Fortuna
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日暮れの早い街を、ゾロは闇に呼ばれるように迷いなく歩いていた。
表通りの華やかさとは程遠い、暗く湿った陰気な空間。
濡れた石畳は血や汚物の跡が染み付き、淀んだ溝から異臭が漂っている。







崩れた壁に背中を預け、タバコを吹かしている女が、媚びた笑みを浮べた。
塗りたくった顔と大きく開いた胸元の盛り上がりが、暗がりに白く浮き出て見える。
「立派な剣士さんね。こんな掃溜めになんの用?」
造られた顔に不似合いなしゃがれ声だ。
相当、年はいっているのだろう。
「人を探している」
立ち止まりそう応えれば、女は片頬を歪めるようにして笑った。
「それ、あたしじゃないの?」
「残念だが違うな。金髪の男だ」
途端に、女の顔が白けた。
「やだそっち?」
「知っているのか?」
「さあ。髪の色が金色の男なら、それこそ掃いて捨てるほどいるわよ」
「そろそろ死に掛けてるらしい」
ふうんと女は気のないそぶりで煙草を吹かした。

「死に掛けだかもう死んでるかはあたしも知らないわよ。そう言えば、最近見かけないわねえ」
「知ってるのか?」
「よくあたしの商売邪魔してくれたもの。女と見たらみんなに甘い言葉をかけてフラフラしてるくせに、人の客横取りしたりして。一度思い切り引っ叩いてやったら、この辺には近寄らなくなったけど」
「どこにいるかは、知らないのか?」
女は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「知るわけないでしょ、あんな薄汚い泥棒猫の塒なんて」
そう言ってから、ああと呟いて含み笑いをした。
「そう言えば半年ぐらい前にリンチにあって、あっちの方はもう使い物にならないって話よ。やっぱりあたしにしとかない?」
剥き出しの肩を押し付けるようにして、擦り寄ってくる。
安い香水の匂いが鼻をついたが、ゾロは表情を変えず背中から腕を回して女の肩を軽く叩いた。
「ありがとうよ、また今度な」
少し力を込めて抱き寄せ、離れた。
音もなく立ち去っていくゾロの後ろ姿を、女は自分の腕を抱きながら、恍惚とした表情を浮べて見送っている。













外灯もなくほとんど闇に包まれた裏路地を、ゾロは適当に歩いた。
時折足元に転がっているズタ袋の中には何が入っているのかも知れず、大きな袋かと思ったら小柄な年寄りが寝転がっているだけだったりする。
ニャーと鳴いて横切る猫にでも話しかけようかとした時、ゴミ箱の陰に蹲る老婆の姿を見付けた。

ゾロの姿を認めて顔を上げる。
話ができそうだ。


「悪いな、人を探してるんだ」
驚かしたかと詫びたが、老婆はにやりと笑った。
歯のない口はやけに赤くて、底の見えない洞穴のようだ。

「黒いスーツ着た金髪の男を知らないか?もしかすると死に掛けてるかもしれねえが」
「ああ」
老婆の声は思ったより若々しかった。
人間、見た目だけではわからないものだ。

「死に掛けの金髪・・・本物の金髪なら、サンジかえ」
「・・・そうだ」
ひっひ、としゃっくりのように笑う。
「さあてねえ。もう死んだかまだ生きてるか、知らないねえ」
「そりゃあこっちで確かめる。いる場所を知らないか」
老婆は思案するようにこめかみの辺りを掻いた。
黒ずんでひび割れた爪が、白髪の中で泳いでいるようだ。

「まだ追い出されてなきゃ、ヨハンナの2階だろうよ」
「それはどの辺りだ?」
爪が、髪の間から闇を彷徨うようにしてすうと動いた。
老婆が背後を振り向かずに指差したところに、傾きかけた古い建物が覗いている。
「そこさ、その2階。部屋はいくつかあるけど使ってりゃ女のイイ声が聞こえるし、使ってなきゃ中は空っぽだ。誰かがいる部屋にはサンジが寝てるさ」
「ありがとう」
礼を言って脇を抜けようとするゾロの前で、老婆は身体を傾げた。
「お待ち。誰もタダで教えてやるとは言ってないよ」
か弱い身で絡んでくる老婆に、ゾロは苦笑した。
「そうか、礼は何がいい?」
腰に刀を三本も提げて腕を組むゾロを、老婆は眩しげに見上げた。
「あんたの、立派そうなもんを咥えさせとくれ」
ゾロは一瞬目を瞠ったが、すぐに眉を曇らせた。
「そりゃあまずい。あんたのその口じゃあ、顎が外れるか喉を詰まらせちまう。俺のせいでおっ死んじまったら、目覚めが悪いだろ」
大真面目なゾロの顔につられるように、老婆も暫く呆気に取られた顔をしていたが、その内カカと笑い出した。

「そりゃあそうさね。んじゃ今回は止めとこう」
そう言って身体をずらしてくれた隙間から、ゾロは階段を上がった。











ヨハンナとは、盲いた老婆の名前らしい。
薄汚れた部屋の片隅で、揺り椅子に身体を預けてうつらうつらと舟を漕いでいる。
ゾロは何度か耳元に口を寄せて、大きな声で話しかけたが反応はなかった。
息をしているから死んでないのがわかる程度だ。

断りを入れるのは諦めて、ゾロは軋む階段を踏み2階に上がった。
耳を澄ませても女の喘ぎ声は聞こえてこない。
殆どの扉が中途半端に開かれ、荒れ放題の部屋が覗けた。
廊下全体に朽ちた木の臭いが漂っている。

一つだけ、固く閉ざされた扉に向かい、ゾロは足を止めた。
気配を探れば、確かに中に人がいるのがわかる。
一瞬躊躇ってから、扉を軽く叩いてみた。

応えはない。
叩いた震動で鍵が外れ、軋みながら誘うように開いていく。





饐えた臭いが鼻をついた。
破れたカーテンの隙間から、仄かに差し込む月明かりで、部屋の中が見渡せる。
ベッド以外何もない部屋。
床には衣類が散らばり、割れた皿や齧りかけのパンやらが残骸となって散乱している。
ヒビの入った窓の手前に据えられた、傾いたベッドの上に男が一人寝転がっていた。
薄汚れたシーツの隙間から覗く金髪は色褪せ、月明かりの下で白髪のように鈍い光を放ち浮いている。


ゾロが一歩足を踏み入れると、腐った羽目板がきしりと鳴って床が沈んだ。
踏み抜かないように用心しながらゆっくりと近付く。
長い前髪に隠れた目元は、薄く開いているのがわかった。
そこだけまだ色を残す蒼が、輝きを失って瞼の奥に沈んでいる。
ゾロの動きを追いながらも、そこにはなんの感情も浮かんでこない。
怯えも怖れも、喜びも。




「あんたが、サンジか」

なるほどとゾロは思った。
まさにこいつは死の淵にいる。
部屋に立ち込めた臭気は、間もなく訪れるであろう男の死を予言しているかのようだ。



「・・・あんた、誰?」

ひび割れた唇が開き、言葉のような音が漏れた。
「死体が好きなら、もうちょっと待って・・・」
この期に及んで、媚びるような声音だ。
ゾロは少しイラついて、男の視界に入るように身体を寄せた。

「俺の名は、ロロノア・ゾロ。お前に会いたいって奴がいる。ここに連れてきてもいいか」
「・・・誰?」

訪問者などいるわけもなく、ましてや自分に会いたがる人間など、この世にいないと思っていた。
普通このような展開なら不審に思い訝るだろうに、目の前の肉塊は思考する力も失くした様だ。

「あんたに会いたがってる奴は、あんたと同じ名を持ってる」
横たわるサンジが、ほんの少し目を見開いて息を呑んだようだった。







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