聞き歩き、ようやく辿り着いた有様だ。












「ああ、ここだここだ。明るいと場所が違って見えるな」
「てめえが迷う理由はそこじゃねえだろ」
鼻をつくドブ臭さに閉口しながら、サンジは盲いた老婆に軽く会釈して前を通り過ぎ、軋む階段を踏み締めた。

昼間でも夜でも墓場のような静けさだが、かすかに廊下の奥で物音がする。
ゾロは一瞬動きを止めて、それから大股で駆け上がった。
「おい!?」
慌ててサンジもその後に続く。


ゾロは暗い廊下に続く幾つもの扉の、閉ざされた一枚を蹴破るようにして中に飛び込んだ。
驚いて振り向く隙も与えないで、中にいた男を殴り倒す。

「おい!」
一拍遅れて中に飛び込んだサンジは、そのままその場に立ち竦んだ。
乱れ汚れた部屋の隅で、傾いたベッドの端から白い裸体が流れ落ちるように倒れている。
その隣には、ゾロに殴られて昏倒した男。
下半身を寛げて、半分覗いた尻が汚らしい。

「なんだこいつ・・・」
サンジは顔を歪めて壁伝いにゾロに近付いた。

「大丈夫か?」
シーツで包むようにして、ゾロにしては慎重な手付きで白い肢体を抱きかかえている。
気絶しているのかと思ったら、落ち窪んだ目は薄く開かれていた。
褪せた金髪と渇いた肌。
死の影を色濃く映したその顔には、僅かに昔日の面影があった。

焦点の合わない視線が宙を漂い、サンジの目の位置で動きを止める。
薄い虹彩が微かに光を弾いたようで、ひび割れた唇がゆっくりと解けて綻ぶ。

「―――サンジ?」
喉の奥から漏れ出た声は、喜びに満ちていた。




「あー、えっと・・・」
名前を呼ぼうにも思い出せず、サンジはただオロオロと手を動かしてその場にしゃがみ込んだ。
姿勢を低くして視線を合わせれば、確かに男はサンジを見つめて微笑んでいる。
ゾロはあまり揺らさないように静かにベッドに横たえさせると、転がった男を摘まみ上げて部屋の外に出て行った。
それを見送ってから、はっと気付いたように薄い身体にシーツを掛け直してやる。

『サンジ』は全裸で、シャツも身につけていなかった。
気温が低いわけではないが、剥き出しの痩せた肩が寒そうで痛々しい。

「あのよ、俺のこと、知ってるのか?」
サンジが問えば、微笑んだまま頷く。
「ああ。サンジ、懐かしいな」
ふうと小さく息をついた。
そのまま呼吸が絶えてしまってもおかしくないような、ささやかな吐息だ。
「懐かしいな、ちっとも変わってない」
お前も、と言いかけて言葉を飲み込む。
お世辞でも、そんな見え透いた嘘は吐けない。


外で派手な破壊音がしたと思ったら、ゾロが戻ってきた。
察するに、先ほどの男を2階から落としたらしい。
「ゾロ、今の・・・」
サンジの疑問に、『サンジ』が横たわったまま応えた。
「たまにいるんだ、ああいうの。・・・死に掛けが好きな奴」
「え?」
驚いて振り返れば、『サンジ』は口元に笑みを張り付かせたまま目を閉じた。
「犯り殺せる、だろ。前も別の奴が来たけど、俺、後で息を吹き返したんだよな・・・」
再び開いた瞳は、硝子珠のように空虚だ。
「・・・割と、しぶといみたい、で―――」
サンジは何も言えなくて、ただ唇を噛み締めた。

「あのな、俺、あんたの名前とか覚えてねえんだ。悪いけど」
『サンジ』はまた微笑んだ。
「名前とか覚えてねえけど・・・あれだろ、ガキん時一緒だった。俺とよく間違われてた・・・」
こくりと頷く、線の細い顔立ち。
「ああ、なんて呼べばいいんだ?教えてくれよ名前を」
『サンジ』の瞳が、一瞬輝きを帯びた。

「俺は、『サンジ』だ」


断固とした響きがあった。
サンジの方が戸惑って、つい後ろのゾロを振り返る。
ゾロは戸口で腕組みしたまま、成り行きを見守っているようだ。





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