遠雷 -7-


夕方になると、少し暑さが和らいで過ごしやすくなってきた。
ゾロが納屋で農機の手入れをしている間、サンジも庭に出る。
貸してくれた帽子は少し大きくて、タオルを両サイドに長く垂らすようにして顔を保護し上から帽子を被り直した。

鉤でコンコンと乾いた土を叩くとすぐにひび割れ、たやすく根っこが引き抜ける。
なるべく根を残さないように、指先に力をこめて丁寧に抜いていった。
乾いた土の上から緑がなくなっていくのは、妙に清々しく気持ちいい。

土を叩き草を抜く。
単純な作業の繰り返しの中で、徐々に時を忘れ場所を忘れ、考えることを忘れた。
ただ、目の前の草を抜くこと。
それだけに没頭し、黙々と同じ姿勢で作業を続けた。



ぽつりと、手の甲に滴が落ちて、その冷たさに我に返る。
「あ」
しゃがんだまま空を仰ぎ見れば、先ほどまでの青空はどこへ行ったか、一面が黒雲に覆われ夜のように薄暗かった。
懐から携帯を取り出して時間を確認する。
―――5時過ぎか
夕方ではあるが、夕焼けらしき紅の光がまったくない。
不気味な静けさの中で、風ばかりがつよく吹き始める。

「そろそろ中に入るか」
ゾロが納屋から顔を出し誘った。
「おう」
答えて立ち上がろうとして、半端に腰を屈める。
同じ体勢をずっと続けていたせいで妙に強張ってしまったか、身体全体が軋むようだ。
「いてー」
「すげえ熱中してたからな」
またしても1時間強、草むしりに没頭していたことになる。
料理に専念しているときも時間を忘れることはままあるが、ただの草むしりでここまで忘我の境地に至るとは知らなかった。

「あー身体中がバキバキ言う」
「今日は風呂沸かしてゆっくり浸かろうぜ」
つい、夏場はシャワーだけで済ませてしまうことが多いが、汗を掻いた今日みたいな日は温かい湯に浸かるのもいいだろう。


川戸で手と鉤を洗って家の中に入った途端、さあとジョウロで庭先に水を撒くみたいに雨が降ってきた。
「ナイスタイミング」
西風が強くなったから、全開にしていた家中の窓を閉めて回る。
雨脚が強くなり、跳ねが飛んだ縁側はすこし湿気っていた。
「土砂降りになるかな」
「多分な」

先に風呂に入ってから、夕食の支度に取り掛かる。
さっき入ったはずのゾロがもう上がってきていて、サンジの隣に立って今日の晩飯は何だと手元を覗き込んだ。
「ほんとに烏の行水だな」
「いや、結構長く浸かってたんだぞ」
サンジの背後をウロウロしてつまみ食いしたそうなゾロの口に、煮付けたばかりのミニジャガイモを放り込んでやる。
「熱いぞ」
「はふひは」
口を半端に開けてはふはふ言っているゾロに、皿を並べるよう指示した。
「ダンボールん中に、小粒のジャガイモがいっぱい入ってただろ、あれ使った」
「ああ、あんな屑じゃがいもよりでかいのがあっただろうに」
「バカだな、小粒なのがいいんじゃないか」
指先大の小粒のジャガイモを綺麗に洗って皮ごと素揚げし、醤油で甘辛く煮ればかなり美味い。
これは大きなジャガイモじゃできない料理だ。
「確かに美味い、もう1個」
「だーめ、すぐご飯」
早く食べたいものだから、ゾロの動作がキビキビし始めた。
茶碗を揃え箸を出し、冷蔵庫から漬物とビールも出してコップを並べる。

「ほい、マーボー茄子にトマトそうめん」
「うし!」
ビールがありながらご飯もよそって、二人向かい合わせに座り同時に手を合わせた。
「「いただきます」」
声を揃えて、まずはビールで乾杯する。
同時に喉を鳴らして飲み干して、ぷはーと息を吐いた。
「やっぱ夏はビールだな」
「風呂上りはサイコー」
ゾロの家にはテレビがないから、いつも食卓は静かだ。
だが虫の音が鳴っていたり風の音がしたり、今日みたいに雨音がうるさいくらい響いてお互いの声が聞こえ辛かったりと、ちっとも寂しいことはない。

「しかしよく降るなあ」
「たまに、夕方から夜中までこうやって降ることがある。去年くらいからかな、あんまり極端に降るからよくねえんだ。昨日の祭りなんかは晴れててラッキーだった」
「そうだな」
缶ビールを注ぎ足して、サンジは口をはふはふ言わせながらジャガイモを頬張り、うめーと呟いた。
「けど俺、こうして雨降ってんのも嫌いじゃねえんだ。家の中で聞く雨音っての?つまり自分が安全圏にいることが条件なんだけど」
「ああ、わかる気がする。例えば出先の駅なんかでこんな降りされたらムカつくだろ」
「そうそうそう、邪魔だってんだって空を見上げるね。けど今なら濡れる心配もないし、安心して雨音を楽しんでられる。巣の中で寛ぐ熊みたいなもん?」
「・・・熊かよ」
まあなんとなくわかる。

「冬でもそうだな。家の中からどんどん降り積もる雪を見てるのは、結構楽しい」
「それは翌日出かける予定がないという条件付で」
「急いで行かなきゃならないのに、電車とか停まったらおのれ雪め!とか言うんだよこれが」
そうそうそうと頷きあって、早いピッチで缶ビールを開けていった。
これから出かける予定もないし、後は眠るだけだ。
安心安全な家から土砂降りの外を眺めるのは、不謹慎だがワクワクする。

「土砂崩れとか、この辺り山がないから大丈夫か」
「おう、目の前の川が氾濫すると厄介だがそこまでは降らないだろう。田んぼの冠水のが心配だな」
とは言え、自然の脅威には誰も逆らえない。
農業を始めてから、自分の非力さを痛感させられることが多いという。
「結局、農業だって自然のサイクルの一部を借りさせて貰ってるってことだ。先代からの知恵と経験と力を借りても、実際、食えるほどの分を作るのがやっとだ。成長してでかくなって大人になっても、自分一人の力で生きてるんじゃねえ、俺は色んなものに生かされているんだなとつくづく思うことがある」
「・・・うわあ」
ゾロの口から、そんな殊勝な言葉が出るとは思わなかった。
「えーだってよ。農業ってまあ自営業で、だから自分一人の考え方で色々できて誰の命令とかもねえじゃん。まあ、組合とか法人組織とかあるかもしれないけど、サラリーマンとかよりよっぽど自由じゃね?なのに、そう開眼したんだ」
「そう言われれば、そうだな」
サンジの指摘に素直に首を傾げるゾロが、なんだかガキくさくておかしい。
「思い通りに行かないことが、多いからかな。去年できたことが今年はうまくいかなかったり、失敗したはずが、すげえいいもんが採れたり」
「まさに、自然の力は未知で偉大なんだな」
「そういうことだ」
サンジは湯気の立つ茄子を端で摘んで、目の前に持っていった。
「そして俺は、その恩恵を受けている」

ありがたいと、心の底から感謝の念が沸いてきた。
こうして美味いものを食べられることも、美味いと言われる料理を作れることも、その料理を作る食材をゾロが作ってくれたことも、そんなゾロと出会えたことも。
今こうして、目の前にゾロがいてくれることも―――

思わずじっと、ゾロの顔を見つめてしまった。
なんだ?と問いかけるようにゾロの目玉がぎょろりと上を向いたが、特に声に出すこともなくサンジを見つめ返している。
しばらくしっとりと見つめ合っていたら、台所の窓から強い光が一瞬、瞬いた。
「なんだ?」
自然に視線を逸らして、サンジが大げさに肩を竦めた。
内心は心臓バクバクだった。
なに男と見つめ合ってんだよ、俺!
我に返ると恥ずかしいが、これもビールが回ったせいだろうか。

窓の外から、時折思い出したような感覚で何度か光が瞬いた。
「稲光だな、音がしないからかなり遠い」
「それにしちゃ、すげえ光だな。車のヘッドライトかと思った」
「確かに似てるな」
とは言え、こんな荒れた天気の中、表を走る車の影もない。
川向こうのお隣さん達は、今夜も賑やかに酒盛りをしているのだろう。

あっという間に夕食を平らげて片付けてしまってから、まだ飲み足りないのかゾロは焼酎を出してきた。
サンジは専用の梅酒を焼酎で割って、ちびりちびりと舐めている。
「腹いっぱい食ったのに、酒は入るとこ違うのな」
「お前が飲みすぎだ。このウワバミめ」
「お前こそ飲みすぎんな、弱いんだから」
「誰が弱いか!」
いくら飲んでも顔色に変化がなくまったく素面のゾロと、少し舐めただけで真っ赤になりまず足から来るサンジとでは、基本的に酵素分解能力が違うのだ。

案の定飲み始めて30分後には、ずるずると畳に懐き始めた。
「布団敷いてやろうか?」
「いつもいつも、てめえにさせてっじゃねえか、それくらい自分でできる」
ふらつく足で押入れの襖に凭れる。
古びて弱くなった襖紙は、サンジの肘が当たっただけで大きく破れた。
「あり?やべー」
「ああもういいから、座ってろ」
卓袱台を移動させてスペースを空け、今度はサンジを担ぎ上げて廊下に下ろす。
「なんだコノヤロー」
しっかり下ろされてから、何すんだと一人で手を振り上げている。
酔い過ぎて、テンポがずれるのだ。

テキパキ布団を敷いているゾロを横目で見ながら、サンジは廊下にぺたりと寝そべった。
冷えた床板がのぼせた身体に心地よい。
「あー気持ちいー」
雨が降ったせいでぐんと気温は下がったが、それでも湿気が酷い。
ざあざあと止め処なく流れ落ちる雨粒が、風向きによってサッシ窓に飛沫のように散っている。
「ずーっと降ってるな」
ピカンと目を射るような光が弾いた。
少し遅れて、ドドーンと腹に響く重音が古い家屋を揺らす。
「うっわ、すげ・・・」
サンジは顔を上げ、怯えた目で天井を見上げた。
「家、崩れねえ」
「簡単に崩れるかアホ」
その合間にも夜空はビカビカ光り、一拍遅れて雷鳴が轟くようになって来た。
「うおー響くー」
廊下に寝そべったサンジは、床に直に耳を当てて振動を感じている。
「光ってから鳴るのが早くなってる、近付いてんな」

布団を敷き終わり、ゾロは膝を着いたままサンジの方へにじり寄った。
「ほら、寝ろ」
「待って、すげえ稲光が見える」
ゾロに背を向け、下の部分だけ透明な窓ガラスに顔をくっつけて、サンジは遠くの雲が光るのを見ていた。
あまりに無防備な後ろ姿に、ゾロの中の悪戯心がむくむくと起き上がる。

―――こいつ、油断し過ぎじゃねえのか
昨日も今日も昼間にも、何度か濃い感じの接近があった。
ゾロだけが意識しているわけではないと、言葉にせずとも理解ができる。
何せ二人とも大人なのだ。
酸いも甘いも知らないような、小学生のガキ同士じゃない。



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